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「あっ、千秋じゃねーか。昼に来んのは初めてだな」 全開の笑顔でいきなりそう言われ……。 千秋は思わず、隣に立つ親友をそっとうかがった。 表情は見えなくても、かなり面食らった様子であるのはわかりきっているのだけれど。 とはいえ、彼を無視するわけにもいかず、いつもの調子で言葉を返す。 「私はいつも昼、来てるわよ。あんたこそどうしてこんな時間にバイトなの? 学校はどうしたのよ」 「もう7月だよ。テスト休み」 「テスト、って、勉強は?」 「普通、テスト休みって言やあテストが終わってからだろ? あっ、そうか、ずーっと昔のことだから、忘れてんだな」 うう、図星だ。悔しい……と思いつつ応酬する言葉を探していると、うしろから服を引っ張られた。 にっこり笑った沙希の、興味津々の瞳が、「誰?」と聞いている。 しまった、陸のペースに巻き込まれ、彼女といっしょだったのを、一瞬、忘れてた。 大きなガラス窓から、太陽の光が降ってくるこのカフェは、昼間はまったく違った顔を見せる。 夜はライトアップされる中庭の木々は、自然の光の中で、くっきりと鮮やかな緑。店内のあちこちに置かれたエスニックカラーも、夜とはまったく違う本来の色を、はっきりと主張していて。 たぶんこの店は、どちらかといえば昼間を基本として作られているのだろう。メニューに載ったチャイやケーキの種類も豊富で、ランチメニューも充実している。そして、ここの本格的インドカレーや、中近東風のピラフは、職場の仲間内でも美味しいと評判だった。 だから千秋も何食わぬ顔で、時々沙希や他の同僚たちと、ランチを食べに訪れていたのだけれど。 まさか、いきなり陸に鉢合わせしてしまうとは……。 「誰よ、誰? あの子」 オーダーを聞いた陸が引っ込んだとたん、沙希が身を乗り出して聞いてきた。間近でみる瞳が、好奇心に輝いている。ごまかすのは多分、不可能だ……といっても、ごまかすことなどなにもないような気もするのだけれど。 「夜のバイトの子よ。ほら、会社帰りにたまに寄ってるって、話したでしょう? だから顔ぐらい覚えてるのよ」 「単なる顔見知りじゃないでしょう。だってあんた、名前呼び捨てにされたじゃない」 沙希の質問はいつも、単刀直入で鋭い。思わずたじっとなりながら、負けず答える。 「今どきの子だもの。あんなもんよ」 「今どきの子……って、あの子、いくつなの?」 「17」 「うわ、高校生たらしこんでどうするのよ」 「違うって」 なんだか暑い、と思いつつ、千秋は何度も水を口に運んでいた。あまりといえばあまりな沙希の誤解に、うろたえた手が、テーブルに置こうとしたグラスを倒してしまう。底に2センチほどしか水は残っていなかったというものの、あっという間にインド綿のテーブルクロスに大きなしみができた。 長い付き合いなのに、彼女がそんな粗相をするところなど見たこともない。沙希は驚いて、近くにいるウェイターを呼ぼうとした。だけど彼女が手を上げる前に、電光石火、布巾を持って飛んできた奴がいる。 「またやってんのか千秋、しょうがねえなあ。お前はほんとにいつもいつも……」 さっきの男の子だった。こんなことは慣れていると言わんばかりの手際の良さ。しかも、近くにウェイターは何人かいたのに、この子、なんだか千秋の専属って感じじゃない? 千秋はといえば、ばつの悪そうな表情で、テーブルを拭く彼を、ただ、見つめているのが不思議だった。ふだんの彼女なら、布巾をさっと取り上げて、自分でさっさと片付けてしまうだろう。 なんだかおかしい。 鋭い女友達の胸に、疑惑が生まれる。 「要するに、あれよ。『元気の素』ってやつよ」 食後のチャイも飲まず、いつもの公園に引っ張り出され、さらに追求された千秋は、観念したように、そう答えた。 「元気の素?」 沙希は聞き返す。何が「要するに」で何が「あれ」なのか、さっぱり要領を得ない。 「ほら、私たちと同じ年頃でも、ジャニーズの男の子に熱上げたりするでしょ。それと同じ。平凡な毎日に彩りを添えてくれる存在っていうか、落ち込んだ気持をちょっと元気にしてくれるっていうか……」 と、彼女らしくもないごたくを並べ出す。そうとう困ってるわね、これは。なんだか面白くなってきたと、沙希が黙って聞いていると、彼女はきっぱりとこう言って、言葉を切った。 「別にそれ以上でもそれ以下でもないの。言わなくてもわかってるだろうけど、恋愛対象とかじゃないわよ。はい、これで話はおしまい」 「元気の素」……陸のことをそう認識するようになって、彼と接するのがラクになった、と千秋は思っている。 少し前までは、近くにいるだけで心を乱されてしまって大変だった。いっしょにいて、その姿を見て、言葉を交わすのがうれしい反面、心のどこかで居心地の悪さを、ずっと感じていた。 本来恋愛対象にすべきではない相手に、恋愛に近い気持を抱いてしまっている。 居心地の悪さの正体は、そういったことだったかもしれない。 だけど決して、恋じゃないのだ。違う世界に住む相手に恋をするほど、軽はずみな人間ではないつもり。だけど、そうだとすると、この気持っていったい何なのだろう。いろいろ考えて、悟った。 陸を見てると元気になれる。それだけでいいじゃない、って。 同じ年代の主婦やOLが、アイドルに熱を上げるのと同じこと。心が萎えてしまうような現実を一時でも忘れさせてくれる、そしてどうにか頑張ろうという気持にさせてくれる。多分、それが、あの男の子の存在なのだ。彼がアイドルではない生身の男の子であるのは、幸か不幸かといったところだけれど、恋愛の対象になりえる相手じゃない。それは同じ。 ただ、彼が居てくれることに感謝してる、それでいいじゃない…そう、思ってる。 「なるほどね」 沙希は言った。千秋の気持、わからないでもない。 ほんの少し顔を合わせたきりだというのに、不思議と強い印象を残す男の子だった。元気がいっぱいつまっているような、大きな身体。男っぽく整った顔立ちに、無邪気な笑顔と仕草、天真爛漫な様子は、どこかしらスケールの大きささえ感じさせて…。沙希はといえば目下のところ「息子命」の状況だから、さして惹かれることもなかったけれど、だからこそ客観的に見ることもできる。年上の女は、ああいうタイプに弱いはず。 ただでさえエネルギー不足の千秋の心が、不可抗力にあの男の子にひき寄せられてしまうことも、生真面目さゆえに、その事実に対してひどく抵抗を感じてしまう心のありようも、長い付き合いの沙希には手に取るように理解できた。だからこそ、「元気の素」なんて言葉が出てくることも。 でも、彼女は思うのだ。本人が思ってるほど単純に割り切れるわけでもなさそうだわ。だってあんなことを言いながら、千秋の頬はどういうわけか、赤く上気してしまっていたのだから。 結婚している28の女というのは、意外にどうしようもないほど純情なものなのではないかと、沙希は思う。ずっとひとりの男にかかりきりになってて、長いこと恋なんてしてない。逆に恋が人生の全てではないと割り切れるほど、経験を重ねてきているわけでもない。 例えば千秋の場合は5年、5年も智史しかない日々を送ってきたわけだ。それに人並み以上に真っ直ぐで不器用で割り切るということを知らない彼女のこと、単なる「元気の素」だなんてクールなふりをしてても、内心、ぐらぐらきてるんじゃないかと思う。よりによって、あんな男の子になつかれちゃってあの子も苦労するわよね。まあ、千秋にしては健気に踏ん張ってるみたいだけど。 そう、軽い気持で考えてたのだけれど。 ちょっと違うみたい。彼女がそう感じるのは、陸と2度目に会ったときのことである。 「あ……、ども」 物覚えの悪い子ではないらしい。店に入ってきた沙希を見て、彼は軽く頭を下げた。そして……。 その視線が我知らずといった風に、彼女の背後をさまようのを見て、沙希は「え?」と思う。 「千秋なら来てないわよ。あの子は今日は早番だったから、お昼休みは終わってるもの」 試しにそう言って見ると、彼は一瞬、虚を突かれたような表情をし、その顔が少しばかり、赤くなった。 それから夏休みの間、そんなことが何度もあった。単純にここのカレーが食べたいこともあり、なんだかんだ言っても確実に千秋の心の一部分を占めているはずの男の子に対する好奇心もありで、昼休み、前よりも頻繁にこのカフェを訪れるようになった沙希なのだけれど。 千秋と2人で行けば、彼の視線は真っ先に彼女に吸い寄せられる。その一瞬、他のものは何も目に入ってないという感じ。千秋は全然気づいてないみたいだけど、横で見ている方が、どきっとしてしまう。 そして、ひとりで行ったり、他の同僚と行ったりすれば、やっぱりその視線は、真っ先に誰かを探している。それでも元来人懐こい性格らしく、千秋の不在を気にもしていないようすで、いろいろと話しかけてはくるのだけれど。 気が付けば、何時の間にか、話題は千秋のことになっている。たぶん本人も気がついていない、それほどのさりげなさ。いつも親友のことをそれなりに気にかけている沙希だからこそ、わかることだったかもしれない。 これって何? 沙希は不思議になる。千秋の場合は、自分の気持を意識して抑えているようなところがあったけれど、この男の子はまったくの無自覚だった。自分でもぜんぜん気づかないまま、惹かれているという気持を露呈してしまっている。そんな風に思える。 単なる「元気の素」では終わらないのかもしれない。そんな予感がした。それは、傍で見ている沙希にしか、わからないことであったのだけれど。 |
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