L.N.S.B [ Story - 10]
 最終電車に乗って、家に帰る。廊下の灯りはついていて、智史が帰っているらしいことはわかるけれど、もう眠っているのか、人の気配はしない。
 少しほっとすると同時に、深い疲労に襲われる。パンプスを脱いで部屋に上がると、智史が早く帰ってきたときの常で、家の中は惨憺たる有様だった。
 廊下に脱ぎ捨てられた靴下を拾い、洗濯機に入れる。玄関先に放り出してあったアタッシュケースや、周りに散らばった書類や請求書類をまとめて持ち、リヴィングへ行く。
 ソファの背にかけられたスーツをハンガーにかけてクロゼットにしまい、広げたまんまの新聞や雑誌をたたんでマガジン・ラックに入れ、裸のまま床に放り出されたいくつものCDやMDを本来のケースに戻してラックに片付け、その横でくしゃくしゃと丸まっているワイシャツや下着を、洗面所へ持っていく。
 そこにはふたも閉めずに放ってある歯磨きやローションやコロン。シャワーを浴びた後は、いつものように身体も拭かずあちこちを歩いたのだろう。冷たく濡れた床に足を滑らせ、千秋は顔をしかめた。
 座り込んで、雑巾で拭く。まだ着替えてもいない。今日みたいに心も身体も疲れきって、何もかも投げ出したい気持で帰ってきた夜は、その虚しさに、泣きたい気持になる。
 仕事が好きだといっても、いつもいつも楽しいわけじゃない。小さなトラブルが続き、思うように仕事が進まず、一筋縄ではいかない客に故のない叱責を受け、ぺちゃんこになりそうな一日だった。トラブルの後始末が終わって会社を出たときは、もう終電間近。いつものカフェに寄るわけにも行かず、電車に飛び乗って帰って来た。
 本当に辛いのは、家に帰っても心が休まらないということ。智史の無言のプレッシャーは、いつも容赦ない。本来彼は部屋を散らかしていて平気というタイプではない。ただ、かたづける役割が自分の母親から千秋へ移ったと思っているだけ。そうしたことを自分でやるのは、彼にとってはプライドに関わる大問題らしい。
 だから、放っておけば、日に日に悪くなる彼の機嫌と、際限なく散らかり居心地が悪くなる部屋に、千秋自身が追いつめられることになる。
 ようやく着替えることができたのは、帰ってからずいぶんたった頃だった。脱いだスーツをしまおうと、クローゼットを開ける。
 それはいつも、千秋にとって少しばかり胸の痛む瞬間だった。ろくに収納のないマンションの、小さなクローゼット。否応なく、しまってあるものはみんな目に入る。たとえそれが、厳重にカバーをかけられ、可能な限り隅の目立たない場所に押しやられているものであっても。
 黒いカバーのかかったキーボード。もう、2年以上触ってない。それを目にするたび、ふだん忘れている思いが彼女の胸を痛ませる。
弾きたくて、歌いたくて、たまらない、そんな思い。
 力が欲しい、と思う。立ち上がり、自分が本当に求めるものを手にする力が。
 それはかつて、確かに彼女自身のものであったはずなのに……。
 今はもう、残ってない。



 そんな気持を引きずったままの翌日だったから、陸がこんなことを言い出したときには、正直気持が重かった。
「なあ千秋。今度の日曜、クラスの友達がライヴやるんだけど、いっしょに行かねーか?」
 この男の子は最近、千秋のことを本気で「ツレ」だと思い始めているらしい。誘いの言葉には、なんの不自然さもためらいもなくて……。千秋は半ば呆れながら、言葉を返す。
「クラスの友達のライヴなら、クラスの子と行ったらいいじゃないの。麻優里ちゃんはどうしたの?」
「麻優里は田舎のばーちゃんちに帰ってんだよ。夏休みが終わるまで、戻って来ない。他のやつらも、なんだかんだ忙しいみたいでさ」
 そういうことね。千秋はため息混じりに聞かずにはいられない。
「あんたねえ、ひょっとして私のこと、いいひまつぶしの相手とか思ってない?」
「思ってる」
 全開の笑顔で即答され、脱力した。

 本当はひまつぶしの相手だなんて、思ってない。陸はなぜだかそれが言えなかった。
 友達の亮二から、ライヴをやるからチケットを買ってくれと言われたとき、すぐに「千秋しかない!」と思った。麻優里がいたとしても、誘ってなかったかもしれない。彼女はバンドとかライヴとかにあまり興味を持たなかったから。
 彼が思い出していたのは、初めて言葉を交わしたとき、山のようなCDを抱えていた千秋の姿だった。彼女と行けば、きっと楽しいに違いない。そう思えたから。
「だったらぜったい連れて来い。そんで、俺に紹介しろ」
 胸のうちをうっかり亮二に話してしまい、そう言われてしまったのは、誤算ではあったけれど。

 そんな陸の気持を、もちろん千秋は知るはずもない。
 だけど結局彼には勝てず、なんだかんだ言いつつも最後には「お願い」を聞いてしまう、というのが、最近のパターンなわけで。
 日曜日の夕方、なんでいつもこんなことになるんだろう、と思いながら、千秋は待ち合わせ場所の公園へと急ぐ。ときおり沙希とお昼休みを過ごすいつもの公園、今度は間違えようがない。夏の終わりの太陽は、まだまだ勢いを失っていない。暑い午後だった。
 千秋が手をふると、陸は笑って立ち上がる。いつもの笑顔……でも少しは慣れたと思う。
「意外と、時間には正確な方みたいね」
 そう、時計を指さして言う。約束の時間には、まだ5分あった。前に遅刻した分、今日こそは陸より先に着こうと、早めに家を出たのに。
 陸は首を横にふった。
「そうでもない。今日は強引に誘っちまったから、悪いなって思って……」
 そう答えて思いっきりのびをし、「それにしてもあっちーな」と、顔をしかめた。額に汗が浮かんでいる。
「行こう。早くクーラーのきいた部屋に入りてー」
 そう言って彼は、着ていた白いコットンシャツを脱ぎ、腕にひっかけて歩き出した。彼がシャツの下に着ていたのは、濃いグレーのタンクトップ。うわ、まぶしいな、と思いながら、その後姿からなんとなく目が離せない自分に、思わず心の中で苦笑する。まだまだ修行が足りないってことだわ。
 まだ肌寒かったころ、ギャルソン風のカフェの制服や、ゆったりしたパーカーを着た陸の姿を見慣れていた千秋にとって、彼の印象は「背が高くて痩せてる男の子」だった。それがどうだろう、夏になって彼女はどきどきしっぱなし。Tシャツやタンクトップを着た肩や腕は、決して痩せているだけじゃないってことを発見してしまったから。
 ふと、振り返った彼と目が合う。視線に気づかれ、「なんだよ」と、笑って聞かれ、千秋はあわてた。
「陸って着やせするタイプなんだなって、思って」
 こんなときはむしろ、思ったことをそのまんま口にしてしまった方が、気まずくならないことがわかっている。やはり年の功というやつだろうか。
 陸も、事もなげな風に笑って答えた。
「2年までバスケやってたからじゃないかな。ケガでやめちゃったけど。でも、ほんとよく言われるよ、脱いだら体格変わるって」
「誰に?」
 大して深い意味もなく、ほんとに何気なく聞いたことだったんだけれど。
 陸は口ごもる。その顔が赤くなった。その表情に、自分がかなり突っ込んだ質問をしてしまったことを知る。彼らしくもなく照れている様子が可愛くて、千秋は思わず笑い出してしまった。
「そういうことかあ、何よ、いっちょまえに照れちゃって」
 高3だもの。そういうことがないわけがない、前からそう思ってたから、今さら驚きもしない。
 本当は、そう自分に言い聞かせてるだけなのかもしれないけど。どちらにしろ、そんな胸の内を相手に見せるつもりもない。彼女は笑って言った。
「青春してんのね。あーうらやましい」
「そうでもない、けっこう苦労してんだぜ」
 1本取られたことが悔しいのか、陸はちょっと怒ったような口調で答える。
「あいつのオヤは厳しいんだ。門限は九時だし、ばれたらどんな目に合うかわからないって、外泊とか旅行とか絶対バツだし。あーあ、いっぺんでもいいから、朝まで一緒にいたいよな。大人にはわかんねーだろ、こんな苦労」
 それなりにうっぷんがたまっているらしい。思いがけずグチを聞かされ、少したじっとなりながら千秋はうなずいた。彼女自身、この年頃には同じ悩みを抱えていたような…。
 これもまた青春ってやつよ、と、肩を叩いてあげようとしたのだけれど。
「考えてみれば、結婚してるやつらっていいよな。旅行も外泊もぜんぜんOKだし、好きな相手と毎日朝までいっしょに居られんだもんな。俺は千秋がうらやましいぞ」
「な…何……」
 何言ってんのよ、と軽くかわそうとしたけど、声がつまってしまった。
 なぜだかわからない、激しい切なさと悲しさに、胸がいっぱいになる。自分の足が止まってしまったことに、千秋はしばらく気づかないでいた。

 陸は立ち止まり、いぶかしげに千秋をふり返る。
 どうしたんだろう。「バカ言ってんじゃないわよ」と、いつものように軽く流されることを予想していたのだけれど。
 言葉をなくした彼女は、なんとも言えない表情をしていた。その瞳の色を見て。
 彼は、自分がなぜだか千秋を傷つけてしまったことを知る。
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