L.N.S.B [ Story - 11]
 「千秋……?」
 いぶかしげに自分を呼ぶ声に、我に返る。
 私、いったいどうしてしまったんだろう。些細なひとことだというのに、こんなにも胸が痛むのが自分でも信じられなくて、千秋は言葉を返せないでいる。
 結婚してるやつらはいいよな、好きな相手と毎日朝までいっしょにいられんだもんな……。
 なんて遠い言葉なんだろう、と思った。
 陸の無邪気な言葉と、自分の現実の、あまりにも遠い隔たり。それがするどい刺となって自分の胸を刺したことを、千秋はわかっている。
 好きな相手と朝までいっしょに……どころか、智史の身を案じ、不安と疑心暗鬼の中で眠れない夜を何度も過ごしたあげく、これなら独りでいる方がよほどマシ、というところまできている、それが彼女の現実。もはや、智史が「好きな相手」であるのかどうかすら、わからない。
 だけど、陸と同じ理想を、好きな相手と生活を共にするという夢の中に抱いたことも、確かに彼女にはあったのだ。とっくに忘れかけていたこと。だからこそ、切なくなってしまって。
 心が弱くなっている、と思う。あんな言葉に動揺しちゃって、どうすんのよ。
「千秋、どうした?」
 再び名前を呼ばれ、彼女は目を上げた。心配げな表情が目の前にある。他ならぬ彼が口にした言葉だからこそ、あんなにも痛かったのかもしれない。
「なんでもない」
 千秋はただそう言って、再び歩き出した。言い訳にもなにもなってない。それがよけいに相手に不審を抱かせる態度であることはわかっていたけれど。
 今の彼女には、そうすることしかできなかった。

 なんなんだよ、いったい。陸はわけがわからず立ち尽くしたまま、千秋の後姿を見つめる。「結婚云々…」といった自分の言葉が、彼女の心に波紋を呼び起こしてしまったことは間違いないのだろうけれど、でも、なんで?
 出会って以来、千秋が自分のダンナについて語ることは、まったくといっていいほどなかったような気がするけれど、それでも陸は、彼女の結婚生活は幸せなものと、なんとなく思い込んでいた。
 なんていうか、千秋に限ってダンナ選びに失敗するなんてことはありえない、って気がするのだ。彼女は、自分にとって必要なものと不要なもの、欲しいものと欲しくないものをきちんと見分けて選び取る能力を持っている。短い付き合いではあるけれど、陸はそんなことを本能的に感じ取っていた。
 ドジで不器用で真っ直ぐで、ときどき見てらんないほど危なっかしい奴だけれど、その点だけは尊敬すべきだと思っていた。そんな彼女が、そこいらの大人のように不本意な結婚生活を耐え忍ぶ、なんてことはありえない。…っていうか、こいつにそんな根性はないはずだ。実際、彼女がダンナのことを愚痴ったりこぼしたりする言葉もまた、聞いたことがなかったし。
 だとすると、彼女が今見せた心のほころびは、いったいなんだったんだろう。
 彼なりに考え込んで、彼なりの答に思い当たる。
「わかった!!」
 陸はそう言って、千秋の後を小走りに追った。
「お前、今朝ダンナと喧嘩してきたんだろ。そんで機嫌悪いんだな?」
 彼女に追いつき、並んで歩き出しながら、陸は言った。
 虚を突かれたような瞳が、「え?」とこちらを見る。図星だ、と彼は思った。なんか、会ったときから様子がおかしいって思ってたんだよな。犬も食わない夫婦喧嘩、ってやつか。
「なーんだ、そういうことか。そんなに心配すんなって。うちの父ちゃんと母ちゃんも、仲いいくせにしょっ中ケンカしてるぞ。子供なりにいろいろ心配してたら、次の日には仲直りしてベタベタしてたりして、バカらしいったらねーよ」
 思いもかけない言葉に、しばらく呆然としていた千秋は、思わず吹き出した。
「あんたの『父ちゃん、母ちゃん』といっしょにしないでよ」
 そう言いながらも、心が急速にほぐれてゆくのを感じる。
 陸らしいといえば、あまりにも陸らしい勘違い。本当に、彼の言ったとおりであれば、どんなにいいだろう。ケンカと仲直りを繰り返し、周りに呆れられながらも、それなりに仲良くやっている夫婦であるならば……。陸の両親が、心底うらやましく思えた。
「……で、原因はなんなんだよ。ダンナの読んでない新聞捨てちまったとか? お前の取っといたワインか何かを、ダンナが飲んじゃったとか? うちの親なら、だいたいそういうパターンなんだけどな」
「なんなのよ、それ」
 もう、笑い出さずにはいられない。どうしてこの男の子は、こんなにも人の心を軽くする術を無意識に心得ているんだろう。
 彼の勘違いを修正するのはやめておこうと千秋は思った。笑っちゃうような、つまらないことでケンカをし、仲直りをしては、前より仲良くなってたりする微笑ましい夫婦。せめて陸の頭の中だけでも、自分たちがそんな夫婦でいられたら、それはそれで素敵なことかもしれないと思うから。
「……とか何とか言ってる間に、着いちゃったよ。ここだ」
 陸は何度か、そのライヴハウスに足を運んだことがあるらしい。慣れた様子で、地下へと続く階段を降りてゆく。千秋は少し緊張気味に彼の後に続いた。情けない話だけど、ライヴハウスになんて入るのは、実に数年ぶりなのだ。
 重そうな木の扉を開け、陸は「先に入れ」と千秋を目で促す。遠慮がちに足を踏み入れ、店の中を見渡した彼女は…。
 不思議な既視感にとらわれ、それまでの屈託を、あっという間に忘れてしまった。



 独特の熱気、華やかなざわめき。懐かしい空気に、ふと胸がしめつけられる心地がする。自分がかつて、ささやかながらこの空気に中心にいたことを、思い出さずにはいられない。
 それに……どうしてなんだろう。初めて訪れたはずのこの場所は、おどろくほど、千秋がかつて通った店によく似ていた。
 広すぎもせず、狭すぎもせず、ちょうど全ての人が心地よく音楽に耳を傾けることができそうな広さといい、ゆったりと置かれたテーブルの配置といい、重厚な感じのする濃い木の色でまとめられた店内といい、単なる偶然とは思えないほど。でもまあ、偶然なのだろう。
 今となっては、あの店を知る人がそうそういるとも思えなかったから。
 ともかく、高校生バンドのライヴといえば、さぞ居心地が悪かろうと思っていたのは、とり越し苦労だった。集まってくるのは彼らの学校仲間ばかりかと思いきや、千秋とそう歳も変わらなそうな客筋も少なくはない。
 なんで? と首をひねっていたのだが、ステージが始まって謎が解ける。
 陸の友達、仲原亮二というのは、昨年アメリカから帰って来たばかりの帰国子女、高校生にしてなかなかのプレイヤーであるらしい。「ほれ、あいつだよ、あの端っこでベース弾いてるやつ」と指差され、あまりの堂々としたたたずまいに、「うそでしょ?」とつぶやいてしまった。
 なんでも、彼以外のメンバーはみんな大学生か社会人、セミプロに近い活動をする連中であるらしいのに、まったく遜色ない。
「あんたって、すごい友達いるのね」
 陸は、まるで自分のことのように得意げな顔で、「そうだろ?」と笑ってみせた。

 音楽もまったく悪くなかった。今風の、ソフィスティケイトされたR&B。そうかと思えば、男前ぞろいのふたりの男性ボーカルは、サム&デイヴばりのパワフルな掛け合いもやってのけて、底力を感じさせる。
 誰かのステージを見て、こんなに夢中になったことなんて、ほんと久しぶりだわ。長いこと忘れてた、こういう気持。胸をふさぐ現実も、重苦しい気持も、何もかもあっという間に飛んで行ってしまうほどの楽しさ。
 陸といるようになって、こんな気持になることが本当に増えたと思う。

 そんな風に、ステージが終わってからもしばらく言葉少なに、余韻にひたってた千秋だったのだけれど。 
「あ、亮二のやつ出てきた。あいつ、お前のこと紹介しろってうるせーんだよ。ちょっと会ってやってくんないかな」
「え?」
 能天気な陸の言葉に、いっぺんに現実に引き戻された。
「ちょ、ちょっと、紹介しろって…。あんた私のことなんか、友達に話してるの?」
 そう聞いたときには、すでに陸はすたすたと友達の方へ歩き始めている。
 自分の存在を、陸の友達に知られてしまっている、というのは初耳で、千秋はかなり緊張しながら、陸に劣らず背の高いその男の子に引き合わされた。
「へえ、この人が千秋さんか」
 肩にかけたタオルで、汗を拭きながら彼は言った。
 陸よりずっと大人びた顔つきと仕草。アメリカ帰りという先入観がこちらにあるせいなのか、真っ直ぐ過ぎる視線は、なにやら不敵なものを感じさせ、うう、勝てない、とうつむいてしまう。高校生相手に、情けないことではあるけれど。
 だけど、彼が口にした次の言葉を聞いて……。
 思わず目を上げてその顔を見たきり、彼女は固まってしまった。
「すげえ、陸に似合ってんじゃん。麻優里よかずっといいと思うぞ、この人の方が」
「な、何言ってんだよ亮二…」
 彼女以上に焦ったのが、陸である。その狼狽ぶりは、千秋にすら予想外といってもいいほどだった。
「悪い、千秋、こいつちょっと変わってんだよ……、っていうか、まだ日本語知らねーんだ。変なこと言うけど、許してやってくれよな」
 とひたすら謝ってる。なんでこちらが謝られることになるのかわからないながらも、千秋は曖昧に、うなずく。
 気が付くと心臓が、バクハツしそうにどきどきしてる。まさかそんなことを言われるとは思ってなかったから。
 そんなふたりの慌てぶりを、わかっているのかいないのか、亮二はしれっと言葉を返した。
「俺、確か国語の点数、お前より上だったと思うけど」
「うるせー、お前はもう、黙ってろ」
 とうとう陸が、切れた。

「そういえば、今日オーナー来てたぞ。お前のこと探してた。お前のかーちゃんに、渡すもんがあるとか言って」
 と、亮二が思い出したように言ったとき、ふたりが心底ほっとしたのは言うまでもない。
 とはいえ千秋は「?」と思う。オーナーって誰? なんで陸のお母さんが出てくるの? 疑問符を頭の中にいくつも並べていると……。
「よう、陸、こんなとこに居たのか」
 ラフな格好をした、大きな男が来て、気安げに陸の方をぽんと叩いた。その、「オーナー」という人に紹介され、謎はあっという間に解ける。
「えーと、この人はこのライヴハウスのオーナーで、俺がバイトしてるカフェのオーナーもやってて、それから俺の母ちゃんの弟。だから、俺の叔父さん、島崎章高。俺は『あき兄』って呼んでるけど」
 ずらずらと肩書きを並べるしつこい紹介の仕方に、思わず苦笑しながら、千秋は軽く頭を下げた。
 とはいえ納得する。どうして高校生である陸が、アルコールも出せば深夜の勤務もあるあのカフェでのバイトに就くことができたのか、実は前から不思議に思っていたのだ。
 そうか、オーナーが、叔父さんね。しかもこのライヴハウスも経営してる、ってことは、なかなかのやり手らしい。あの能天気な陸の叔父さんとは思えないわ……。あらためて顔を見ようと目を上げ……そして、面食らう。
 相手はひどく驚いた様子で、こちらをじっと見つめていたものだから。

「ひょっとして、椎葉…千秋さんじゃないですか?」
 遠慮がちに聞かれ、千秋は戸惑いながら、うなずいた。
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