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「えーっ? あき兄、千秋のこと知ってんの?」 陸がおどろいて聞いた。それはこっちのセリフだと言いたげな視線を一瞬、甥に送り、彼はにこやかに言葉を続ける。 「島崎です。『Sweet Soul』でウェイターやってた。たぶん、覚えてらっしゃらないだろうと思うけど」 Sweet Soul……その懐かしい名前を聞いて、千秋の胸に蘇る記憶がある。 あそこに通っていたのは週に1度だった。だからそこで働いているウェイターたちと親しく話すことは、あまりなかったのだけれど。 でも、目の前にいるこの、島崎と名乗る男のことは、なんとなく覚えていた。大きな体と、陸に似てなくもない精悍な笑顔。ウェイターの中でもチーフ格だった人だ。 少しばかり胸の中に波立つものを感じながらも、千秋は笑顔を作って答えた。 「覚えてます。陸の叔父さんだったんですね。びっくりしました」 「いやー、こっちがびっくりですよ。まさかこんなところでお会いできるなんて。森川さんはお元気ですか?……って、椎葉さんも今は『森川さん』なんですよね」 「いえ、椎葉でいいです。職場じゃずっとそうだから」 自分を置いてきぼりにして、いきなり流れ出した会話についていけず、陸があわてて言葉をはさむ。 「ちょ、ちょっと、何でふたり知り合いなんだよ。しかも森川って誰?」 「椎葉さんのご主人だよ」 「え? お前ってほんとは森川千秋っていうのか?」 陸の言葉に、こんどは島崎の方が怪訝な顔をする。 「おい陸、『お前』とか言うなよ。だいたいなんで、お前が椎葉さんと知り合いなんだ」 「うちのカフェによく来てくれてて……って、こっちのことはどうでもいいんだ。だからあき兄は何で、千秋を知ってんのかって」 「覚えてないか? お前の働いてるあのカフェ、昔は『Sweet Soul』ってライヴハウスだったんだ」 「覚えてるよ。よく連れてってもらったじゃん。中1ぐらいのときだったっけ」 陸の言葉に、千秋は「えっ?」と彼を見た。 うそでしょ? 信じられない。陸があの店によく行ってたなんて。 「椎葉さんはあそこで週に1回、ステージやってたんだ。お前も絶対、見てるはずだぞ」 えーっ!? 陸も一瞬、言葉をなくした。 「ステージって…もしかしてピアノ弾いて歌ってた……? あれが千秋?」 おぼろげな記憶をたぐりよせ、どうにかその姿を思い出そうとしたのけれど、ムリだった。ガキだったから、そう頻繁に連れて行ってもらえたわけじゃない。千秋の方は週に1度しか出ていなかったのなら、たぶん見たのは数回というところだろう。 きちんと覚えていないのも、当然だ。それに……。 「お前、歌やってるなんて一度も言ってなかっただろ?」 陸に言われ、千秋は何も答えず、彼をじっと見つめ返す。 なんとも言えない、目の色だった。 千秋はただ、黙っているしかなかった。どう説明すれば良いのだろう。自分の歌に対する複雑な思いを、歌うことが千秋にもたらした、様々な運命を。 大学でジャズ研に入っていた縁で、その「バイト」を先輩から紹介してもらったのが、3回生の頃。ジャズ以外の音楽もやってみたいと思っていた彼女は、一も二もなくその話に飛びついた。 好きな歌をやってお金がもらえるというのも、魅力的な話だったし、小さな頃から習っていたから、ピアノは得意だった。弾き語りで歌ったのはキャロル・キング、ジョニ・ミッチェル、女性シンガーソングライターと言われるアーティストの曲なら何でも。R&Bやゴスペルもやったし、時には矢野顕子や大貫妙子など、日本語の曲もやった。 要するに好きな歌を好きなように歌いまくって、楽しくて仕方なかった。あの頃、歌うことは仕事とはまた別の「生きがい」になっていたと思う。 だから大学を出て就職してからも、週に1度のこのバイトは続けていた。そのうち常連の客もつくようになって……。 その中のひとりとして、千秋の前に現われたのが、森川智史だった。 「ずっと仲間内では謎だったんですよ。どうして椎葉さんは急に店を辞めてしまったんだろうって。ダンナさん、残念がってたんじゃないですか? また歌ってくれとか、言われませんか?」 そう言われて、苦笑するしかない。なんと答えればいいのか、わからない。彼がそう思うのも当然だと思う。あの頃の智史は、本当に千秋の歌を好きでいてくれたのだから。 「で、どうしてそこに千秋のダンナが出てくんだよ」 どうにも解せないらしく、陸が言った。 「森川さんは『SweetSoul』の常連で、椎葉さんのファンだったんだよ」 「へーえ、歌ってるところを見初められて、結婚したってわけか。いい馴れ初めじゃん」 彼の無邪気なセリフが、胸に痛い。千秋は曖昧に笑って、黙っているしかなかった。 それは、誰の目にも「照れ」と映ったのだろう。さして怪しまれもせず、彼女は内心ほっとする。 まさか、店を辞める原因となった張本人が智史なのだとは、とても言えない。 本当に、どうしてなのだろう。 あの頃も多忙な身だったに違いないのに、千秋のステージがある日はかならずといっていいほど、店に来るようになっていた智史。マスターの紹介で話をするようになり、ステージの後は彼のテーブルに呼ばれてお酒をおごってもらうことが習慣になり、付き合いが始まった。ジャズや音楽のことで話が合い、彼といるのは楽しかった。 5つも年上なのに、あの頃の智史が終始控えめで、常に千秋をリスペクトする姿勢をくずさなかったのは、やはり「歌」のためだったのだろうと思う。彼女の歌を聴きにあの店に足を運ぶ常連客は決して少なくなかったとはいえ、その中で誰よりも智史が彼女に熱を上げていたことは、店でも有名だった。 だから「ダンナさん、残念がってるんじゃないですか?」という島崎の言葉も、当然過ぎるほど当然だったわけで。 なのにどういうわけか、結婚して1ヶ月ほどで、智史は『Sweet Soul』に通うことをやめた。そして、ステージのある日だけは、わざわざ早く家に帰り、不機嫌な顔で彼女を待つようになった。彼は表立ってはなにも言わなかったけれど、無言のプレッシャーは日に日に大きくなり……。 どうにも納得がいかないまま、彼女は店を辞めざるをえなくなったわけだった。 でも、今では千秋にもわかるような気がしてる。彼女の歌に憧れていたはずの智史が、彼女の歌を憎むようになったのは、彼にとって千秋はもう「憧れの恋人」ではなく、「自分の妻」になってしまったからなのだろう。 恋人だったころのように、自分の上に置いてリスペクトしていればいい相手ではない。こんどは自分が夫として、なんとしてでも彼女の上にいなければならない。それが智史にとっての結婚というものだった。 仕事にしろ、歌にしろ、そんな関係において、千秋が千秋らしくいることは、許されない。たとえそんな彼女を好きになったのが始まりだったとしても。 納得の行かない話だった。でも、そう言っても始まらない。理屈じゃないのだ。彼自身、結婚を境に自分がそんな人間になってゆくのを、どうにも止められないできたに違いないから。 社会的な位置や立場を通してしか、人との関係を結べない。意味のない常識ですべてを判断することでしか、生きていけない。そういう人間が、この世の中には少なからずいるのだ。そう思うしかない。 自分の夫がそうであるとは、千秋はいまだ認めたくはないのだけれど。 「あの……」 どうにもやるせない気持になり、話題を変えたくて、千秋は島崎にたずねた。 「島崎さんは、前のマスターから『SweetSoul』を買われたんですか?」 「そうなんです。引退したいから、店を譲り受けてくれないかとマスターに言われて。それでしばらくはあのままで営業を続けてたんですけど、経営が苦しくなって。残念だったけど、思い切って流行りのカフェに改装しました。でも、『SweetSoul』のような店もどこかに残しておきたくてね。カフェの方にも余裕ができて、なんとかやっていけるようになったんで、このライヴハウスを作ることにしたんです」 似ているのも当然なんだった。あらためて店の中を見渡し、千秋は懐かしさに胸が熱くなる。 「そっくりでしょう?」 「そっくりです、ほんとに。懐かしいですね」 「良かったら、今からここでもう一度歌っていただけませんか?」 唐突に言われ、千秋はきょとんとして島崎を見た。 「今から、ですか?」 「今から、です……おーい亮二」 島崎は、いつの間にやらステージのところで陸と話をしていた亮二を呼んだ。 「キーボードの奴はどこ行った? 1台だけ、片付けずに置いといてほしいんだ。今、弾いてもらうように椎葉さん口説いてるとこだから」 亮二はにっと笑ってうなずき、楽屋へと立った。隣で聞いていた陸の顔も輝く。 「え? ほんとに千秋歌うのかよ」 千秋は慌てて答えた。 「歌わないわよ。もう何年も人前でなんて歌ったことないんだもの」 「いいじゃないですか。今残ってるのは身内だけだし、少しぐらい失敗してもどうってことありませんよ。それに、このチャンスを逃すと、もう二度と椎葉さんの歌は聴けないような気がするんですよね。これも縁だと思って、お願いします。実を言うと俺も、森川さんに負けないぐらい、椎葉さんには憧れてたんですから」 そんなことを言う彼の顔は少し赤くなったから、あながちお世辞で言ってるのでもないらしかった。陸もちょっと驚いて叔父を見たが、すぐに納得したような笑みを浮かべ、援護射撃を始める。 「いいじゃん、あき兄もあそこまで言ってんだから。気楽に歌えって。失敗したら、俺が思いっきし笑ってやるよ」 そんなこと言われたら、よけいに歌えないっていうの!! 内心冷や汗をかきながら、千秋はそれでもきっぱり拒否することができないでいた。 このチャンスを逃したら、もう二度と歌は聴けない……その言葉が妙に心にひっかかって。 ここで歌わなければ、もう二度と歌うことはできないかもしれない。なぜだか本当にそんな気がした。もう一度歌いたい、弾きたい。このところずっと、そんな思いが心の中で熱を持っていたことを思い出す。これも不思議な縁だわ。 「わかりました、やってみます。前みたいに弾けるかどうかはわからないんですけど」 千秋は言った。そして、「やったぜ!」と喜ぶ陸の方を見て、しっかりと釘をさす。 「失敗しても、絶対に笑うんじゃないわよ」 |
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