|
||||||
今さらしり込みするわけにはいかない。千秋は覚悟を決めてステージに上がった。 ローズの前に座る。深呼吸して手を置く。もう1年以上弾いてないから、この手がきちんと動くのかどうか、自信はなかったけれど。 客席には陸と島崎、亮二とバンドのメンバー、常連らしい数人の客。そして、店員たちが忙しく片付けをしながら、ときおり、こちらを見ている。 懐かしい、この空気。心の何処かで、何かが蘇るような心地にとらわれる。 もう、戸惑いは消えていた。自分の弾いた、静かなピアノのストロークが胸に響き、千秋はすべてを忘れた。 神妙な顔をしてピアノの前に座った千秋を、陸は不安と期待と心配と好奇心と……ともかくいろんなものがないまぜになった、なんともいえない気持になって見守っていた。 失敗したら笑ってやろうなんて不遜な気持は、とっくの昔に消えている。自分がけしかけたくせに、いざ冷静になってみると、心配でしょうがない。いくら昔にその姿を見たといっても、あの千秋がかつて叔父の憧れてやまないシンガーであったとは、いまだ信じることができず、かといって、身内ばかりであるとはいえ、数年ぶりに人前で歌うことになった彼女が不本意な演奏で恥をかくことになるのは見るに忍びないわけで……。 俺、なんでこんなに、オヤみたいな気持になってんだろうと、思う。 どういうわけか、千秋はいつも彼にそんな保護者じみた気持を起こさせる。 静かに響いたピアノの音に、どきりとする。なぜだか、自分のことみたいに、どきどきしてる。手のひらにかいた汗を、密かに握りつぶす彼の耳に、ひっかかりのない、流れるようなイントロのメロディーが聞こえてきた。 そして、続いて流れ出した声。 忙しく働いていた店員たちの手が一瞬、止まり、何気に談笑などしていた他の客たちが、口をつぐむ。 「なんか、すげえな……」 亮二のバンドの誰かが、ぽつりと言った。 太すぎもせず、細すぎもしない、ほどよく苦味の効いたハスキーボイス。抑えた感じの歌い方は、包み込むような暖かさを感じさせ、今歌っているこの曲の静かなメロディーに、ぴったり合っている。 「あき兄、これ、なんて曲?」 陸が小声でたずねると、ステージに視線をやったまま、短く叔父は答えた。 「『You've got a friend』、キャロル・キングの名曲」 もう心ここにあらず、ステージの上の彼女にカンペキ魂を奪われてしまっているという感じ。 でも、あの千秋を見てたら、彼の気持もよくわかる、と陸は思ってしまう。 ライトに透け、さらさらと揺れる長い髪、真剣な横顔は、凛と近寄りがたい感じすらして……。 なんだか、知らない人を見てるみたいだ。 呆然とする陸の前で、千秋はよどみなくその曲を歌い終え、次の曲に入った。低姿勢なくせに押しの強い叔父は、彼女に2曲以上歌うことを要求したのだ。次も同じように静かなイントロから始まる、だけどずっとずっとエモーショナルな感じの曲。 千秋は、今度は声を抑えず、感情そのままに歌った。さっきはリハビリだったのかと思えるほど、どこまでものびやかな張りのある声。そうかと思えば、ときおり震え、かすれる危うさに、胸をぎゅっとつかまれる心地がする。 静かな熱さを感じさせる曲調。さすがに陸は、2度も続けて叔父にタイトルを聞くような野暮なことはできなかった。この歌が『ナチュラル・ウーマン』という名前なのだと知ることになるのは、後になってからだ。タイトルからして千秋にぴったりな歌だったのだなと、そのときは妙に感心してしまったのだけれど。 そして、何が起こったんだろう。 なにがきっかけだったのかは、わからない。ともかくある瞬間、千秋の声と、ピアノの音以外のすべての音が、すーっと耳から遠のいていった。視界の中、すべてのものが遠ざかり、彼女の歌う横顔だけがくっきりと浮かび上がるような錯覚に襲われる。 胸がびりびりと痺れる、どうしようもなく心が震える、そんな感じがして。 やばい!! なんだかわからないけれど、めちゃくちゃやばい、そう、陸は思った。 そして、なんだかよくわからないままに、一瞬にしてその気持を、胸の奥の絶対に手の届かないところへと押し込んでしまった。 それは、本能の成せる技と言うべきものだったかもしれない。 「お前さー、もう、そっから降りてくんな」 拍手の中、興奮冷めやらぬ表情で戻ってきた千秋に、陸は言った。まだ胸に残る動揺が、必要以上に彼を辛辣にさせてしまっていたのかもしれない。横にいた亮二や島崎が、少しばかりぎょっとした顔で彼を見る。 「もうずっとステージの上にいろ。ぜったいその方がいいって。あれ、絶対千秋じゃねーよ」 「あんたねー。もうちょっと素直にほめられないの?」 負けず言い返した千秋は、彼の失礼な物言いを一向に気にしていない様子で、周りの者はなぜだかほっとする。でも、一番安心したのは陸だったのかも知れなかった。いつもの千秋だ……調子に乗って彼は言葉を返す。 「だってあれ、1日5回はつまずいてコケるやつと同じ人間だとは思えねえ。お前、歌ってたら普通なんだな。もうこれからはピアノ持って歩け。そうしたらドジがなおるんじゃねーか?」 「まったく……何、考えてんのよ」 千秋はさすがに呆れた様子で、苦笑した。そして、隣にいた島崎に視線を移して言う。 「いつもこんな調子なんですよ。どう思います?」 突然話を振られた島崎は、どう答えて良いのかわからず、あわてた。 「だってあき兄、あれ、絶対千秋じゃねーよな」 「いや、俺にとっては、あれが正真正銘の椎葉さんなんだけど……」 彼は口の中で小さくつぶやき、「あんた、それってどういう意味よ!!」などと、猛然と抗議を始めた千秋をまじまじと見る。 「なんだか変わりましたね。椎葉さん」 そう、言わずにはいられなかった。口げんかを始めていたふたりは、「え?」と彼を見る。 「昔は、陸みたいなやつと気が合うような人には見えなかったけど……。なんていうか、可愛くなっちゃいましたね」 「可愛い…ですか……」 思わず絶句してつぶやく千秋の横で、陸が笑った。 「うわー、ばかみてえ。いい年こいて可愛いとか言われてやんの」 「うるさい。いつもあんたに合わせてあげてんのよ」 これはもう、きりがない。際限なく続きそうなふたりの言い合いに、島崎は小さくため息をついた。その場を離れようと、後ろを向くと、とっくの昔にふたりを見限って後片付けを始めていた亮二とふと、目が合う。 彼はにっと笑い、大きく肩をすくめてみせた。 いつもの駅で、陸と別れ、ひとりで電車に乗り込む。 ドアにもたれてひんやりとした窓ガラスに額をつけ、千秋は「ふう」とため息をついた。 まったく刺激の多すぎる1日だった。いまだに熱を持っている頬、普段のペースを思い出せない心臓、胸の中では整理のつかない思いがぐるぐると乱れていて……。 長いこと、智史のことしか見えないまま、何年も独り殻に閉じこもって過ごしてきた彼女だった。でもそれはある意味平和だったのかもしれないと思える。 いきなりティーンエイジのさなかに放り込まれてしまったようなこの気持を、今となってはもう持て余すより他ないような気がしているから。 「さっきは悪かったな、千秋」 別れる間際、陸はいつになく殊勝げな表情で視線を下に落としたまま、ぽつんとそう言ったのだった。 「え?」と問い返しながら、千秋は少しどきりとしていた。 「いろいろ……いろいろひどいこと言っちまって。あれ、本心で言ったわけじゃねーからな。なんていうか、千秋の歌があんまりすごかったから、どう反応すればいいかわかんなかったんだな。ほんと悪かった。気にすんなよ」 「き……気にするわけないじゃないの、あんなこと」 そう答えながら、なんだかひどく心が乱されてしまうのを感じる。 ピアノの音が静寂に吸い込まれてゆき、歌の世界から戻ってきたとき。 瞳を上げて客席に目をやった千秋が一番最初に見たのは、陸の姿だった。もう、本当にどうしようもなく、真っ先に視線が吸い寄せられてしまった。他の客と同じようにこちらを見ていた彼とは、当然のように目が合う。 いつになく真剣なその瞳を見た瞬間、彼女は逃げ出したくなってしまった。 思っていた以上に、上手く歌えたと思う。久しぶりに人前で歌う緊張や戸惑いはあっという間に消え、いつの間にか完全に歌の中に入り込んでいた。それだけに、歌い終えたそのときも、感情に抑えが効かなくなっていて。 今ステージを降りてあの男の子と顔を合わせたら、自分の心がどう反応するか想像がつかず、怖かった。 昔からそうだった。歌った後はいつも、心にも身体にも独特の熱が残ってなかなか消えない。かつて智史に恋をしたのも、そのせいかもしれない。彼に会うのはいつも、ステージの終わったすぐ後だったから。 今さらのようにそんなことを思い出しながらゆっくりと立ち上がり、客席に戻った彼女にぶつけられた言葉。 「もう、そっから降りてくんな」 いつもの調子で、いつもの笑顔とともに彼が口にしたその言葉に、どれほどほっとしたことか。 心は、あっという間に平常心を取り戻した。どうにか危うい気持を忘れ、感情をコントロールすることができた。駅への道を、ふたりきりで帰る間もずっとその調子でいられて、厄介な心の熱を、なんとか忘れることができていたのに。 今さら謝るなんて、あんまりだ。フェイントにもほどがある、と、恨めしく思う。 どうしてこの子はこんなにも素直なんだろう。 あるいは、素直でないのは自分の方なのか。 「正直に言うけど、やっぱ千秋はすげえよ。見直した」 そう言って陸は真っ直ぐに千秋を見て、笑った。 それは相変わらず、胸の奥にぱっと灯をともすような、極上の笑顔だったのだけれど。 この笑顔も、あまりにも素直でまっすぐなほめ言葉も、そろそろ胸に痛くなってきたかもしれない、そう思いつつ、千秋は曖昧に別れを告げた。 改札の向こうに消えていくその後ろ姿を見送って、陸もまた、ため息をついていた。 どうにか素直に謝ることができた。どうしてあんなにひどいことを言ってしまったのか、自分でもいまだにわからない。千秋はさすがに大人で、子供じみた自分の態度をそれほど気にもしていなかったのは救いだったのだけれど。 だけど、自分的にはあのままにしておけなかった。千秋の歌が、あんなにすごいとは思わなかった。本当に感動した。そのことだけはきちんと伝えておかなくては。このままだと、自分は単なる根性悪のガキになってしまう(実際そうじゃないの、と笑われてしまいそうだけど)、そう思ったから。 なのに、そう言ったときの彼女の複雑な表情は、いったいなんだったのだろう。予想外の反応に、なんだかよくわからないまま、またしても胸がずきんと痛んで。 あーあ、ほんとになんだかよくわかんねえ。陸はそれ以上考えることをあきらめ、ポケットに手を突っ込んで歩き出した。 空を見上げれば、そろそろ秋の色に近い、澄んだ半月が見える。その光の冷たさが、なぜだか無性に心地よかった。 何時の間にか、かすかに熱を持ち始めた心。それを自分が持て余しつつあることに、彼はいまだ、気づいてはいない。 |
||||||
|
||||||
|