L.N.S.B [ Story - 14]
「で、どうすることにしたの? 結局」
 真っ直ぐ前の画面に目をやったまま、ぱたぱたとキーボードを叩きながら沙希が聞いた。隣の端末、同じように作業を続けながら、千秋は答える。
「とりあえず保留。だって、前と同じようなことになるのは嫌だもの」
「なんでよ、せっかくのチャンスなのに、もったいない」
 ため息混じりの女友達の声が、耳に痛い。

 あれから2週間が過ぎ、仕事に忙しい日々の中で、中途半端に蘇りかけた心は、再び日常の中に埋もれようとしていた。このまま、変わらない日々が続いてゆくことに、なんとなく安堵を覚え始めていた千秋だったのだけれど。
 陸の叔父、島崎が彼女の職場を訪ねてきたのは、何日か前のことだった。
「すみません突然、ずっとカフェにも来られてないみたいなので、ここで働いてらっしゃることを陸に聞いて来たんです」
 ご迷惑じゃなかったですか、と満面の笑顔で聞かれれば、迷惑だなんて言えるはずもない。大きな身体といい、邪気のない笑顔といい、やっぱり甥っ子にそっくりだわ、と、千秋はなんだか切なくなってしまう。
 あの夜以来、陸とは一度も会ってなかった。
 
「それにしても最近、男運向いてきたんじゃないの? 最初はあのウェイターの男の子で、次はその叔父さんだものね。どっちもなかなかいい男だし」
「なに言ってんのよ、ばからしい」
 沙希の言葉に、千秋は苦笑して答えた。
「言っとくけど、島崎さんは結婚してて子供だっているのよ」
「うそ?」
「嘘言ってもしょうがないでしょう。それに、そういう問題でもないのよ。向こうはただ単に出演交渉に来ただけなんだから」

「よかったらこれからも定期的に、うちでステージをやってもらえませんか? 2週間に一度…いえ、お忙しいようなら1ヶ月に一度でもいいんです。このまま椎葉さんの歌が聴けなくなるのは、本当に残念なことですから」
 と、昼食をいっしょに食べたレストランで、かなり熱っぽく口説かれてしまった。それは、多少は予想していたことであったし、うれしいことでもあったのだけれど。
 とはいえ、自分でもどうすればいいのか、わからなかった。歌いたくない、といえば嘘になる。だけど中途半端な気持で歌い始めれば、いずれまた智史と衝突してしまうことは目に見えていた。
 結局自分はどうしたいのだろう。何としてでも智史を説得して、自分の生き方を受け入れてもらいたいのか、それともわかってもらえないままに、すべてを押し通せば良いのか、あるいは彼とは別れて別々の道を歩いて行くべきなのか。
 どうすることが今の自分にとって一番良いのか、決断することが出来ずにいる。島崎の話は、そんな心もとない今の状況を、彼女自身に突きつける結果になったわけで。
 自分の将来についても、智史についても、もう少しきちんと考えてみるべき時期がきているのかもしれない、と思う。
「なにもそんなに難しく考えなくても、歌いたいんなら歌えばいいのに。何か問題が起こったら、それはそのときのことじゃないの? それに、ダンナだって相変わらず好きにやってるんでしょ?」
 と、沙希は沙希らしく、しごくもっともなことを言った。千秋が答につまっていると、さらに問いを重ねる。
「相変わらず、浮気はしてるみたいなの?」
「さあ……」
「さあ、ってことは、変な電話はあれきりだったのね?」
 千秋はうなずいた。
 実のところ、沙希にたずねられて初めて気付いたぐらいなのだった。智史の浮気相手らしい女の子から不審な電話がかかってきたのは、数か月前のあの1度きりだったということに。
 千秋の訴えを聞いて事が大きくなるのを恐れた智史が、彼女と何らかの話し合いをしたのかも知れない。単なるいたずら電話だったと考えることもできたのだけれど、それは難しかった。あの日以来智史は開き直ってしまったのか、そうした気配を隠そうともしないようになっていたから。
 例えば嫌でも耳に入ってしまう、リビングから聞こえる電話での会話、洗濯機に放り込まれたワイシャツから立ち上る嗅ぎ慣れない香り、千秋の元に送られてくるカードの明細に、1人で泊まるはずのない高級ホテルの名前が堂々と記されていたこともあった。
 自分はこのことをどう感じ、どう反応すべきなのだろう。驚いたことにそれすらわからなくなっている。いろいろなことが、もうすでにどうでも良くなっているのかもしれない、と思う。
「結局、なるようにしかならないわ」
 そう答えるしかなかった。最近、沙希と話すとき、この言葉ばかり口にしているような気がする。
 そのとき「椎葉さん……」と社長の呼ぶ声がした。
 「はい」と振り向くついでに時計を見る。終業30分前。この時間に呼ばれるってことは……。
「残業だわ、多分。行って来る」
 いそいそと立ち上がる千秋に、沙希があきれたように言う。
「ほんと、残業って聞くと、とたん嬉しそうな顔になるのね」
 あわてて表情を引き締める。だけどこのところ、いつもこんな風に思わずにいられないのだ。
 何も考えず、ただひたすら仕事ばかりしていたいと……。



 会社を出ると、外は見事な秋晴れだった。目に染みるような空、眩しい日差しに、思わず目を細めながら歩く。夜が明けたことにも気付かず、仕事に没頭していた千秋には、見慣れたはずの光景すべてが別世界のように見える。
 昨日、社長に頼まれた仕事は、会社のホームページのリニューアルだった。そうした作業にまったく明るくない千秋だったけれど、社長と二人、ああでもない、こうでもないと言いながらサイトを作り上げてゆくのはことの他楽しく、気がつけば終電の時間をとうに過ぎていた。
「しょうがない。椎葉さん、こうなったらとことんまでやっちゃいましょうか?」
 千秋に負けずワーカホリックな女社長に満面の笑みで聞かれれば、異論のあろうはずもない。次の日は日曜日で仕事もなく、どうせこれといった予定もないのだ。とことんまで社長に付き合うことにした。
 結局、すべての作業が終わったのは日曜日の昼も近い頃。
 一晩中キーボードを叩きまくった両手が痺れて感覚をなくしている。目はどうしようもなくしょぼついて、多分今の自分はひどい顔をしているのだろうと思うのだけれど、それだけに、すべてが終わった高揚感というのは、なかなか悪くない。
 社長はと言えば、徹夜の疲れなど微塵も見せず、「今日これからデートなの」とうきうきした様子で雑踏の中を駆けて行った。そのタフさに半ば呆れながらも微笑ましい気持で彼女の後ろ姿を見送っていた千秋は、ふと自分が家にまったく連絡を入れていないことを思い出す。
 どうしよう、ダンナじゃあるまいし、無断外泊なんて初めてだわ。智史の携帯にメールでも送ろうかと一瞬思ったけれど、まあ、いいや、という気持になった。
 もちろん智史にしたって家に帰ってない可能性は大なのだけれど、どういうわけかこんなときに限って彼は、早く帰ってきて、怒りを胸に燻らせながら待っている、というのがいつものパターンだったりするのだ。でも、本当にもういい。怒っていようがなんであろうが、知ったこっちゃないわよ、なんて思えるのは、徹夜の作業で頭がハイになってるせいかも知れなかい。
 いつもの公園を通るとき、道の向こうにあるオープンエアのカフェが目に入った。路上にいくつもテーブルを出して、なんだか気持良さそう。ビールでも飲んで帰ろうかな。
 人間、疲れがピークを過ぎてしまうと、逆にふだんやらないことでもやってしまえるものなのかもしれない。なんだか本能のままに動いている、という自覚はあったが、「徹夜明けの一杯」の誘惑には勝てなかった。
 カウンターでワンパイントのビールを買い、真正面に公園の見える戸外の席に座る。
 心地よい秋の風に吹かれながら飲む、徹夜明けのビールは、まったくしみじみと美味しかった。

 目の前にある公園には休日のせいか、いつもにまして元気な男の子や女の子たちがたくさんたむろしている。わいわい、がやがやとおしゃべりしてたり、ラジカセ持参でダンスの練習してたり、ギター抱えて歌ってたり、いかにも恋人同士という風情で語り合っていたり……。おりしも、とても天気のいい日曜日。楽しそうだな、千秋は半ば感心して、その光景を眺めた。そこには幸せを凝縮して集めたように、ただひたすらさんさんとお日様が降り注いでいる。
 それにしてもみんな、可愛い。だぼだぼのハーフパンツや、色鮮やかなパーカーや、黒いニット帽なんてものを、上手に着こなしている。まるで陸がいっぱいいるみたい。
 そう思いながらきょろきょろしてると、驚いたことに本人が、いた。
 あれ? と思い、目をこする。もう一度見るとやはり、彼である。石のベンチに座り、ひとりで、何をするでもなく空に目をやっている。その姿は、千秋の視線の中であっというまに浮き上がり、他のものは目に入らなくなってしまった。目が飢えていた、って、こういうことなんだろうかと思う。思えば、彼の姿を目にするのは、実に2週間ぶりなのだった。
 彼の笑顔を胸に痛いと感じたあの夜以来、千秋はなんとなくカフェに足を運ぶことができないでいた。あのとき、歌うことによって、自分の心の柔らかい部分が再び蘇ってしまったんだと思う。それなりに歳を取り、あきらめを知る過程の中で、どこかに置き忘れてきたはずの、心の一部分が。そんな思いを抱えたままで、この男の子と対峙するのはあまりにも危険すぎる。彼女の本能は、そう警告を出していた。
 だから、淋しがる心をどうにかなだめながら、仕事に没頭する日々を送ってみたのだけれど。
 日常を取り戻し、再び鎧われた心は、やっぱり「元気の素」を必要としてる。彼の姿を目にして、千秋はしみじみとそう思った。どうしても、その姿から目が離せない。
 
 大勢の中にひとりでいるのに、くつろいで見えるのはたいしたものだ。すっとのびた首筋、無造作に投げ出された足、柔らかで、いつも楽しげに見える表情 ほどよく古びたジーンズにチェックのシャツが良く似合う。ちょっと茶色のくしゃっとした髪は、いつも指を突っ込んでかきまわしてあげたい誘惑にかられる。あ、のびした。こいつってば、でかいくせにどうしてこんなに可愛いんだろう。
 本当に不思議になるのだ。似たような男の子はたくさんいるのに、どうして彼は彼でしかないように際立って見えるのだろう。千秋の中にある、彼に対する気持がそうさせる……わけではない。だってだって、よくよく見れば、まわりの女の子たちはけっこう彼を意識してる。こうやって少し離れたところにいると、彼を包む幾つもの視線が目に見えるような感じがして、ちょっと面白い。
 やっぱり客観的に見ても、彼は素敵な男の子なのだ。
 お陽さまみたい、少し酔いの回った頭で、千秋はぼんやりと考えていた。今、彼女の上に降り注いでいるお陽さまの光みたいに、彼はそこに居るだけで暖かくて、見ているだけで心地いい。そして笑いかけてもらえるだけで、なんだか得したような気持になるほど、その笑顔は強力だ。彼はお陽さまみたいな男の子なんだわ。
 うーん、寝不足の頭にビールは効くわ。こんなぽかぽか陽気の日には特に。なんだかめちゃくちゃに幸せな気持になって、視線の先にいる陸をバカみたいに優しい目で見ている自分がちょっとおかしい。
 頬杖をつき、このまま見ているだけでも楽しかったのだけれど、しばらくすると彼の方で、こっちに気づいたらしかった。
 不意に、ぱったりと目が合う。一瞬、おどろいたように、陸の動きが止まる。だけどそれは本当に一瞬だけのことで。
 あーっ!!千秋じゃねーか……そんな感じにぱっと表情がほころぶのを、千秋はまぶしいような思いで見つめた。
 その極上の笑顔が向けられる先を追って、彼をとりまいていたいくつかの視線がこちらへと移動する。ひえぇ!!となにやらくすぐったいような気持になりながら、彼女は軽く手を上げる。
 いつものように、思いっきり手を振り返して……陸はだーっとこちらへと走ってきた。
 まったく、素直というか、なんというか。
 半月前、駅で別れを告げたときの屈託や気まずさを、千秋は一瞬で忘れた。
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