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「すっげえ、久しぶりだな。どうしてたんだよずっと」 至極もっともなことを聞かれ、もっともな質問だというのに、千秋は少し驚いてしまう。 2週間という時間は、彼にとってはそう長いものではないだろうというのが、彼女の予想だったので。 「ずっと、仕事が忙しくて……」 思わずしどろもどろに、しなくてもいい言い訳をしてみたりする。それを聞いた陸の表情が、心なしかほんの少し、ほっとしたように緩んだ気がした。確かに、錯覚には違いないのだろうけど。 自分と会わない時間を、彼がそれほど気にするはずもない。 「今日も、徹夜明けだったのよ。あんまり疲れたから、気つけにビールでも飲んで帰ろうって思ったんだけど。えらいとこ見つかっちゃったわね」 「気つけにビールって…なんかすさまじい話だな」 陸はそう言って、楽しそうに笑った。 「でも、ひとりで飲んでてもなんかサマになってる。相変わらず千秋はかっこいいよな」 「そ、そうかな」千秋は思わず赤くなる。長いこと平和だった気持が、再び乱されてしまう。 だからってわけでもないのだけれど。 「徹夜明けに悪いけど、ちょっと付き合ってよ。さっき待ち合わせしてたツレから電話あって、1時間ほど遅れるって。どうやってヒマつぶそうか、考えてたところだったんだ。ほんと、千秋っていっつもいいとこに出てきてくれるよな」 「え? またヒマつぶしなの?」 「これも縁ってやつだよ」 そう言ってにっこり笑った笑顔がまた、まぶしくて。 なんだかんだと文句を言いながらも、彼女はともあれ店を出ることになったんだった。 陸は公園の石段に千秋を座らせ、ビールを買ってきてくれた。相変わらずフットワークの軽いやつだと感心する。なんだかよくわからないままに乾杯し、彼女にとっては二杯目になるビールに口をつけた。 さすがに酔いが回って、周りの空気がにわかに現実感を失う心地がする。さっきまで道の向こうから眺めていた「幸せ」のさなかに連れてこられ、ただでさえ夢でも見ているような不思議な気持になってる。ほんとうに、いいのかしら。こんなところに彼のような男の子と居るべき時期は、とっくに過ぎてるのに。そんな思いがふと心に浮かんだけれど、それは酔いと疲れでぼーっとなった意識の中に、沈んで消えた。 となりでなにやらごそごそしていた陸は、大きなポップコーンの袋をリュックから取り出した。その唐突な登場の仕方に、千秋は思わず吹き出してしまう。 「なんだって、そんなもの、リュックに入ってるのよ」 「今日はツレと映画見る予定だったから、家にあったのを持ってきたんだよ」 「やっぱ、映画には絶対ポップコーンだし?」 「うん」 「だけど、映画館で売ってるのは高いし?」 「そう」 「で、家でたまたま見つけたのを持ってきたと……」 「まあ、そういうことだな」 一瞬の「間」のあと、千秋の笑いが爆発した。 「あー、おかしー。陸ってほんと、変わってるわ」 なんだかわからないけれど、おかしくってしょうがない。自分でも、壊れてるなという自覚はあるのだけれど、笑いが止まらない。しばらく呆然と彼女を見ていた陸が、おそるおそる、聞いた。 「千秋、ひょっとしてお前、けっこう酔ってる?」 「当たり前じゃないの。昨日ぜんぜん寝てないんだから……ねえ、ひょっとして……」 「な、なんだよ」 「待ち合わせの相手って、麻優里ちゃん?」 「違う。あいつはぜったいに遅刻なんてしねえ。5分前には来て、ちょっとでも相手が遅れたら文句言うタイプ」 心ならずも、胸のどこかで何かがふっとほどけたような気がした。 もう「映画でポップコーン」はあきらめたらしい。陸は袋を開けて千秋に差し出し、自分は中身を時おり口に放り込みながら、公園のあちこちに投げ始めた。すると、いったいどこにいたんだろう。あっという間に、信じられないほどのハトやらスズメやら、なんだかよくわからないヘンな鳥やらが集まってきて、一大争奪バトルが始まる。鳥類があまり得意でない千秋は、思わず心の中でひえーと悲鳴を上げた。 「な…何? これ」 「面白れーだろ? これやるとはまるんだよな、いつも」 ってことは、彼はいつも、こんなことをしてヒマをつぶしているのか。やっぱりヘンな奴……そう思いつつ、おそるおそるその様子を見守っていた千秋だったのだけれど。 たしかに、それはちょっとした見ものだった。 陸はわざと、ポップコーンをあっちに投げたりこっちに投げたりする。するとそのたびに、鳥たちはどどどどどっと必死でそちらへ走って行く。半分よろけながらも右へ左へと大移動する鳥たちを見ながら、千秋は呆れて言った。 「あんた、そうとう根性悪いわね」 「なに言ってんの、すみっこにいるちっちゃい奴らにも食わせてやろうとしてんだよ。ほれ、千秋もやってみな」 ふたたび袋を差し出され、仕方なしに中身をひとつ取って、投げる。だけど、やってみると確かにけっこう面白い。ひとつ、またひとつと投げ続けているうちに、あろうことか、彼女はすっかり夢中になってしまった。 しばらくふたりは無言で投げ続ける。陸がいつになく無口になっていることに、千秋は気づいた。ともあれ没頭できる作業があることが、にわかにありがたく思えてくる。黙っているとなにやら複雑な空気が、ふたりの間に積もり始めるような気がして。 陸は立ち上がって、思いっきり空高く、いくつもまとめてポップコーンを投げた。まぶしい日射しの中、大きなハトたちが飛び上がり、見事にそれらをキャッチする。周りからおーっと、どよめきが上がる。 いつの間にやら鳥たちによる一大争奪バトルは、みんなの注目を浴びていたらしかった。 「あき兄、お前の職場に行ったんだって?」 ふたたび石段に座りながら、唐突に陸は聞いた。 「悪かったな、どうしてもコンタクト取りたいって言うから、つい、教えちまったんだけど」 「別に、どうってことないわよ。誰でも知ってる店だもの」 「メシまで付き合わされたんだって? あいつ千秋に惚れてんじゃねえか? 妻も子もあるってのに、とんでもないやつだな」 そう言って陸は笑った。つられて千秋も笑いながら答える。 「残念だけど、そういうことじゃないみたい。単なる出演交渉。またステージやってくれないかって」 「それも聞いた、で、どうすんの?」 「わかんない」 そう、答えるしかなかった。本当にどうするべきなのか、まったくわからなかったから。 「なんか、千秋らしくねえな」 陸は言った。その少し憮然とした横顔を、千秋は思わずまじまじと見る。まっすぐ前を向いたまま、彼は言葉をつなげた。 「自分がどうしたいのかわかんないなんて、ほんとにお前らしくねえ。なんていうか、千秋はさ……」 そこで陸はいったん、言葉を切った。しばらく口を開かず、ポップコーンを投げ続ける様子は、何を言うべきか考え込んでいるようにも見えるし、すでに心にある言葉を口にすべきか迷っているようにも見える。それこそ彼らしくもないその意味深な間を、千秋が不審に思い始めたとき、彼は再び口を開いた。 「自分の欲しいものや、やりたいことがきちんとわかってて、絶対に妥協はしない。それが千秋だろ? 短い付き合いだけど、俺はなんとなくそう思ってた。仕事の話聞いてても、他のどんな話聞いてても、お前の中にあるのは本当にお前が心底好きで、きちんと選び取ってきたものばかりなんだってことがよくわかるから。それってすごいことだと思うぞ。普通なかなかできることじゃない」 「それって単なるワガママってことじゃないの?」 なんだか不思議な感動にとらわれながら、千秋は聞いた。 「単なるワガママってことじゃない。だってお前誰にも迷惑かけてないじゃん」 千秋はそれ以上何も言えず、ただ呆然と陸を見つめる。自分でもガラにもないことを言ってしまったと気づいているのか、決してこちらを見ようとはしないその横顔が、彼女の視線に照らされてほんの少し赤くなったような気がした。 彼が、これほど自分のことを理解してくれてたなんて……千秋は驚く他なかった。 理解し、そして肯定してくれてる。単なるワガママなんかじゃない、と。 その言葉は、思いの他彼女の心にしみた。ずっとずっと、誰かにそう言って欲しかった。歌も仕事も、彼女がやりたかったこと、必死で築いてきたことすべてを、智史は「ワガママ」という言葉の元に否定することしかしなかったのだから。 「歌、やれば?」 長い沈黙のあと、陸がぽつりと言った。 「千秋が心底いっとうやりたいことって、それなんだろ? ステージ見て、すぐわかったぞ。歌わないお前はお前じゃないって、今は思ってる。なんでやめちまったんだよ」 千秋はうつむいた。その答は言えない。自分の欲しいものをきちんと選び取ってきたはずの彼女が、選択を誤ってしまった、唯一のもの。そのために今の彼女が自分自身をすら見失いかけているなんてこと、絶対に言えない。 今の自分は、陸の思ってるような自分じゃない、そんな気がして悲しくなった。 「まあ、ムリに言わなくていいけどさ」 陸は笑って言った。 「俺もあき兄と同じで、千秋の歌をまた聴きたい。まあ、ファンになったってことだな。ほんとたまにでいいからさ。またステージやってよ」 さらりと言われ、一瞬、心臓が止まるかと思うほど、驚いてしまう。 たった半月会わないだけで、男の子というのはこんなに大人びるものなのだろうか。 「ファンだなんて、10年早いわよ。でも、ステージのことは考えとく」 狼狽を隠して、彼女は答えた。まったく素直になれない、成長しないのはこちらのほうだと、内心苦笑してしまう。 そして、クローゼットの奥にしまいこんだままのキーボードのことを思い出す。とにかくあれをまた、引っ張り出してこなきゃならないことになりそうなのは確かみたいだわ。 それから陸は、いつもの陸に戻り、ふたりは交互にポップコーンを投げながら、他愛のない話を続けた。 仕事のこと、音楽のこと、学校のこと……いつものように。彼と居ると、どうしてこんなに話が尽きないんだろう。 あいかわらずお陽さまは、さんさんと暖かい。どこかで誰かがギターを弾いて歌っている。CCRの…そう、『Who'll Stop the Rain』、大好きな曲だ。ぼんやりと耳を傾けているうちに、やたらと眠くなってきた。どうやら寝不足とビールの酔いが戻ってきたらしい。 あーあ、なんだか幸せだな。やばいなー。ほとんど回ってない頭で千秋は思う。天気が良くて、暖かくて、好きな歌を聴きながら、なぜだか自分を深く理解してくれる素敵な男の子の側に居て。こんな幸せに、彼女はまったく慣れてない。こんな時間を過ごしてしまうと、戻れなくなってしまう。どこへ? 智史が待っているかもしれない家にだ。彼は怒っているだろうか、怒ってても、怒ってなくても、虚しい気がする。戻りたくないなあ、どこへ? 現実の世界、人生というやつにだ。 ずっと、このままでいられたらいいのに。 「おーい、寝るな千秋」 陸の声が、遠くから聞こえたような気がした。その瞬間、何か暖かいものが彼女の頬に触れる。 そのぬくもりが、あまりに心地よかったので……。 それが陸の肩であることにも気づかず、千秋は彼にもたれてそのまま眠り込んでしまったのだった。 「何も言うなよ。お前ぜったいなんか誤解してんだからな」 1時間と言いながら、きっちり2時間遅れてきた友達のヒロトが、にやにや笑って何か言おうとするのを制して、陸は言った。 「どうぜ、こういうことならもっと遅れてきてもよかった、とか思ってんだろ? ぜんぜん違うんだからな」 「なーにが違うんだよ。そんなおいしいことしといて、言い訳すんなっての」 「俺は何もしてない!!」 思わず叫びそうになって、陸はあわてて声を殺した。なにしろ肩には千秋がもたれて、くーくー寝息をたてているのである。 「こいつ疲れてんだよ。徹夜明けでぜんぜん寝てないのに、付き合ってもらったんだ。こうなってんのも、おめーが来ないからだろーが」 ヒロトのにやにや笑いは消えない。陸は何を言ってもムダだと悟る。 「とにかく、目が覚めるまで待っててもらうぜ。待てるよな」 陸の言葉に、彼は肩をすくめ、腰を降ろす。そして眠っている千秋の顔をまじまじと見つめ、声をひそめてきいた。 「この人、いくつなの?」 「28」 「ひえーっ、見えねー」 「しかも結婚してる」 「それ、やばいんじゃないの?」 「別に、やばくねえよ。ダンナとは仲良くやってて、俺は単なるツレなんだから」 彼は思わず陸をじっと見た。こいつはこんなときに嘘やごまかしを言えるやつではない。その表情から、陸が純粋に心から、この肩にもたれて眠っている女を「ツレ」だと思っていることを悟った友人は、ため息をついた。こいつ、近いうちにぜったいトラブるぞ。 「そんなこと言ってもお前なあ、誰も信じねえよ。麻優里が気をもむわけだわ」 「麻優里?」 思いがけない名前に、今度は陸が目を丸くする番だった。 「お前、学校の連中に、この人といるとこ、何度か見られてるだろ? こないだの亮二のライヴでも見たって誰か言ってたし。けっこう、噂になってんだぜ。麻優里が聞いてたぞ。お前が年上の女と浮気してるってのはほんとかって。俺もまさかとは思ってたんだけどな」 「へ?」 そりゃ、千秋といるときに知り合いと会ったことは何度かあるけど……それがまさか噂になるようなこととは、つゆほども思っていなかった陸は、言葉が出ないほど驚いてしまった。まして、そのことを麻優里が気に病んでいるとは……。だいだい、毎日会ってるのに、彼女自身からそんなこと一言も聞いてないのだ。 陸が何か言おうとしたとき、彼の肩で頭がごそごそ動いた。千秋が目を覚まし、なんだかわけがわからない、といった表情で、陸とその友人を交互に見る。 「あー、千秋、こいつが時間を守らない俺のツレ……。おい、お前彼女にも謝っとけ。いっしょに待っててくれたんだから」 なんで謝らなくてはいけないのかと、少々納得の行かない顔をしながらも、ヒロトは素直に「ども」と頭を下げる。千秋はどうやら、いっぺんに目が醒めたみたいだった。 真っ青だった空に、少し翳りが見え始めてる。千秋はひとり、さっきと同じ場所に座って、ぼんやりと空を眺めた。 急に吹きだした風に肌寒さを感じるのは、隣にいた大きな男の子がいなくなってしまったから? しばらくここで酔いと眠気を覚ましてから帰ると言った千秋に、「じゃあ俺も付き合うから」と、当たり前のように返した彼のことを思い出す。押し問答の末、最後まで離れがたい様子のまま友人と立ち去った、あの心底気がかりそうな表情も。 あの子いったい、私のことをいくつだと思ってるのかしら。なんだか笑ってしまう。よほど自分は、放っておけない奴だと思われているらしい。まあ、しょうがないかもしれない。実際、白昼堂々と17歳の男の子の胸にもたれて眠ってしまうような、無防備さなんだから。 目が覚めて、事態を理解したとき、一瞬パニックになった。いくら疲れていたとはいえ、年甲斐もなくこんなとんでもないことをやらかしてしまうとは、しかも目の前には知らない男の子までいるし。 だけど陸はさほど慌てた様子もなく、彼を紹介してくれたので、彼女は冷静さを取り戻したんだった。その友達の男の子が自分をどう思ったかは、まあ、考えないことにしよう。 夢みたいな時間を過ごした。その楽しさだけが心に残る。でも、彼女は大人なのだ。もうそろそろ帰らなくては。 現実へ帰ろう。彼女は立ち上がり、ふと思い出してカバンから携帯を出した。 ずっとマナーモードのまま、カバンの奥底に放り込み、その存在すら忘れてた。一瞬頭から血の気が引くが、ダンナの普段の生活を考えれば、こっちへ連絡を寄越す可能性は限りなくゼロだろうと気を取り直し、着信履歴を開く。 「うそ……!?」 今度はマジで血の気が引いた。画面には智史の実家からの着信記録が、いくつも並んでいた。 あわてて智史の実家に電話した千秋は、彼が昨日、自宅の鍵を持たずにいたことを知った。そんなときに限って早く帰ってきてしまう間の悪さもいつものこと。電話に出た義母の説明によると、彼は真夜中のマンションの入り口で、しばらく妻の帰りを待っていたのだけれど、業を煮やして電車で一駅のところにある自分の実家に帰ったのだそうだ。 彼の携帯からの着信は、ない。妻は家にいてこそ当たり前と考える、プライドの高い彼にとって、女房の携帯に電話して所在を尋ねるなんてことはとても出来なかったのだろう。 その夜は実家に泊まった彼は、翌朝、スペアキーを持って家に帰り、ことなきをえたらしいが、おかげで千秋が行方不明であることが発覚し、森川家は大騒ぎになった、というわけだった。 「それにしても、そんなに仕事が忙しいの? うちでは智史の父親に自分で鍵を開けさせるなんてこと、絶対になかったわ」 はっきりと非難の口調で言われ、思わず身が縮こまる。義母にとって、真夜中のマンションの前で、ひたすら妻の帰りを待ち続ける息子の図は、とうてい許せないものであったに違いない。それはわかる、わかるけれども、どうにも納得がいかない。 だったら、あんたの息子の生活態度はどうなのよ…そう、言いたかったけれど。 言ってもムダなことは、経験的にわかっていた。この家では、男と女であらゆる価値観の尺度が、大幅に変わってくるらしい。そして彼は、この母親に育てられたのだ。改めてそう思い、千秋は小さくため息をつき、マンションのエントランスをくぐる。 鍵をあけ、部屋に入ったとたん、リビングのドアが開き、智史が大股にこちらへと歩いて来た。無言のまま。いつもと違う空気の色に恐怖を感じながらも、とにかく謝らなくてはと口を開こうとしたとたん。 平手が頬に飛ぶ。 何が起こったのかわからず、呆然と頬を抑えていると、今度は逆から思いっきり叩かれた。 身体がよろけてドアに当たり、ガシャンと大きな音をたてる。 「お前は、殴らなきゃ、わからないんだな」 座り込む千秋を一瞥し、少し息を切らしながら智史は言った。何を? 何をわからないって言うんだろう。呆然と彼を見上げながら、千秋は考える。不思議と怒りはなかった。ただ、衝撃のあまり、心が麻痺していた。 自分は本当に、重大な何かをわかっていないのかもしれない。そう思えてくる。智史のような男と生きてゆくためには、絶対にわかっていなくてはならない何かを。自分の好きなこと、やりたいことを、ただ必死に追い求めてきた。それがいけなかったのだろうか。 単なるワガママじゃない。だってお前、誰にも迷惑かけてないじゃん……。 遠くから、あたたかい声が聞こえる。「陸……」と、心の中でつぶやいてみる。ほんの少し、力を得たような気がして、千秋は強い目で夫を見つめ返した。 だけど、彼女が出会ったのは途方に暮れたような彼の瞳。彼もまた、完全に自分をコントロールする力を失い、混乱しているように思えた。 内心を悟られたことに、気づいたのだろうか。 智史は玄関へと降りた。千秋は思わずびくっと身を引くが、もう彼は、こちらのほうを見ようともしなかった。靴を履き、彼女の横を通り、外へ出て行く。 遠ざかる足音。だけど千秋は、立ち上がることができない。あの悲しげな瞳の色が、心に焼き付いて離れなかった。 どうして、わかってくれない? どうして俺に、こんなことをさせるんだ。 あの瞳に、そう訴えられているような気がして。 「なに、ぼーっとしてんのお前」 そう声をかけられ、陸は我に返った。ヒロトはすでにハンバーガーのトレイをテーブルに置き、目の前に座っている。 自分が無意識に右の肩に触れていたこと気づき、陸は慌てて手を降ろした。 今も残るそのぬくもりを、彼はずっと持て余している。あんな風に身体が触れ合ったのは、初めてのことだったけれど、そうどきどきしたわけではなかった。最初は「しょうがねーなあ、寝かせといてやるか」なんて、軽い気持で思っていただけだったのに。 無防備な寝顔は、思っていた以上に幼く、頼りなげで、見ているうちに陸は、なぜだかどうしようもなく切ない気持になってしまったんだった。 あのとき彼は、本能的に察してしまったのかもしれない。千秋が実は、自分が想像する以上に、厳しく辛い現実を生きているのだということを。 「なんか、マジでやばいんじゃねえの? おまえ」 ぼんやりとハンバーガーをかじる陸を見て、ヒロトはため息混じりに言った。 「うるせー」 陸は小さく答えたが、内心自分でも焦りを感じていた。制御不能な方向に、自分自身の感情や周囲の事態が走り出そうとしている、そんな焦り。このままにしてはおけないことは、わかっていた。 ともかく事実を知らなくてはいけない。陸は、気を取り直してヒロトに聞いた。 「なあ、そんなに噂になってんのか? 千秋のこと」 「まあな、麻優里の友達なんか、けっこう怒ってるみたいだぞ」 ああ、そういうことか……と陸は納得する。このところ何気に冷たい目で見られてるような気がして、なんなんだよ、と思ってたのだ。まったく思い当たることがなかったのは、自分の中にやましさがないという証拠でもあるが、だた単に鈍感だったとも言える。 だけど、肝心の麻優里の態度は、まったく変わらないのだ。 「なんであいつ、俺に何も言わないんだろう」 彼としては、もっともな疑問だった。だけどヒロトは、少し呆れた顔をして言う。 「言えねーよ、あいつは。お前、自分のカノジョの性格、全然わかってないんだな」 「え?」 「よけいなこと言って波風立てるぐらいだったら、ぎりぎりまで黙ってる、っていうタイプなんだよ。それに心底お前に惚れてるんだから、お前を追いつめるようなことは、絶対に言えねーと思う」 だからと言って、その心中が穏やかだってことにはならない。そう、言外に言われているような気がして、陸は少し胸が痛んだ。 確かにそうだ。麻優里は見かけほど気が強い女の子じゃない。いつも人に気を使って、言いたいことを言わず黙っているようなところがある。 ツレに言われて、初めてそんなことに気づく俺って……。 「そういうつもりじゃ、なかったんだ。どうしたらいいんだろ、俺」 陸は言った。いつになく弱気になっていた。そう殊勝な態度に出られるとは思っていなかったのか、ヒロトは少し驚いた顔をするが、肩をすくめて、答えた。 「とにかく、態度をはっきりさせろ。頼むから必要以上に泣かせてくれんなよ」 アバウトな友人の、いつになく真剣な顔を見て。 彼が、麻優里を好きなんだってことに、やっと気づいた。 |
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