L.N.S.B [ Story - 16]
 テーブルの向かい側、久々のライヴの本番が近くなるにつれて、千秋が次第に無口になっていることに、陸は気づいていた。
 沈黙が、しばらく続いている。無人のステージを見やりながら、バーボンのグラスを口に運ぶ仕草が、少しずつピッチを上げているのが傍目にもわかる。
 へえ、人並みに、緊張してんじゃん。
「千秋、お前そんなに飲んでてまともにピアノ弾けんのか?」 
 からかい半分、心配半分で、そう訊ねてみた。「よけいなお世話」といつもの調子で返されるかと思ったが。
 思いがけず不安げな視線と返事が返ってくる。
「どうしよう、たぶん、弾けないと思う」
 だったらもう飲むんじゃねえ、と相変わらずの保護者根性を発揮して、陸は千秋の手からグラスを取り上げる。
 そして、何気なく中身を一口飲んで、むせた。
「お前、いつもこんなの飲んでんの?」
 顔をしかめて言う彼に、千秋の張りつめた表情が緩んだ。
「ステージの前は、これじゃないとだめなの。お子さまが、そんなの飲むんじゃないわよ」
 そう言ってグラスを取り返し、少し残っていた中身を一気に飲んでしまう。良かった、ちょっとはいつものペースに戻れたみたい。あーあ、そんなに飲んぢまって、知らねーぞ、なんて陸はぶちぶち言ってるけど。
 その心配げな様子がまた、可愛くて。彼がここに居てくれて良かった、と、心底思う。
 このところ、千秋は彼と会うたび切実にそう思うのだ。そう思わずにはいられないほど、今の彼女は追いつめられている、ということでもあったのだけれど。

「よう、千秋ちゃん、ひさしぶりだな」
 肩を叩かれて振り返った。後ろには見覚えのあるスーツ姿の男。
「あ、中本さん、ご無沙汰してます」
 にこやかに笑って、千秋は答えた。彼はかつての『Sweet Soul』の常連で、千秋のステージを見に毎週のように来てくれていた人だった。
 懐かしい、そう思うひまもないほど、今日はいろんな人からこんな風に声をかけられる。
「久々のライヴなんだって? 島崎くんから連絡もらって、残業すっぽかして来ちゃったよ。間に合ってよかった」
「すみません。急な話で…」
 千秋は恐縮して答えた。とはいえ、彼女が謝らなきゃいけないようなことでもなかったり、する。

 陸に説得されたから、というわけでもなかったのだけれど。
 自分の中でも妙に吹っ切れたものがあって、千秋はあれからほどなくして、「ライヴをやらせてもらいたい」と島崎に電話で告げた。とはいえ、そうすぐにというつもりではなかったのだ。しばらく練習して調子が戻り次第、折を見て、と考えていたのだけれど。
 話を受けて、すっかり喜んでしまった島崎は、なんとその場ですぐさま10日後の金曜の夜を初ライブの日として指定してきたんだった。
 そう強引に迫られたわけでもないのに、どうしてその話を受けてしまったのか、千秋は自分でもわからない。この島崎という男は、意外に手ごわい相手であるようだった。人の良さそうな外見に合わず、妙に押しが強い。そのうえ、ひとたび何かに心をとらわれてしまえば、他のものは目に入らなくなってしまうたちでもあるらしい。そのくせ、その言葉や行動には有無を言わせない説得力があって……。
 なぜ彼がわずか数年のうちに一介のウェイターから2件の店のオーナーにまでなれたのか、しみじみ納得できるような気がした。要するに、千秋などに太刀打ちできる相手ではなかったわけだ。
 ひとたび千秋がうなずけば、後はあっという間に話は進んだ。彼は『Sweet Soul』のかつての常連に、声をかけまくってくれたらしい。いきなりそんなに客が入るはずもないだろうからと、軽い気持で店に入った彼女は、会場時間を過ぎてほどなく、客席が満席に近い状態になったのを見て一瞬青ざめ、その後緊張しているヒマもないほど、懐かしそうに声をかけてくる常連たちの対応に追われることになったわけだった。

「あれ? ひょっとして、君は……」
 中本というその常連の男は、しばらく千秋と話した後、改めて陸を見て、少し驚いた顔をする。
「島崎くんの甥っ子じゃないか?」
 陸はうなずく、このやりとりも、今日、今に始まったことではなかった。千秋に声をかけたかつての常連たちは、島崎に連れられてときおり『Sweet Soul』に来ていた陸のことも、覚えていたのだ。むしろ知名度では、当時子供に近い年齢だった彼の方が勝っているといえるほどだった。
「やっぱりそうか。しばらく見ないうちに、えらく大きくなったな」
 そしてたいていの人に、まんざら社交辞令のようでもなく、心底感嘆した風にそう、言われてるものだから、横で聞いてた千秋は、思わず、吹き出してしまう。

「なんだよ、いちいち笑うんじゃねえよ」
 再び2人になって、陸は憮然とした顔で言った。
「だって、みんながみんな、陸に同じこと言うんだもの。あんたってよっぽど、昔は小さかったのね」
「12の時とくらべたら、大きくなってて当たり前だろ? 何がおかしいんだか、さっぱりわかりゃしねえ。お前ほんとに今日は壊れてんじゃねーのか?」
 いかにも解せない風に、陸は笑いの止まらない千秋を見る。まあ、緊張が解けたようなのは何よりだけど。
 久しぶりに会った大人に「大きくなったな」と言われる。それは17歳の陸にとっては、当たり前の日常だった。それがどうした具合で、千秋のツボにはまってしまうのか。よくわからない。
 千秋自身にも、なんだかわからなかったりする。ただ、彼の横で何度となくその言葉を聞かされているうちに、しみじみと思えてきてしまったのだ。
 陸はまだ、少年なんだな、って。
 憮然としたまま黙っている、その横顔は相変わらずどきどきするほど大人びている。今の彼は、明らかに子供というより「男」を感じさせる生き物だった。だけど彼がそうなったのは、つい最近のことなのだ。
 たった数年で、ダイナミックに外見が変わる、そんな少年の日々を彼は生きてる。そのことがなぜだか、妙に微笑ましく、可笑しく、切ないことのように思えた。どうしてか、胸がいっぱいになってしまって、笑い出さずにいられない。
 確かに、壊れていると言われれば、そうなのかもしれなかった。
「あー暑い。おかげで歌う順番、忘れちゃったわよ」
 少しばかり、気が緩んでしまってたのかもしれない。千秋は深く考えもせず、来ていたシャツの袖を捲った。
「お前、ちょっと飲みすぎたんじゃ……」
 呆れたように、そう言い返そうとした陸の表情が、一瞬、固まる。
 露になった二の腕、くっきりと目立つ大きな痣が、青く浮かび上がっていたから。
「どうしたんだよそれ、なんか、すっげえ痛そー」
 顔をしかめて陸が訊ねる。
「転んだ」
 千秋は笑って、ただ短くそう答えた。

 どうしてこんな風に、笑っていられるのか、自分でもわからない。
 たぶん、心のどこかが麻痺しているのだろう。痛いとか、辛いとか、悲しいとか、そういう感情が、どこか遠くへ行ってしまったように感じてる。ただもう、目の前の現実から目をそらしたいばかりで。
 殴られたのは一昨日、2度目だった。もう、1度目とはくらべものにならないぐらい、滅茶苦茶に。千秋は何もできず、ひたすら顔をかばうのが精一杯だった。顔にキズがついてしまえば、仕事に行けなくなる。長袖を着る季節で、本当に良かった。心のどこかで、そんな冷静な判断をしている自分が、おかしくすらあった。
 最初に頬を張られたあの日曜日以来、智史の千秋に対する態度は、「放置」から「束縛」に変わりつつあった。
 毎日のように、千秋より早く帰ってきて、夕食を作れと怒る。彼女の帰りが10時を過ぎると、めちゃくちゃに機嫌が悪くなる。そうかと思えば、彼女が必死に早く帰ってきて作った食事に手もつけようとせず、ぷいっと家を出て朝まで帰らないこともあった。
 そして、さすがに黙っていられなくなった千秋が抗議すると、いきなり殴りつけられたのだ。
 なんだか彼は、自分が優位にいること、上に立っている人間なのだということを、必死で妻に誇示しているように思えた。千秋が精神的に自分から離れ、自由を求めようとしていることを、智史は気づき始めているのだろう。そして彼なりに、危機感を募らせているのかもしれない。
 それにしても…こんなやり方しかできないなんて、悲しすぎる。
 不思議といつも、怒りはなかった。ただ、智史の頑なさや不器用さ、こんなことで相手をコントロールできると思っているその考えの浅はかさが、やるせなく、悲しい。
 その悲しさが、千秋の思考を麻痺させ、事態をどうにかしようとする気力を奪っているのかもしれなかった。とっくに逃げ出してもおかしくない状況だったのに、そうなると自分が彼を見捨ててしまうようにも思えて、動き出せない。
 義母の話では、彼は今、会社でもいろいろと辛い立場に立たされているようだった。ちょっとした不運からプロジェクトを失敗させてしまい、折からの不景気で社内にもリストラの嵐が吹き荒れる中、意に染まぬ仕事を押し付けられたりといった嫌がらせを少なからず受けているらしい。これまで順風漫帆の「できる男」でやってきた彼には、耐え切れない挫折なのだろう。そんなストレスが、妻への風当たりに影響しているらしいことも、想像のつく話で……。
 今自分が家を出て行ったら、智史はどうなるかわからない。
 そんな恐れと迷いと、どうでもいいという投げやりな気持、様々な思いに縛られて、動けないまま、千秋は日々を過ごしていた。
 だから、「10日後に初ライヴを」という島崎の無茶な要求は、むしろ彼女にとって救いであったのかもしれなかった。
 智史のいない時を見計らってキーボードを引っ張り出し、ひまを見ては練習を続けた。本番までにどうにか昔の調子を取り戻そうと、必死だった。必死だったから、何もかも忘れていられたのだ。
 仕事と、ライヴの予定と、そしてときおりカフェに行って陸の顔を見るということがなかったら、彼女は本当に壊れてしまっていたかもしれない。

「お前ほんとにドジが治んねーんだな。どうせまた、カカトの高い靴履いて、眼鏡もかけずに歩いてたんだろう? もういい加減、学習したらどうだ?」
 いつもの調子で言葉を返す陸は、千秋の言葉をまったく疑っていないようだった。まさか彼女が、それほど凄まじい現実の中にいるなんて、彼には想像もつかないことだろう。その無邪気な笑顔が、今の彼女には心底ありがたく思える。
 とにかく、何もかも忘れよう。ここにいる間だけでも。
 上手く歌えるだろうか、ふたたび心臓がどきどきし始める。だけどありがたいことに、ちょうどそのとき島崎が彼女を呼びに来た。
「椎葉さん、そろそろセッティングお願いします」
 ひとたびステージに上がってしまえば、あらゆる思いは消える。思い切り歌えば、心はいつも、空っぽになる。
 悩んだって、しょうがない、人生なるようにしかならない。そんな強さを、彼女はいつも、歌うことによって身につけてきたのかも知れなかった。
 千秋は立ち上がり、陸に目をやった。「頑張れ」と返された、笑顔の確かさに、強く強く、勇気づけられる。
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