L.N.S.B [ Story - 17]
 拍手の中、ひとたびステージに上がってしまえば、その姿は遠いものになる。
 自分のことのようにドキドキしてみたってしょうがない。彼女は今、独りなのだ。
 どうしていつもこんなに気がかりなのか、陸にはわからなかった。千秋の辛さ、苦しさを、今の自分が本能的に感じ取っているなんてことなど、彼には知るはずもないことだったから。
 違うんだ……と陸は心の中でつぶやく。麻優里や学校の連中が考えているようなこととは違う。彼女は大人で、結婚していて、自分とは全然違う世界を生きてる。そして、大きなものではないにせよ、確実に人の心を動かす力を持っている。さっき、自分のために集まった人たちの中にいる彼女を見て、陸はそんな思いを新たにしたんだった。
 誤解されるなんてことすら、初めから想像もつかなかったほど、彼女は遠い存在、単なる偶然から、親しく話すようになっただけのことで。
 なのに、いざ向かい合うと、どうしてあんなに頼りなく思えるんだろうな。つい、友達のような口を聞き、ことあるごとに、放っておいてはいけないような気持になってしまう。それは確かに謎だったが、しょせん、謎は謎に過ぎない。
 恋愛とは違う、それは当たり前のことなのに。
 突然流れ出した驚くほどパワーのあるピアノの音に、陸はそれまで考えていたことを忘れた。
 わずかな重さが迫力を感じさせる、アップテンポの曲。以前聴いたような静かなバラードを予想していた彼には、あまりにも意表を突いた始まり方だった。
「アレサ・フランクリンだ」
 横でつぶやいた叔父は、あーあ、人目をはばかりたくなるほど、うれしそうな顔をしてる。
 しょうがねえなあ、いい歳をして。
 だけど彼のそんな余裕の思いも、一呼吸して歌い出した千秋のパワーにあふれた迫力の歌声を聴いて、あっという間に飛んで行ってしまった。

 ライヴが終わり、楽屋から出てくると同時に、千秋はあっという間にたくさんの人たちに取り囲まれる。
 彼女に花束やプレゼントを渡す者あり、彼女の手を握って興奮気味に語りかけるものありと、それは、離れたところから見ている陸にとって、まさに「感動のワンシーン」だった。
 その様子は、なんていうか、同窓会に似てる。かつて同じ店に集まって千秋の歌を聴いた彼らは、数年ぶりに集まるのに違いなくて……ああ、そういうことか、と、陸は隣にいる叔父の顔を見る。
 彼は本当に、「同窓会」を演出したかったのに違いない。嬉しさを隠さないその表情を見ながら、陸は納得した。
 今日は先に帰ろう、と思う。みんなの真ん中にいる千秋は、なんだか楽しそうだ。まだしばらくは、帰らないだろう。
 あの頃の空気を知らない自分がいつまでもいては、なぜだかいけない気がした。
 いつもなら、そう、どうにも心配で、彼女をひとりで残して帰れない気持になるのだけれど。
 それだって、単なる自分の思い込みだったのかもしれないと思う。なんだかんだ言って、あいつは大人なのだ。
「あき兄、俺、先帰るわ。千秋にステージ良かったって、言っといて」
 叔父にそれだけ言い残して、陸は立ち上がった。
 花束を抱えた千秋の胸が、実は今、どうにもならない虚しさに疼いているなんてこと、遠くから見ているだけの彼には、知る術もないのだった。



 懐かしい人たちに囲まれ、にこやかに受け答えを繰り返しながら、千秋は言いようのない寂しさを持て余している。
 力いっぱい歌い切り、すべてを出し切ってしまった後の喪失感。それは覚えがなくもない感情だった。そしてそれは常に、彼女にとって悪くはない感情のはずだった。歌っていると、あらゆるよけいなもの、重たいものが消えてゆき、心が軽くなる。その爽快感を味わいたくて、いつも思い切り声を出すといってもいいほどだったのに。
 同じような心の状態が、マイナスに響くこともあるなんて、こんなこと、初めてだわ。なんだか胸が空っぽになってしまったような感じ。寒くて、淋しくて仕方がない。何か暖かく力強いもので、心を埋めてしまいたかった。お陽さまのようなあの笑顔はどこ? 陸はどこにいるんだろう。
 どうにか言いつくろって、常連たちの輪から抜け出す。自分でも、どうしてこんなに寄る辺ない気持になるのかわからないまま、あちこちをきょろきょろと探し回り、彼女はホールの片隅に島崎の姿を見つけた。
 お疲れさま……と、屈託のない笑顔を返す彼に、思わず駆け寄って尋ねる。
「あの、陸を見ませんでしたか?」
「陸ですか? あいつならさっき帰りました。ステージ良かったって、言ってましたよ」
 「そうですか……」と、千秋は力なく答えた。帰っちゃったんだ。空っぽになった心が、支えを失ってくにゃりとつぶれてしまうような、そんな脱力感に襲われる。
 よほど、心が弱ってるんだわ。こんなことで、どうしようもなく落ち込んでしまうなんて。
 どうかしてる、そう、心のどこかで考えるだけの冷静さはあったつもりだったのだけれど。
「ど……どうされたんですかっ!! 椎葉さん?」
 ひどく狼狽した島崎の声が聞こえるのと同時に、止めようもなく、涙がぽろっと零れ落ちるのを感じた。

「すみません……」
 小さくつぶやいて、差し出されたコーヒーのカップを受け取る。
 仰天した島崎に、すぐさま事務所に連れ込まれてしまった。大きめの机がひとつ置いてあるだけの、小さなオフィス。おそらく彼がこもって仕事をする専用の場所なのだろう。狭いなりに居心地が良く、彼に見守られながら黙って暖かいコーヒーをすすっているうちに、千秋は少しずつ気持が落ち着いてきた。
 同時に、さして親しくもない相手に、心のほころびを見せてしまった自分が、どうにも気恥ずかしくなってきてしまう。
「すみません」
 彼女はもう一度、謝った。
「このところ、精神的に参ってしまうことが多くて……。かっこ悪いとこ見せちゃいました。驚かれたでしょう?」
「驚きましたよ」
 島崎は、笑って答えた。
「その……まさかとは思うけど、陸と何かあるのかと……。まさかですよね」
 少しばかり、どきりとしたが、千秋は表情を変えずに首を横に振る。
「何もないです、っていうか、あるわけないです」
「そう、ですよね。あいつの方は妙に椎葉さんのこと気に入ってるみたいで……。いつもお守りさせて、申し訳ないとは思ってるんですが」
 歯切れ悪く、彼は言った。このふたりの間柄を、どう解釈して良いのかわからない様子が、見て取れた。
「でも、本当に、どうされたんですか? 言いたくなければ、無理に聞くつもりはないんですが」
 心底心配そうな表情で、改めて聞かれ、話すしかないと千秋は観念する。泣き出すタイミングが、あまりにも絶妙すぎた。このままだと、確実に陸とのことを誤解されてしまうだろう。覚悟を決めて、重い口を開く。
「ダンナと……智史と、上手く行ってないんです」
 驚くかと思われた島崎は、以外にも穏やかな表情で千秋の言葉を受け止めた。
「そうですか……」
 彼は言った。その、どこか妙に納得したような口ぶりを千秋が不思議に思っていると、不意に机の上に置かれた腕に軽く触れ、彼女にたずねる。
「これも……そうなんじゃないですか?」
 驚きのあまり千秋は一瞬、言葉をなくした。腕についた痣は、厚手のシャツの袖にきちんと包まれている。誰にも気づかれないはずだった。
「どうして……」
 震える声で聞き返す千秋に、島崎は「すみません……」とあやまった。
「ステージの上でピアノを弾いている時に、何度か見えてしまったんです。本当に一瞬だったから、他のお客さんは気づいていないと思う。でも、陸が『あいつ、派手にすっ転んだんだな』なんて言うものだから。俺はなんとなく気になってしまって……。転んでついたような傷にはとても見えなくて、ちょっと嫌な感じがしていたんです」
 今度こそ返す言葉が見つからず青ざめる千秋に、島崎は沈痛な面持ちでもう一度詫びる。
「すみません。森川さんのことでは、いろいろと軽率なことを言い過ぎました。気分を悪くされたんじゃないですか?」
 亮二のライヴで再会したときのはしゃいだ口ぶりを、彼は心から後悔しているようだった。少し救われたような気持になって、千秋は「いえ……」と言葉を返す。
「私にも、どうしてこんなことになってしまったのか、わからないんです」
 決して知られてはならないことを知られてしまったことで、逆に心は軽くなっていた。我知らず、言葉が口をついて出る。
「気が付けば、智史は、私のやることすべてが気に入らなくなってました。そんなに好き勝手にやってたわけじゃないんですよ。彼に迷惑かけないように、いろいろ努力してみたんですけど、だめでした。私が私でいることが、彼にはとにかく気に入らないみたいです」
 話がどんどん長くなってゆくことに気づき、彼女はあわてて言葉を切った。相手が黙って聞いてくれるのをいいことに、なんだか際限なく愚痴ってしまいそうだった。
「すみません、こういうこと、話すつもりじゃなかったんですけれども」
 赤くなって詫びる千秋に、島崎はかぶりを振り、穏やかに言った。
「よかったら、もう少し話してくれませんか?」
 彼は、自分自身が千秋の話を聞きたいから、というよりも、彼女の気持を楽にさせるためにそう言ったのだろう。
 わかっていたのだけれど、彼女は再び、話し出さずにはいられなかった。相手が島崎だから、というより、長い間出口を求めていた心が、もう、その苦しさが、限界に近いところまできていたから……タイミングの問題だった。
 すべてを心得た様子で、親身に話を聞いてくれる島崎の共感に満ちた瞳もまた、彼女をいつになく饒舌にしていたのだけれど。

 自分の結婚生活のことをあらかた話してしまった後、最後にたったひとつの疑問が心の底に残っていることに千秋は気づく。
 智史は、どうして……聞いてもせんないことだと思いながらも、彼女はその疑問を口にせずにはいられなかった。
「智史はずっと、そのまんまの私を好きでいてくれるんだと思ってました。私の歌も、仕事に対する気持も、すべて理解してくれてるんだと。それが、結婚してすべてゼロになってしまうなんてこと、あるんでしょうか。私はちっとも変わらないのに、その同じ私を嫌いになってしまうなんてこと……。悲しいというより、それがどうしても納得いかなくて……」
「『納得いかない』ですか。なんだか椎葉さんらしい言葉ですね」
 島崎は笑って言った。
「森川さんはたぶん、人を納得させるとか、筋を通すといったことに、あまり価値を置かない人なんじゃないですか? 結婚してからの自分の心境の変化についても、彼自身、説明できるようなものじゃないんだと思います。自分でもよくわからない、だけどとにかく正しい。そう、思ってる。あの人は昔常連さんだった人だし、ああいうタイプの人は少なくないから、俺にもなんとなくわかるんですけれど」
 少し考えて、彼は言葉をつなぐ。
「たぶん、世間並みの『常識』に従っていればいいと思ってる。自分の頭で、あれこれ考えることをしない。今思えば、良くも悪くも、椎葉さんとは正反対の性格だったのかもしれません……どうされました?」
 唐突に聞かれて千秋は我に返った。よほど呆けた顔をしていたらしい。だって、あの頃、ウェイターだった彼が、客である智史のことを、そんなにも冷静に観察してたなんて。しかも、彼の言葉は見事に真実を突いていた。彼女自身が薄々感じていたことを、言葉を交わしはじめて何日もたたない相手に見抜かれてしまったのだから。驚くより他ない。
 千秋の心を読み取ったかのように、島崎は笑った。
「目立ってましたからね。森川さんと椎葉さんのカップルは。それに、まあ、俺はあの頃から椎葉さんに憧れていたから、おふたりのことは、きちんと見てたわけです」
 精悍な顔に、照れたような笑顔を浮かべて、そんなことを言われてしまったものだから、千秋は思わず赤くなる。
「まあ、それはそれとして……」島崎もまた、少し赤面しつつあわてて言った。意外に純情なところもあるらしい。
「そうやって俺が見てたことにも気づかなかったわけだから、椎葉さんは人の視線とか、よけいなものを、あまり気にしないたちでしょう?いつもまっすぐで、目指すものしか見ない清々しさがあって。森川さんも、惚れたからには、あなたのそういうところに惚れたに違いない、と、あの頃は見直したというか、一目置いてたんですが。結局、彼もふつうの男だった、ってことなんでしょうか。なんだか、悔しいです」
「え?」
「憧れの椎葉さんが、そんなことになっているというのは、俺としては本当に悔しい」
 さらりと言われ、千秋は再び赤くなってうつむいた。
 そして、次の瞬間。
「元気、出してください。なんとかしなくちゃだめです」
 そんな、真情にあふれた言葉とともに、机の上に置いた右手が、彼の手のぬくもりに包み込まれる。
 さすがに千秋は驚いたけれど、不思議とそれ以上、心は波立たなかった。ぼんやりと、自分の手を包む彼の大きな手を見つめながら、その温もりが、自分の心に届かないのはどうしてだろう、と、考えていた。
 彼じゃないのだ、たぶん。こうやって自分を癒してくれるのは、彼じゃない。
「すみません……」
 握られた手をゆっくりと引き抜き、謝ったのは千秋の方だった。島崎は驚いて我に返る。
「な、なにも椎葉さんが謝ることじゃ……すみません、俺が調子に乗りすぎました」
「いえ、たぶん私が調子に乗せてしまったんです。だめですね。島崎さんには奥さんもいらっしゃるのに」
「いや、それを言われると、少しつらいものがあるんですけど……」
 少しつっかえながら言う、彼のあわてぶりに、千秋の心は少し軽くなった。
 的を射た言葉を韜々と並べる彼と、目の前で冷や汗をかいている彼、どちらが本当の姿なんだろう。そのアンバランスが魅力であるらしいことは、確かだったけれど。
 今はできれば、冷静な分析者でいてほしい。千秋は口を開いた。
「彼は……智史は、変わってくれると思いますか?」
 島崎は真顔になった。少し考えて、首を横にふる。
「俺なんかが言えることじゃないけど、たぶん、変わらないと思います。常識にとらわれてしまった人間というのは、頑ななものだから」
「彼はそれで幸せなんでしょうか」
 かすかな絶望にとらわれながら、千秋はなおもたずねる。
「自分が幸せか不幸かなんてことは、たぶん本人にもわかってないだろうし、どうでもいいことなんでしょう。自分にとって何が幸せかってことを、突きつめて考えるのも、ある種の人にとっては楽ではないことだろうから」
「理解できない……」
 千秋は小さくつぶやいた。自分にとって何が幸せかすらわからないような、そんな人間が自分の夫だとは、正直ここへ至っても思いたくなかった。
 だけど、もう、認めないわけには行かない。自分がぼんやりと感じていたこと、言葉にできなかったことを、目の前にいるこの男は、はっきりと形にして見せてくれた。
 感謝しなくてはいけない、と思う。あの頃から、彼が自分たちを見ていてくれたこと、そして、今もこうして親身に考えてくれること。幸運だったのだ、この人に全てを話すことになったのは。
「ありがとうございます」
 しばらくの沈黙の後、千秋は言った。
「もう少し考えてみます。そして……」
 そして、それからどうするのだろう。どうしても、見えてこない。
 彼女は少しうろたえながら、立ち上がった。

 事務所を出ると、店はもう真っ暗で、誰もいなかった。時計を見て思わず千秋は青ざめる。思っていた以上に、時間をとらせてしまったらしい。
「すみません、遅くまで付き合わせてしまって。子供さんはまだ小さいんですよね。いろいろと大変なんじゃないですか?」
 彼女は聞いた。本当に、現実に立ち戻って考えてみれば、彼にだって家族がいるのだ。自分自身が夫のことで悩んでるくせに、人の夫をこんな時間まで引きとめているのも、我ながら勝手な話だと思う。
 少し恥じ入ってしまった彼女に、しかし島崎はこともなげに笑って答えた。
「うちは大丈夫です。子供はまだ1歳になったばかりで、まあ確かに大変なんだけど。昨日はカミさんが出かけていて、俺が子供を見てました。『夫婦の間では自由は分け合うものだ』っていうのが、僕らの信条なんですよ」
「自由は分け合うもの……ですか」
 千秋は繰り返す。なんだか大事なことを聞いたような気がして。
「元気出してください、椎葉さん」
 さっきと同じことを、島崎は再び言った。
「これからどうするにも、パワーがないと、ろくな結果になりませんよ。今のあなたは、なんていうか、危険だな。ふらふらしてて、あぶなっかしくて、放って置けない」
 自然に熱を帯びてきてしまうらしいその言葉に、千秋は思わず当惑の色を浮かべてしまう。いくらお互いに「自由」を認め合っているらしい夫婦とはいえ、この人は妻帯者なんだった。その表情を見て、自分でも言い過ぎたことに気づいたらしい。
「すみません……。俺は、椎葉さんと会ってからずっと、どうしても冷静ではいられなくなってて、自分でもやばいなとは思ってるんですが……」
 彼は苦笑して言った。
「ただ、ずっと憧れの人だったあなたに思いがけず再会して、こんな気持になってしまうのも仕方ない、とも思うんです。たぶん、うちのカミさんだって、他の誰かに対して同じ気持になることもあるだろうし、このぐらいはお互い様ってことで、許してもらえるんじゃないかと……。だけどこれは恋愛という感情とは別物だし、それで椎葉さんをどうこうしようなんて思ってません。さっきはちょっと、フライングでしたが。あんなことはもう、ぜったいしません。だから……」
 彼は照れたように笑って言った。その笑顔が陸にそっくりだった。
「安心して頼ってください。かならず、いつでも力になります」



「今日はほんとにすみませんでした。なんだか、気が楽になりました」
 階段を上りきったところで、千秋はそう言って頭を下げた。
 その気丈な笑顔が、島崎にはむしろ痛々しく感じられた。彼女がこれから帰ってゆく場所を思えば、どうにも胸が疼いてしまう。
 いかんいかん、と、内心焦りながら、彼は笑顔を返した。そして、ふと思う。彼女、「すみません」って言ったのは、今で何回目だろう。
 雑踏の中、歩いて行く後姿、その肩は細く頼りなげだった。あんなにもろい感じの人だったっけ? 前にこの店で会ったときはもっと、呆れるほど元気な感じで、そう、陸と際限ない口ゲンカなんか、やらかしてた。
 あのときは、陸がいたから、あんなに元気だったんだろうか。
 まさか、な……彼は苦笑してその考えを打ち消した。
back : index : next :

mailform : home :
ひとことあればぜひ(もちろん拍手だけでも)


Powered by FormMailer.