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また、休日を台無しにしてしまった……。 夕暮れのリヴィング、床の冷たさを頬に感じながら、なぜだか千秋の胸に浮かんできたのは、笑ってしまうような、そんな言葉だった。 まったく、何考えてんのよ……我知らず苦笑を浮かべ、切れた唇の痛みに顔をしかめる。なんだって、ずっと忘れていた昔の習慣を、こんな最悪の時に思い出したりなんかしたんだろう。 自分でも、わからない。結婚したころは、確かにそう、ゆっくりと夫婦で過ごす休日というものがずっと彼女の憧れだった。目が覚めれば隣に好きな人がいて、いっしょに映画を見たり、散歩に出かけたり、誰にもじゃまされずにそんな時が過ごせるのだと、思っていたのだけれど。 今思えば、笑ってしまうぐらい、無邪気で甘い夢。なんて子供だったんだろう、と思う。 実際には、今日は本当に楽しい一日だったと思いながら、日曜日の夜を迎えたことなど結婚以来一度もない。智史はいつも不在、たまに家にいたら、こんな風にケンカの繰り返しで……。 泣きたくなるような気持で、ときにはこんな日曜日だってあるんだわと自分に言い聞かせる夜を過ごしていたのは、いつのことだっただろう。 同じ休日を重ねるにつれ、それは単なる習慣になり、独りきりであることに慣れるにつれ、そんな失望の思いすらどこかへ行ってしまっていた。智史にはとっくに、何も期待しなくなっていたから。 本当に独りで在ることが、孤独なんじゃない。どうしようもなく寂しいのは、本当なら側に居るべき人がいないことなんだわ。だから今はもう、寂しくなんかない。 そう、心の中でつぶやいてみる。だけど胸にぽっかりと空いた空洞の冷たさは、彼女から立ち上がる気力を奪ってしまう。もう長いこと彼女はひとり、少しずつ薄暗くなってゆくリビングの床に倒れたまま、起き上がれないでいるのだった。 きっかけはいったい、なんだったんだろう。日曜日の午後、実家から帰ってきた智史はなぜだか手のつけられないほど不機嫌で、ちくちくとからんでくる態度に、千秋はとうとう切れてしまったんだった。 なにか些細なことが、いつのまにかひどい言い争いに発展し、彼女はいつになく胸の中にたまりたまったものをぶちまけてしまっていた。彼女に全てを押し付けておきながら、自分は自由気ままに暮らしていること。家の中のことを全て彼女に任せきりにしているだけでなく、経済的に家族を支えようという責任すら彼が持たないこと。 なによりも夫婦でありながら会話も共に過ごす時間も少なく、いつも彼女を孤独の中に置き去りにしてきたこと。 それらのことを千秋は泣き叫ぶようにまくしたて、気がつくと部屋の隅っこに吹っ飛ばされていたのだ。そしてわけがわからないままに襟首をつかまれ、2度、3度と続けてパンチをくらった。 そこから後のことは、もう何がなんだか覚えていない。というよりもあまり思い出したくない。 ただ覚えているのは、すべてが終わった後、肩で息をしながら立ちつくし、彼女を見下ろしたあの瞳の悲しさ。 完全に自分を見失い、感情をコントロールする力をなくし、途方に暮れているその思いが、痛いほどわかった。思えば、彼女と暮らし始めて以来、智史はずっとそうだったのかもしれなかった。 自分にとって何が幸せなのかわからない、つきつめて考えようとしない人間もいると、島崎は言った。だけど、わからないことが、考えないことが、智史にとっての幸せだったのかもしれない。千秋と出会うまでは。 多勢に従うこと、常識をそのまま信じること。男とは、夫とは、こういうもの、女とは、妻とはこういうもの。付き合っているときは恋人らしく、結婚すれば夫婦らしく、そして仕事をするときは会社員らしく、業界人らしく、周りと同じように振舞っていればいい。それが彼の人生のスタイルだった。何も考えなくてすむ、安楽な人生。それを安直と非難することなどできないのかもしれない。ただでさえ、生きていくことは困難に満ちているのだから。 だけど千秋は、何よりも自分らしくあることを、ごく当たり前に、呼吸するかのように続けてきた人間だった。そして、自分以外の人間も、みんなそうなのだと信じて疑わなかった。だって、「自分自身」で在りたくない人なんているはずがないじゃない。だからこそ、「自分」という核を持たない智史がとても不幸に思えていたからこそ、必死に戦い続けてきたのだけれど。 私は、彼が見たくないものをいろいろとその目の前に突きつけてきたのかもしれない、ふと、そう思えてくる。 そう、彼は彼なりに、このままで幸せだったのだ。千秋が彼の思うとおりの生き方に従っていたならば。あの、途方に暮れた悲しい瞳を見て、初めてわかった。そして初めて、彼が自分とはまったく違う世界の、違う価値観を持つ人間であることを悟った。いや、知るべきだと思いつつ、目をそらし続けていた事実にようやく向き合えたと言うべきなのかもしれない。 どんなに頑張っても、歩み寄るのは無理、もうこれ以上続けるのは無意味なんだわ。 いつものように智史が出て行った後、彼女は心の中で、きっぱりとつぶやいていた。これほど迷いなくそう思えたのも、初めてのことだった。それに胸の中のどこかでは、限界を越えた何かが、理屈抜きの悲鳴を上げてもいたのだ。どっちにしても、こんなことはもう嫌、もうおりた、止めよう、と。 だけどそれから何時間も、彼女は立ち上がれないでいる。 だって、どうしようもないほど体中がずきずきと痛んで、動けない。現実の痛みは、どんなに自分を叱咤してみても、身体からパワーを奪ってしまう。そーっと、手や足を動かしてみる。良かった、骨が折れたとか、そういうレベルの問題ではなさそうだわ。恐る恐る、顔を触って見る。どうやらひどいことになってるらしい、げんなりする。 たぶん、明日か明後日にでも、智史は帰ってくるだろう。いくぶん、機嫌を直して。そしてまた、同じ日々が始まる。小さなきっかけで、また、殴られ、置き去りにされ……それはたぶん、だんだんひどいものになってくる。深くなる泥沼から抜けられない自分の姿がくっきりと胸に浮かび、千秋はぞっとした。 わかっているのに、どうして動き出せないの? どうしよう。 ただもう、どうする術もなくて、途方に暮れてしまった千秋はふと、胸に浮かんできた言葉をつぶやいてみた。 陸……どうすればいい? そして、その名前に彼女を救うパワーがあったことを思い出したんだった。 陸……、もう一度、つぶやいてみる。そうすると、なんだか勇気が湧いてくるような気がして、何度も何度もその名を呼んでみる。陸……陸……。彼に出会って以来、辛いことがあるたび千秋がそうやって彼の名を口にしてきたことを知ったら、あの無邪気な男の子はどう思うだろうか。彼女自身、今さらながら驚いてしまう。 彼の笑顔がこんなにも、今の自分の支えになってしまっているなんて。 あの、やんちゃ坊主のような茶色い髪、いつもいたずらっぽい笑みを浮かべている唇。言葉や動きひとつひとつが、微笑まずにはいられないほど可愛くて、どきどきするほど新鮮で、見ているだけで、元気になれた。 それに……それだけじゃない。あの、揺るぎなく真っ直ぐな瞳は、いつもしっかりと彼女を認め、肯定してくれている。 千秋は間違ってない、ワガママなんかじゃないと。 一晩かけて、降り積もる雪のように、少しずつ、少しずつ、勇気が心に降りてくる。 陸の名を呼ぶたび、そんな気持になれた。 だいじょうぶ、明日になれば、きっと立ち上がれる。 そんな、安堵にも似た思いと共に、千秋はいつの間にか、深い眠りに落ちていたらしかった。 そのままの姿勢で、彼女は翌朝目覚めた。よほど疲れていたのか、床の上で12時間近くも眠り続けていたことになる。気分は最悪……のはずだったが、不思議と気持が軽くなっている自分に気づいた。よく考えるとこれほどまとまった時間眠ったのはひさしぶりだった。 慣れっこになってしまった、独りの朝。シャワーを浴び、鏡の前に立つと、顔のあちこちに腫れと青あざが残っている。 さすがに今日は、仕事を休まなければならないことになりそうだ。最悪の事態、だけどどうしてだろう。頭の中は、いままでになくクリアだった。これから自分が何をすべきか、はっきりとわかっている。こんなことは、智史と暮らし始めて以来、初めてのことかもしれない。 とにかく電話だわ。仕事に出られないことを、伝えておかなくては。それに、こんなときに彼女を救ってくれる相手は、いつも決まっているのだ。千秋は受話器を手にとり、沙希の携帯を呼び出した。週末に別れたばかりなのに、なぜだか懐かしい女友達の声を、無性に聞きたかった。 「不動産屋を?」 沙希は驚いて聞き返した。 「そう、わたしひとりで急に部屋を借りようったって、無理と思うから。ほら、沙希の友達で不動産やってるって人いたじゃない。なんとか融通つけてもらえないかな。どんな部屋でもいいから、とにかく手頃ですぐ住めるところを紹介してほしいの」 ただでさえ頭の回らない月曜日の朝なのに、なにやらただごとならぬことを聞かされて、沙希はしばらく事情が飲み込めず、言葉をなくす。電話の向こうの千秋はなんだかいつもの彼女と違う、異様にハイテンションな口調。勢いに乗って、何かをやらかしてしまおうと考えているらしいのは、明らかで。 「ちょっと待って、その前に今日なんで会社を休むか、きちんといいなさい。なにかあったんでしょ?」 「ばれた?」 「当たり前じゃないの。どう考えても、おかしいわよ」 千秋は肩をすくめた。変に心配させてもいけないから、会ったときに話そうと思ってたんだけど。やっぱりこの女友達に隠し事はできない。 「昨日、ボコボコに殴られました。顔にキズが残って、とても客商売なんてできません」 わざとふざけた調子で、彼女は言った。電話の向こうで息を飲む気配が伝わってくる。 「今から、そっちへ行こうか?」 しばらくの沈黙の後、沙希が言った。 「大丈夫、ふたりも休んだらそっちも大変だから、私の分も仕事してて。ただ、智史が帰ってくる前にここを出て行きたいの。無理なお願いだってこと、わかってるんだけど…」 「だいじょうぶよ。任せなさい」 沙希は言った。 「友達の店に電話して、青アザ付きの女がこれから行くけどよろしくって言っとく。あとで電話番号と場所ををFAXで送るから…ねえ、千秋」 「なに?」 「あんたってほんと、やるときはやってくれる女よね。惚れ直したわ」 受話器を置いた後、またしても千秋は思わず涙ぐみそうになった。だけどそれは今までのような涙じゃない。 沙希という女友達が居てくれることに対する、感謝感激の思いが、彼女の胸をいっぱいにしたのだった。 |
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