L.N.S.B [ Story - 19]
「今だったら許してやる、なかったことにしてやるから、戻って来い」
 席についたとたん、相手を見下すかのように苦い顔を作りながら、智史は言った。
 千秋は一瞬、言葉の意味が飲み込めず、呆然とする。
「もういいかげん、意地を張るのはやめたらどうだ? みっともないぞ」
 たたみかけるように言われ、彼女は我に返った。そして、目の前にいるこの男が、どういう人間であったかを改めて悟る。この後に及んでもやっぱり智史は智史なのだ。5日間の不在ぐらいで、心を変えるような男ではなかった。
 ひょっとしたら彼も何かを深く考えたかもしれない、悪かったと謝ってくれるかもしれない、心のどこかでそんなことを期待していた自分に、初めて気づく。苦笑にも似たものが、胸の中に湧き上がってきた。
「なかったことには、できない。許してもらおうとも、思ってないわ。許してもらわなきゃならないことを、した覚えもないし」
 彼女は、静かにそう答えた。
 家を出てからというもの、めまぐるしい毎日が続いていた。住む場所を決め、最小限の荷物を運び、足りないものを買い、さまざまな手続きに奔走し……ようやく落ち着いて、智史に連絡を取ったのが昨日のこと。
 その4日間、携帯にも一度の連絡も寄越さなかった智史は、家出した妻からの電話にも感情を顕わにすることはなかった。千秋が「今後のことを話し合いたい」と告げると、ただ「わかった」と答えた。
 その予想外の静けさに、千秋は少し期待してしまっていたのかもしれない。
「何を許すっていうの? 家を出たこと? あなたはあれから、いつ帰ってきたのよ。あなたが数え切れないほどやってきたことを、私はたった一度やっただけだわ。私を許すの許さないのなんて言う資格、智史にはない……」
 絶望とも怒りともつかない感情にかられ、彼女は言葉を重ねた。言い過ぎだ、と自分でも思う。どんな物言いが智史を激昂させるか、今では千秋もわかっていた。こんなふうに、たたみかけるように理屈を並べたて、責められることが、彼にはいちばん我慢ならないのだ。
 また殴られてはたまらないから、話し合いの場所は智史の会社近くの喫茶店と決めていた。人目を気にして平静を装っているが、その顔が少しずつ強張り、青ざめてゆくのがわかる。
「俺のやってることを、真似したってわけか?」
 とうとう彼は低く、口を開いた。
「腹いせのつもりか? お前と俺じゃ、立場が違うだろう。そんなことをして何になる」
「でも、待ってる人間の気持ちが、少しはわかったでしょう?」
 千秋は言った。
 こんなことを話し合いに来たんじゃない、それはわかっていた。何を言っても、その言葉が智史の心に届くことなんて、ないってことも。お前と俺では立場が違う、事情が違う。そんな言葉で智史はいつもすべてを切り捨てる。要するに、夫に許されることが、妻には許されないってこと。それは智史にとっては当たり前の事実であり、だけど千秋にとってはどうにも納得のいかない理不尽だった。
 こんなこと、いくら言い合ってもしょうがない、ふたりの間の溝は埋まらない。
 わかってはいるのだけれど。
「私は3年間、何度も今のあなたと同じ気持を味わってきたの。もうこれ以上、同じことを続けるつもりもない。家を出るわ、もう絶対にあなたのところへは帰らない」
「勝手にしろ……」
 感情のこもらない声で、智史は言った。人目を気にして感情を抑えているのか、あるいは妻が出て行くことを本当になんとも思ってないのか、見ただけでは、わからない。
「お前はいつもそうだよな、自分だけがなんでもわかってるような顔して、偉そうな口きいて。正直、お前と話してるといつも不愉快だった。いっしょに暮らす前は、こんな女だとは思わなかった。はっきり言ってやるよ。俺は、お前が大嫌いだ。勝手にどこへでも、行けばいい」

 外に出ると、予想以上に空気は冷たかった。大通りを行き交う人と車の喧騒につつまれ、一瞬、めまいがする。見上げれば、立ち並ぶビル、久しぶりに訪れたビジネス街の活気には、どうしたって慣れない。
 だけどこの場所にもやっぱり秋は来る。歩道に植えられたイチョウの並木は、黄色く色づきかけていた。智史と出会い、毎日のように会社帰りに待ち合わせてこの道を歩いた頃も、やっぱりこの季節だった。
 なんて遠い場所へ来てしまったんだろう、と思う。そう昔のことではないはずなのに。
 深い夕暮れの空を眺めていると、胸の奥が、つんと痛くなった。ようやく自由になれたのに、と思う。だけど、面と向かって「大嫌いだ」と言われれば、さすがに傷つかないわけにはいかない。
 自分のどこを、彼が「大嫌い」だったのか、今となっては千秋もわからないではなかった。よく言えばストレート、悪く言えば不器用、いつも感情そのままに、納得いかないと思うことをまくしたて、正論を並べ立てて相手を追い詰めてしまう。もっと遠まわしに、上手く相手をコントロールする術を知っていたなら、彼も少しは変われたのかもしれない。そして彼自身もそれを望んでいたのかもしれなかった。
 今に至っても自分を責めている。思わず彼女は苦笑する。どうしたって私は私、自分以外の人間にはなれない。答はわかりきっている。これで、良かったのだ。
 だけど今だけは、苦さと切なさと開放感が入り混じったその気持を、千秋は心から追い出すことができないでいた。長い結婚生活が今、終わったのだ。過去を惜しむことができるのは、今、この瞬間だけなのかもしれない。
 出会った頃の智史のことを、彼女は思い出していた。ステージを終えた千秋をテーブルに呼び、仲間にひやかされながら、「ずっと憧れていた」のだと、照れたように言った。線の細い整った顔立ち、体にぴったりと合った仕立ての良いスーツ、控えめでそつのない態度、何もかもが好もしいと思えた。遠い昔のことだ。
 時がたてば、人は変わってしまうものなのか。あるいはお互いに本来の姿を見出せないまま、恋をしていたのか。今さら考えても仕方のないことなのだけれど。



「で、なんとかなりそうなの?」
 沙希に聞かれ、千秋はうなずいた。
「正式に届を出すには、もう少し時間がかかりそうだけどね。ここまでくると、本人どうしっていうより、親兄弟親戚の問題って感じになってくるし」
 あそこまで言われた以上、智史の方に未練だの後腐れだのややこしい感情が存在するとは思えなかったが、ことはそう簡単に運ぶわけではなかった。
 あれから3日。その間、智史の両親にどうしても会って話がしたいと言われ、いろいろときつい言葉を投げつけられたのは覚悟の上だったとは言え、他県に住む彼の姉や、結婚式ぐらいでしか顔を合わせたことのない彼の本家の叔父とやらにまで、電話で長々と説教されるとは、さすがに思ってなかった。彼らが千秋のことを、「森川家に来た嫁」と考えている以上、それも仕方のないことなのかもしれないけれど。
 そんな周囲の動きも無視できなくて、智史本人もまた、意地でも離婚しないつもりになり始めているようだし、なかなか道は険しい。でも、誰がなんと言おうと(彼の身内はみんな『そんなことは普通のことだ』と言わんばかりの口調だったが)、妻に暴力をふるったという事実は彼にとっては不利なものだろうし、例の浮気相手とは、おそらく今でも続いているに違いない。流れとしては、別れる方に向かわざるをえないだろう。
 じたばたしたってしょうがない。
「千秋のオヤはなんて言ってるの?」
「何も。智史のことは今まで折りに触れて話してたし、しょうがないだろうって」
「落ち着いてるわね。さすが千秋を育てた人たちだわ」
「仕事してるから、なんとかひとりでやっていけるし、出戻りってわけじゃないしね」
 千秋は笑った。
「じゃあ、自由の身になれるのも時間の問題ってわけね。うらやましいなあ」
「うらやましい?」
 千秋はなんだかおかしくなって、問い返す。
「離婚しようとしてる女に、普通、うらやましいって言う?」
「イマドキの結婚してる女の半分は、きっと言うわよ」
「そうかなあ、やっぱりきついもんだけどな。ぜんぶ終わった頃には魂吸い取られてそうだわ。あしたも森川の家に行かなきゃならないのよ。もう、平常心を保つのが大変」
「じゃあ、エネルギーを補給しに行かなきゃね」
「?」
「あの、ウェイターの男の子のところへよ。最近行ってないでしょ? さ、仕事も終わったし、行った行った」
 心の内を見透かされたような気がして、千秋は赤くなった。



 カフェに来るのは何日ぶりだろう。ずいぶんと長く来てなかったような気がしてる。いつものようにドアを開け、馴染みの店内の光景を目にしたとき、その様子があまりにも今までと違って見えることに、千秋は驚いた。
 実際には、何も変わってない。後ろめたさがないって、ほんと偉大なことなんだわ。と、彼女は思った。今までだって、何も悪いことなどしてないと思ってた。だけど不機嫌な夫や、その夫の不在を思いながらすごす時間というのは、考えていた以上に彼女の心を曇らせていたのだ。
「どうしたんだよ、なんかいいことでもあったのか?」
 ビールを運んできた陸が、無邪気に聞く。その笑顔を見て、思わず抱きつきたい気持になってしまったのは、浮かれすぎというものかもしれない。
 絶望の淵にいながら、動けないでいたあの夜のことを、千秋ははっきりと覚えている。誰が彼女をそこから救い出してくれたかってことも。
 このお陽さまのような笑顔に、今まで何度救われてきたか知れない。私が今、ここにいるのは、この男の子のおかげなんだわ。そう思うと、ただもう、彼がここにいることに感謝したい気持になる。
 思いっきり抱きしめて、感謝の思いを何度でも言葉にしたい。ありがとう……って。
 だけど本当にそんなことをするわけにもいかず、精一杯の自制心を働かせて、黙って笑顔を返すにとどめた。それに彼は知らないのだ。千秋の人生に起こったことを。
「なに笑ってんだよ。お前今日、なんか変じゃねーか?」
 陸が不審げに聞く。
 何をどう、説明すればいいのだろう。この無邪気な男の子に。
 少しばかり途方にくれていると、入り口でカランとベルの音がした。

「あ、オーナー、お疲れ様です」
 ウェイターたちが、口々に言う。島崎だった。彼はすぐに千秋の姿を認め、彼女のテーブルへとまっすぐ歩いてきた。
「椎葉さん、心配してましたよ」
 いつもの穏やかな笑顔と共に、いきなりそんな風に言われるとは思ってなくて。
「すみません……」
 千秋は戸惑いつつも、思わずそう答えてしまう。なんだか、この人にはいつも謝ってばかりいるような気がする。同じことを思ったのか、彼も笑って言った。
「いえ、俺が勝手に心配してるだけだから、なにも謝らなくてもいいんです。あれからどうですか?」
「家を出ました」
 思わず、するりとそう答えてしまっていた。島崎の顔色が変わるのを見て、自分の言ったことの重大さに気づく。隣にいる陸の顔は……怖くて見れない。
 彼女は動揺を隠して、言葉を続けた。
「心配かけて、すみませんでした。でも、なんとかなりそうです」
「そうですか……」
 さすがに驚きを隠せないまま、島崎は言葉を探しながら千秋をじっと見る。一片の不安さも見られない、ふっ切れたその表情を。彼は、安心したようににっこり笑って言った。
「椎葉さんにはいつもびっくりさせられる。でも、良かったです。また何かあったらいつでも相談に乗りますよ。今日はおごりますから、ゆっくりしてってください。おい、陸」
 と彼は、隣の甥に言った。
「今日の彼女の分、俺につけといて」
 陸の返事はない。
 驚きに呆然としているらしいその顔を、千秋はやはり、見ることができないでいた。
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