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「やっぱ、ほんとなんだな。さっき言ってたことって」 店の前に置いてあった自転車の鍵を開ける千秋を見て、陸は言った。 「家、近くなんだ」 「自転車で15分、陸と駅まで歩けなくなっちゃったわね」 店を出るときになって、彼女は初めてそのことに気づいたのだった。ただそれだけのために、取り返しのつかないことをしてしまったと一瞬でも思った自分は、馬鹿かもしれない。 このまま別れを告げて、自転車に乗って帰ってゆけば、彼との時間は二度と戻らない。当たり前のことなのだ。一歩前へ進めば、周りの景色は変わる。自分にとっての陸は、そして彼にとっての自分は、変わって行く景色のひとつに過ぎないのだろうか。 そうなのかもしれない、だって自分は大事なことを何ひとつ、彼に話してはいないのだから。 「どうしたんだよ、また、黙っちまって」 そんな彼女の逡巡する思いを読み取ったのかどうか、陸は屈託のない声で言った。 「公園に行こう。コーヒー、おごってやるよ」 「上手く行ってなかったんだな。ダンナと」 暖かい缶コーヒーを両手で握り、真っ直ぐ前を向いたまま、陸は言った。 「うん……」と、ただ短く、千秋は答える。 陸はしばらく言葉を探していたようだったが、唐突に言った。 「あっ、まさかお前、中学の時の日記をダンナが読んだとか、そんな理由で家出したんじゃねーだろうな?」 その言葉には、思わず吹き出さずにはいられなかった。千秋は笑って聞く。 「それって、あんたのお母さんのこと?」 「そう、家族であちこち探し回って、大変だったんだ」 「だいたいなんでそんな昔のもの、見られるようなところに置いとくのよ」 「俺の母親、けっこう天然だから……」 笑いながら、心がどんどん軽くなる。理屈抜きで、元気がわいてくる。ほんとにこの子ってば、元気の素なんだわ。エネルギー補給……沙希の言ったことは、はからずも的を射ていたわけだ。 あー、今日も月がきれいだ。しばらく笑った後、千秋は夜空を見上げながら言った。 「うらやましい。私もそんなことでケンカできるようなダンナが欲しかったな」 静けさがふたりを包み込む。何か聞かれるかと思ったが、陸は黙っていた。 あの饒舌な叔父さんとくらべて、いざという時のこの寡黙さはなんなんだろう、ふと千秋は思う。 他愛のないおしゃべりなら、いくらでもできる。だけど、胸が重くなってしまうような深刻な事情となると、彼は何も聞かない、聞こうとしない。 そして千秋も、何も話したくない。 どう話せばいいのだろうと、ずっと思っていた。なぜか陸にだけは、智史とのことを知られたくなかった。「自分のやりたいこと、欲しいものをきちんとわかってる千秋」でなかったことを知られるのが怖いのか、あるいは、話してしまえばどこまでも甘えて、くずれていってしまいそうな気がするからなのか。 自分でもよくわからないのだけれど。 深くは聞かず、それでいて決して無関心ではない彼の態度は、今の千秋にとって、心底ありがたいものには違いなかった。彼は、自分が思っている以上にこちらの気持をわかってくれているのかもしれない、そんな気がした。 「まあ、要するに、おめでとう、ってことなんだよな?」 長い沈黙の後、突然陸は千秋を見て、そう聞いた。間近で目が合い、千秋は思わずどきりとする。優しさと無邪気さが入り混じったようなその笑顔は、しばらく見ない間にまた大人びた感じになっていて……彼女はどきまぎと視線を下に落としながら、言った。 「な、なんなのよいったい、あんたといい、沙希といい。なんで離婚しようとしてる女におめでとうとか言うわけ?」 「だってお前、すっげえ晴れ晴れした顔してんだもん。俺、千秋のそんな顔初めて見た」 え? と虚を突かれる。思わず、まじまじと陸の顔を見る。その言葉、その力強い笑顔は、彼女が決断し、行動してきたこと全てを、「それで良かったんだよ」と肯定してくれているようで。 一瞬、泣き出しそうなほどの感動にとらわれ、千秋はあわてた。 「なーんだよ、また黙っちまって、今日のお前、ほんと無口だよな」 「当たり前でしょ? いろいろ……いろいろあったんだから」 からかうように言う陸に、少しうろたえつつも言葉を返す。どうにか持ちこたえた、そう感じた。長いこと張りつめていた心が、一瞬、ぷつんと切れてしまいそうだった。 いっそのこと、切れてしまえばいいのかもしれない。この、何もかもをわかってくれる男の子の前で、緊張が解けてゆくままに、わあわあ泣いてしまえたら、どんなにか気持がいいだろう。 それもまた、どうにも抗いがたい誘惑で。 千秋はあわてて、冷たくなった缶コーヒーに口をつけた。 ふたりはそれ以上、何も話さなかった。千秋が家を出たことについては。 そして、いつものふたりに戻って。 新しい缶コーヒーの銘柄のこと、最近見た映画のこと、亮二が付き合い始めた女の子のこと、千秋が買ったマウンテンバイクのこと。 いつものように、きりがないぐらい話を続けた。 まだ、大丈夫、千秋は思う。周りの景色は変わっても、陸は、きちんとここにいる。駅前のロータリーから店の近くの公園へ、場所は変わったけれど、彼との時間はなくなったりしない。そのことに、自分でも情けないほどの安堵を覚える。 いつまでも外に座っていられない季節は、すぐそこまで来ているけれど、そのことには目をつぶろう。 たぶん、来るべき時が、ほんの少し先のばしにされたに過ぎないのだから。 なぜだかそんなことを思って、千秋は少し、切なくなった。 ネイビーブルーの自転車が曲がり角の向こうに消えたのを見送り、陸はくるりと後ろを向いて歩き出す。 ストリートをそれてオフィス街に入ると、夜はどこまでも深く、どこまでも静かだった。街灯に浮かぶイチョウ並木を揺らし、湿った風が吹きぬける。雨の匂いがする……そう思ったとたん、大粒の雨がぽつり、ぽつりと落ちてきて、あっという間にとんでもない土砂降りになった。 さっきまで月が出てたってのに……パーカーのフードをかぶり、駅へと走り出しながら、陸はやっぱり、千秋のことが気がかりになる。あいつ、大丈夫だろうか。自転車で15分、って言ってた。まだ家に着いてないかな。濡れてなきゃいいけど……。 どうして、こんなに気になるんだろう。陸は我知らず苦笑する。あいつは大人だ、自分などには及びもつかない、数え切れないほどの激しい雨を、くぐり抜けて来ているはずなのだ。自分ひとり気を揉んだところでなんにもならない。 彼はそのことを、今日の一件で嫌というほど思い知らされてしまったのだった。 俺はあいつのこと、何ひとつわかってないと今さらのように思う。夫だった男がどういう奴だったのかはもちろん、そいつの名前すら知らない。千秋自身も話さなかったが、陸もまた、聞くまでもないことだと思っていた。彼女の結婚生活は、それなりに幸せなものであるに違いないと、何となく信じ込んでいたから。 いつか公園で話したように、陸にとっての彼女は、自分にとって必要なものと不要なもの、欲しいものと欲しくないものをきちんと見分けて選び取る能力を持つ人間だった。そんな彼女が、夫選びに失敗し、そこいらの大人のように不本意な結婚生活を耐え忍ぶ、なんてことはありえない。……っていうか、こいつにそんな根性はないはずだ、そう思っていた。実際、彼女がダンナのことを愚痴ったりこぼしたりする言葉もまた、聞いたことがなかったし。 まったく、呑気なものだったよなと思う。そんな彼にとって、今日の千秋の言葉は青天の霹靂に違いなかったのだ。 それでも、今に至って何も話そうとしない千秋にあれこれ問い質したりできなかったのは、それがもう彼女にとって既に終わったことであることが、わかったから。自分の知らないところで、彼女がひとりで悩み、苦しみ、そして乗り越え、解決してきたことを、今さら蒸し返すわけにはいかない、そんな風に思えて……。 気が付けば、歩みを止めていた。あわてて駅へと走り、びしょ濡れになったパーカーを脱いでしぼり、小脇に抱えて、迷惑そうな視線の中、電車に乗り込む。 あいつ、大丈夫だったかな。性懲りもなく、胸の中でそうつぶやいている。そうして思い出してみる。他愛のない言葉の端々に、屈託のない笑顔の中に、時おり彼女が感じさせた胸を疼かせる何かを。 パズルの欠片が見つかったのに、あるべき場所を確かめることができない。そんなもどかしさを感じながら、曇ったガラス窓の向こう、打ちつける雨をぼんやりと見ていた。 「遅かったな」 乾き切らない髪をタオルで拭きながら自室へ向かう陸に、リビングから声が飛んだ。 島崎だった。預けていた娘を迎えに来ていたらしい。 「俺より先に店出たくせに、なんでそんなに遅くなるんだ? まさかこの雨の中、椎葉さんをひとりで帰したわけじゃないだろうな」 すっかりばれてる……苦笑しながら陸は答えた。 「わかんねーよ。降り出したの、別れてからだったから」 うるさいことを言われる前に、さっさと退散するつもりだったが、少し気が変わる。彼はリビングに入り、叔父の向い側のソファに腰を降ろした。 「なあ、あき兄って千秋の事情、なんか知ってんの?」 もうすぐ1歳になる従妹を膝に抱き上げながら、さりげない風にたずねてみる。 「なんだ、気になるのか?」 島崎は問い返した。 「知ってるからといって、教えるわけにはいかないけどな。そんなに気になるんだったら、本人に聞いたらどうだ?」 その余裕の態度が、なぜだかしゃくにさわる。陸は憮然として答えた。 「聞かねーよ。あいつ、絶対話したがらないって、わかってるから。そういう弱みを人に見せたくないやつなんだよ。どうせあき兄も、強引に聞き出したんだろ?」 当たらずとも遠からずといったところであったらしい、島崎は苦笑して言った。 「おまえ、ほんと良くわかってんだな、彼女のこと」 「え?」と陸は答につまる。良くわかってる、理解してる。なぜだか彼女の気持はいつも、不思議なほど理解できてしまう。もともと単純でストレートなやつだから、わかりやすい。それだけのことなんだけど。 他人にそれを指摘されると、故もなく頬に血が上る。 「と、とにかく、全部終わったことなんだよな」 陸は言った。 「もう、大丈夫なんだよな、あいつ」 「たぶんな」 島崎は短く答えた。そうだよな、と陸は思う。千秋は大人だ。冷たい雨も、激しい嵐も、きちんとくぐりぬけて、歩いていく術を知ってる。 俺なんかが、心配するようなことじゃない。 彼女に何があったのか、ほんとはめちゃくちゃ気になっているのだけれど。 「そういえばお前……」 ふと、島崎が思い出したように言った。 「バイト、どうすんだ? いつまで続けるつもりなのかって、姉貴がえらく心配してたぞ。いくら受験勉強はしなくていいったって、そろそろ勉強してる『ふり』ぐらいは始めといた方がいいんじゃないか?」 「わかってる」 少しばかりぐったりとした気分になりながら、陸は答えた。 |
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