L.N.S.B [ Story - 21]
 急に振り出した雨を避けて、千秋はカフェに駆け込む。台風の季節だからなのか、このところやたらと雨が多い。天気のせいなのか、まだ早い時間のためか、店内に客の姿はほとんどなく、所在なげにしていた陸は、千秋を見て、笑って手を振った。
 いつものように注文を聞いた後、陸は周囲を見回し、店の者が近くにいないことを確かめて、小声で言った。
「俺、今月の20日でバイト辞めることになったんだ」
 「え?」と、千秋は一瞬答える言葉をなくす。思わず頭の中で残りの日数を計算してみると、本当にそれはあとわずかなんだった。少しうろたえながら、彼女は言った。
「なんでまた急に……って、そうか」
 あまりにも彼がマイペースな風情なんで、すっかり忘れてたけど。
「あんたって、一応受験生なんだったっけ」
「一応、ってなんだよ」
「だって、自校推薦で付属の大学に行くんでしょ? 小学校からずっとエスカレーター式だって、言ってたじゃない。実はお坊ちゃまだったのよね、ぜんぜん、らしくないけど」
「言ってろ」
 陸は苦笑して言った。
「お坊ちゃまがこんな時期までこういう店でバイトしてると、さすがに内申に響くんじゃないかって、あき兄が……。要するにクビになったようなもんだな」
「そっか――」千秋は少し考えて、聞く。「でも、大学決まったら戻ってくるの?」
「うーん、それも難しいかも知んない。念には念を入れて、高校卒業するまで戻ってくんなって言われてるから。復帰できんのは、晴れて大学生になってからだな」
「大学生、か」
 千秋はつぶやいた。なんだか遠い。ずっと先のことのような気がする。
「まあ、店辞めても、おまえのライヴは見に行くつもりでいるから。あき兄に聞いたけど月イチでやることになったんだろ? 縁は切れそうにもねーな」
 陸は、笑って言った。
 仕方ない、と千秋は思う。それが時の流れってものだわ。不意に胸に生まれた寂しさをもてあますほど、子供ではないつもりだった。

「うわ、さむ……」
 扉を開けたとたん、吹き付けてきた冷たい風に、千秋は思わず身をすくめた。昼間は夏のような暑さが続いているのに、やはりこの時間になると寒い季節が近づいていることを実感させられる。
 もう、そろそろ、公園で時を過ごすのは無理かも知れない。ちょっと寂しい気持になって、陸を振り返ると、まるで彼女の胸の内を読み取ったかのような絶妙のタイミングで、彼は「あったかい缶コーヒーが飲みてーな」と、つぶやいた。
「なによ、それ、奢れってこと?」
 どぎまぎしながらどうにか言葉を返すと、彼は「そうとも言う」と、にっと笑う。
 まぶしいような気持で階段を上りきったところで、不意に千秋は足を止めた。
 ぶつかりそうになった陸が「なんだよ、危ねーなあ」と、ぶつぶつ言いながら彼女の横を通り抜けて道路に出ると。
 門のところに、自分のカノジョが立っていた。

 ほんの一瞬の驚きの後、陸はどうにか持ち直す。彼は笑顔を見せて言った。
「めずらしいじゃん、麻優里。どうしたんだよ。今日は門限、大丈夫なのか?」
 寒そうに笑顔を返しながら、彼女は答える。
「今日はお父さんが出張でいないの。めったにないチャンスだから、陸の働いてるとこ、見てやろーと思って」
「だったら中に入ってりゃいいじゃん。なんでそんなとこで待ってんだよ」
 麻優里は答えなかった。その後、なんとなく千秋と目が合い。
 彼女はぺこりと頭を下げた。
 不意に頭を下げられ、千秋は戸惑いながらも会釈を返した。礼儀正しい子なんだわ。確か、父親が厳しいって言ってた。こちらのことは何も知らないはずなのに、そういった仕草が身についている。
 それにしても、なんだか健気だわ…千秋は思う。それが「彼女」だってことは、すぐにわかった。写真を何度か見たことがあるし、何よりもバースデイ・プレゼントの香水を買いに行ったとき、陸の話す彼女のイメージは、くっきりと頭の中に刻み込まれていたから。
 だけど、何を言って良いかわからなくて――。
 とりあえず、よけいなことは言わない方が良さそうだ。千秋は自転車のロックを外し、「じゃ……」と、笑って陸に手を振った。
 走り出す直前、陸は声に出さず、「ゴメン」と言った。その心底すまなそうな表情に、思わず笑ってしまう。
 それでも、ためらいなく彼女最優先ってわけね。憎らしいぐらい、はっきりしてる。だけどそれが多分、陸という男の子の「健やかさ」なのだ。自分の女の子を、きちんと大切にしてる。
 切ないなぁ…千秋は思う。ほんと、並んで立ってると、お雛様みたいにぴったりくるふたりだった。自分が陸といるときに微かに感じるような、違和感や居心地の悪さなど、あのふたりの間には存在しないに違いない。
 何もかも、変わって行くんだわ。このところ、なぜだかすぐにそんな思いに取り付かれてしまう。
 強い風が胸の中を吹き抜けてゆくような切なさと寂しさ。それは、暖かい部屋に帰っても、彼女の心からいつまでも消えることはなかった。



 その夜、麻優里の様子は、まったくいつもと変わらなかったと思う。ついさっき、千秋と一緒に出て行ったはず陸が、違う女の子を伴って再び店に戻って来たのを見て、バイトの連中は一様に変な顔をしていたが、そうした微妙な空気にも気付いていないみたいだった。
 いや、いつもよりちょっと、口数が少なかっただろうか。陸が彼女のために頼んだ、チーズケーキとチャイのセットを前に、会話は途切れがちだった。慣れない時間に慣れない場所にいるせいで、ちょっと緊張しているのかな、ぐらいに思っていたのだけれど。
 やましいことは何もない。千秋のことを聞かれれば、きちんと答えるつもりでいた。だけど結局、麻優里はひとことも、彼女のことには触れなかった。そのことは逆に、陸にもどかしさを感じさせた。
 あのとき、強引にでも自分から何か説明すべきだったんだろうか、後にして彼は思う。
 結局のところ、自分はあの女の子のことを、何もわかっていなかったのだ。家の前まで送り、別れを告げたときも、彼女はこれといった感情を見せたわけではなかった。いつものように、笑って「おやすみ」と言っただけだった。
 陸ならずともまさか予想のつかないことだっただろう。
 その同じ女の子に、翌日、手ひどくふられることになってしまうなんて…。



 いつものようにオーダーを取りに来た陸の様子がなんだかおかしいことに、千秋は敏感に気付いた。
「ねえ、何かあった?」
 おそるおそる、そうたずねてみる。
 「へ?」と、陸はひどく虚を突かれた表情で千秋を見た。その瞳に、隠し切れない狼狽の色が浮かんでいる。
「いや……なんも――」
 再びうつむいて、伝票に走り書きをしながら彼は答えた。「いつものでいいよな」とボソッと言って、立ち去ろうとするその袖を、千秋は思わずつかんでいた。
 絶対に、おかしい。だって、さっきからぜんぜん目を合わせようとしないんだもの。
 もの言いたげな千秋の目を、陸は困ったようにしばらく見返していたが、やがて観念したように小さくため息をつく。
「お前ってさ、なんでそう、変なとこで鋭いわけ? だいたい、何か気付いても、そっとしておくとか、そういう思いやりはないのかよ」
「ご……ごめん……」
 思いがけず苛立ったような口調で言われ、今度は逆に千秋が小さくなって手を離す。なんだか放っておけないような気持になって引き止めたけれど、確かに出過ぎたことだったかもしれない。
 しゅんとしてしまった千秋を見て、陸は再びため息をついた。
「悪い、やつあたりだ…」
 苦笑混じりの声で言う。
「心配させたくないから、黙ってた。この調子じゃどうせすぐにばれるだろうから言っとく。今日、麻優里にふられたんだ」



 その経緯を、陸はなかなか話し出そうとはしなかった。いつもの公園、ベンチに座り、黙り込んで缶コーヒーを飲む、いつになく沈んだその横顔を、千秋は少し困ったように見つめる。
 また少し、大人っぽくなったみたい。それどころではないのに、そんなことに気付いてしまい、速くなる鼓動を持て余す。うつむいた頬の熱を、秋の夜風がさらった。
「あー、もう、言うしかねーよな」
 突然、陸がヤケのように叫んで立ち上がり、千秋を驚かせる。沈黙に耐え切れない性質の彼は、とうとう根負けしてしまったらしい。
「絶対お前、気にするだろうから、できれば言いたくなかったんだけど」
 そう言って彼は、ポケットから小さな壜を出して千秋に差し出した。
「うそ……なんで?」
 思わず千秋は小さくつぶやく。
 見覚えがありすぎるほどある、薄緑色の小さな香水壜。それは、一度も封を切られた様子がないまま、陸の手の中にあった。
「……って、まさかとは思うけど……」
 なんだか嫌な予感がして、千秋は言った。陸は、まだそれでもしばらく言うまいか迷っていたようだが、やがて、観念して口を開く。
「あいつ、お前のこと、すげえ気になってたみたいなんだ。昨日、店に来たのも、お前がいるかどうか確かめるためだったらしくて…。なんか最近、バイト先でいつも会ってるらしい、なんて、あいつの友達が騒いでたみたいなんだよな」
 で、図星だったってわけ? 千秋は一瞬、言葉をなくす。バイト先でいつも会ってる……そりゃあ、会ってるといえば、会ってると言えるのだろうけれども……。誤解もいいところじゃないの。
 顔色を変えて何か言おうとした千秋を制して、陸はようやく、今日あったことをぽつり、ぽつりと話し始めた。

「大沢、麻優里があんたに話があるって言ってるんだけど」 
 放課後、帰り支度をしていると、麻優里といつも一緒にいる親友格の女の子たちに、突然机を取り囲まれた。
 信じられない事態に、思わず表情を固まらせて顔を上げると、正面に立った女の子が、険しい顔で彼にそう告げたのだった。
「浮気の現場見つけられて、ケーキセットでごまかすって、どういうこと?」
 続けてそんなことを言われ、呆気にとられる。昨日のことを言っているのだと気づくまで、少し時間がかかった。
「浮気なんかしてない」
 思わずそう呟くが、そんな言葉が今、この状況で通用しそうにもないことはわかっていた。なんだってこんなことになるんだろう。肝心の麻優里から何を聞くこともないまま、どうして、よく知らない女の子たちに、いきなりこんなことを言われなきゃならないんだ。
「とにかく、麻優里と話をさせてくれ。どこにいるんだよ、あいつ」
 そう言って立ち上がると、女の子たちが半歩ほど、引いたような気がした。思わず怒りの色を目にうかべてしまっていたらしい。
 まるでヤクザの落とし前だな……ぞろぞろ歩く彼女らの後について廊下に出ながら、なんだか笑いたいような気分になった。心配そうにこちらを見る亮二に、苦笑を浮かべて小さく手を上げる。
 だけど裏庭に出て、そこで待っていた麻優里の泣き出しそうな瞳を目にしたとたん、余裕の気持は消えた。彼女の胸の内を、なにひとつ理解していなかった自分に気付いて……。ああ、これはかなりやばいな、と覚悟したんだった。

「笑いたきゃ、笑えよ。俺だって思い出すたび笑えて来るんだから」
 憮然とした陸の言葉に、千秋はあわてて真顔を作る。笑い事ではないと思いつつ、それでもこみ上げるいいようのない可笑しさに、頬が緩むのを堪えるのは骨だった。
 そういうものだわ、高校生っていうのは……。真剣になるほど、滑稽になってしまう。強気な女の子たちに取り囲まれて、この大きな男の子は、どんな顔をして困り果てていたのだろう。申しわけないけれど、可笑しく、そして切なかった。
「お前なあ……」
 呆れ顔で言われ、再び表情をひきしめる。

 そこへ至っても、陸は麻優里と話をさせてもらうことができなかった。うつむいて黙ったままの彼女を真中に、周りの女の子たちから、様々なことを詰問口調で指摘され、口々に責められた。プレゼントを買いに行ったときのこと、亮二のライヴにふたりで行ったこと、公園で「抱き合ってた」こと(あいつ、変な風にチクりやがったな)、バイト先でいつも会っているという噂。言い訳するもの面倒で、黙って聞いていたのだけれど、こうして客観的な事実を並べられると、非は自分にあるような気もしてくるのだった。確かに俺は、自分の彼女を不安にさせるようなことばかり、していたのかもしれない、そう思うと気持が沈む。
 無防備過ぎたということなのだろうか。何もやましいことはないという思いが、いつも彼を堂々とさせていたのだけれど。
 とにかく麻優里と話したいからと、どうにか外野には退散してもらう。頑なにうつむく彼女とふたりきりになり、陸は恐る恐るたずねてみたのだった。
「お前も、あいつと俺のこと、疑ってんのか?」

「で、なんて答えたの? 麻優里ちゃんは」
「言えねえ」
「言えない……って――」
 あまりにも素っ気ない返事に、千秋は言葉をなくす。
「とにかく言えねーんだ。話はこれで終わり」
 そう言ったきり、彼は夜の公園へと駆け出した。落ちていたおもちゃのサッカーボールを「でえええい!!」と自棄のように蹴り始める野生児のようなその姿を、千秋は呆れて見つめる。
 ともかく、何だかわからないけど、責任はどうやら自分にあるらしい。そう、彼女は思った。
 自分としては、擬似恋愛だ、単なる「元気の素」だと、自分自身は割り切ってこの男の子と接してきたつもりだけれど、そんなこと、10代の女の子に理解しろという方が、無理ってものだわ。
 しょうがない……千秋は大きく息をついて立ち上がる。陸のおかげでここまで来れた。これから先、あの笑顔なしで歩いて行けるのかどうか、自信はないけれど――。
「とにかく、もういちど謝んなさいよ。麻優里ちゃんに」
 彼女は叫んだ。陸の動きが、ぴたっと止まった。肩で息をしながら、きょとんとした顔でこちらを見る彼に、言葉を続ける。
「もう私とは会わないって言いなさい。どうせ、バイト辞めるんでしょ? ちょうどいい機会じゃないの。無理してライヴ見に来ることもない。安心させてあげなさいよ、大事な彼女なんだから」
 言った先から、事の重大さに語尾が震えてくるような心地がした。

 陸はしばらくの間、息を切らしながら、表情を変えずに千秋を見つめていた。彼女の言葉が、あまりにも自分の胸の内を見透かしたものであったことに、ただもう驚いてしまって。
 どうしても千秋には話せなかった、陸の問いかけに答えた麻優里の言葉、それは、「あの人とはもう会わないでほしい」というものだったのだから。
 陸がその女の人と付き合ってるかどうかなんて、関係ない。とにかくその人と会っていることが嫌なのだと、涙の浮かぶ瞳をようやく上げ、それでもきっぱりと、麻優里はそう言ったのだった。これからも会い続けるなら、私と別れて欲しいと。
 それは、やっとの思いで口にしたに違いない、初めて陸が知る、彼女の真情だった。それまでの沈黙が長かっただけに、その言葉、その表情は、痛いほど胸にこたえた。
 安心させてやらなきゃ、と思う。こいつの欲しい答を返してやらなきゃ。これ以上自分の彼女に、こんな顔をさせるわけには行かない。
 なのに陸は、どうしても応えることができなかったのだ。彼女の必死の思いに……。
 うつむいてしまった陸を見て、麻優里はあきらめたかのように、小さくため息をつき、薄緑色の小さな香水壜を、彼に差し出した。
 まだ封を切っていないそれを見て、彼女がそれまで一度もその香りを身に着けていないことに、陸は初めて気が付いたのだった。

「陸、聞いてる?」
 千秋の声に、我に返る。その勝気を装った瞳の奥に潜む精一杯の強がりを、彼は見てしまった。彼女の気持は、なぜだかいつもわかってしまう。こいつってば11も年上のくせに、なんだってこんなにストレートなんだろ。
 こいつのためなんだよな……今さらのように、陸はしみじみとそう思った。
 千秋に会わないでいる。それができるものなら、とっくにそうしている。彼女にしてみれば、高校生の自分など「なぜだかいつもくっついてくる変なガキ」でしかないに決まっているのだから。
 だけど、こっちはそうじゃない。今、気づいた。自分にとって千秋は……ともかく何か言わなければと陸は口を開いた。
「お前さー、短絡してんじゃねえよ」

 いつになく真剣な瞳でまっすぐ見つめられ、千秋の胸が、どきん、と高鳴る。
 さらに陸は、とんでもないことを言って、彼女をパニックに陥れた。
「千秋に会えなくなったら、すげー困るよ俺。お前ほどなんでも話せる相手って、他にいねえもん。そりゃ、麻優里と別れたのは辛いけど。千秋のせいだなんて、思ってない。千秋は特別なんだよ。だって、なんていうかその、俺たちは……」
 と、軽く顔をしかめて、うーんと考え込む。千秋はと言えば、心臓が爆発しそうになって、言葉も出ない。
 自分からああ言ってししまった限りは、もう陸には会えないのだと思っていた。いつだって彼女優先の陸。彼にとって自分がそれ以上の存在だとは、とても思えなかったから。
 なのに、予想外の展開。しかも、会えなくなったら困るだなんて、特別だなんて。彼のような男の子にそんなこと言われて、冷静でいられるわけがない。彼、自分の言ってることの意味、わかってるんだろうか。
 そんな彼女のパニックをよそに、上手い言葉を思いついたらしく、陸はにっと笑って言葉を重ねた。

「だって、俺たちは、大親友なんだからさ」
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