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「うそでしょ? 本当に彼、『大親友』なんて言ったの? 千秋に向かって? あー、おっかしい! いい度胸よね。あの男の子も」 「どういう意味よ、それ」 遠慮もなにもあったもんじゃない親友の大爆笑に見舞われ、千秋は憮然としてつぶやいた。 「だって普通言わないわよ。17の男の子が28の女を大親友だなんて。まったくタダモノじゃないわね、彼……」 向い側の席、おさまらない笑いに肩を震わせながら、沙希は自分のお猪口に徳利を傾けた。その姿は昔と変わらず、「姐さん」と呼びたくなるほど粋で、惚れ惚れする。千秋は一瞬、釈然としない思いを忘れ、思わず見とれてしまった。 学生の頃、よくふたりで来た居酒屋、こうして差し向かいで飲むのは本当に、何年ぶりだろう。かつていくつもグラスを空にしながら、時間を忘れておしゃべりに興じた、最高に気の合う女友達が目の前にいる。それだけで千秋は幸せな気持になってしまう。 「久しぶりに見るわね。沙希の手酌姿」 しみじみした口調で言うと、沙希は目を上げ、晴々とした笑顔を見せた。 「母に感謝よ。息子には悪いけど、今夜はとことんはじけさせてもらうわ。めったにないチャンスだもの」 「ひ孫の顔が見たい」という祖母のリクエストに応え、沙希の母は、彼女の息子を連れて、信州の実家に帰っていた。「あんたは来なくていいから。たまにはゆっくり羽をのばしなさい」という神様のような一言を沙希に残して。 「よほど、ストレスたまってるみたいに見えたんでしょうね。ふだんはダンナに遠慮して、仕事以外じゃ絶対に預かってくれないもの。まあ、私も頼んだことないけど」 「ダンナさんはなんて?」千秋はたずねる。良い返事が返ってくることはないとわかっていても、聞かずにはいられなかった。 「嫌味の嵐」案の定、苦笑して沙希は答える。 「毎日保育園に預けて働いてるくせに、その上何日も親に息子を任せて、よく平気だよな、お前には母親の自覚ってものがないのか。なんて、よく言うわよ。自分は連日、飲みに行って午前様なのにね。だったら自分もちょっとは世話しなさいって言うの。なんであんな男と結婚しちゃったんだろう」 いつになく辛らつな言葉に、ストレスの深さを感じる。ふだんは愚痴なんて絶対言わない、元気の塊のような女友達の、少しばかりくたびれた様子に、千秋は胸が痛くなった。 沙希は昔から、千秋よりもずっと強い。千秋のように、理不尽だ、納得がいかない、なんてことで悩んだり怒ったりしない。夫のことも含め、あらゆることを「まあ、しょうがないじゃない」と、笑って受け流し、その分自分が頑張ることで、乗り越えてしまう。 その強さは確かに、尊敬すべき点ではあるのだけれど。 沙希のパワーは、根本から状況を変える力を持たない。そんな彼女だからこそ、時折、どうしようもなく疲れてしまうこともあるのだろう。 「……ったく、久々のデートだっていうのに、辛気臭い話になっちゃったわね」 苦笑してそんなことを言う女友達の強がった様子に、自分の無力を感じる。だけどそれも束の間のことで、沙希はすぐにいつもの沙希に戻って言った。 「私のことはどうでもいいのよ。今日はあんたの話がメインの『あて』なんだから」 昔と同じように生き生きと輝き始めたその瞳を見て、千秋は「ふう……」と嘆息する。この鋭い瞳に追求され、かつて何度恋愛話を白状させられたことか。 今回ばかりはいくら突っつかれたって、何も話すことなんてないはず……そう思っていたのに。気が付けばそう時間も経たないうちに、ここ最近、陸との間にあった様々なことを話すはめになり、とうとう、あの男の子が「大親友だ」と叫んだことまで、沙希の知るところとなったのだった。 あの日、さんざんドキドキさせられた挙句のあまりの言われように、千秋は思わず、 「何、生意気言ってんのよ。大親友だなんて、百年早い!!」 と一喝し、陸を大いに嘆かせたのだけれど。 その言葉が投げかけた波紋は、思いがけず彼女の胸の中で、時間が経つにつれ、広がっていったのだった。 この感情はなんなのだろう。戸惑わずにはいられない。だって、彼女は彼がくれたその言葉を、宝物のように大切に思い始めていたのだから。なんだか嬉しい、素直にそう感じている自分が、心のどこかにいる。 恋愛じゃない。だけど恋愛よりも大事なもの。ふたりの間にあるものを、あの男の子は、そんな風に位置付けてくれた。それはある意味、千秋にとって、「好きだ」と言われるよりも、うれしいことなのかもしれなかった。まったく……あの日以来、平常心を失いかけている自分に、焦りすら覚える。 「まあ、確かに28の女にしちゃ、悪くないポジションなのかも知れないわね。17歳の男の子の『大親友』っていうのは」 沙希は少しばかり皮肉な表情を浮かべて言った。 「だけど、結局それって、ベタ惚れってことじゃないの? あの男の子のくれるものはなんだってうれしい。そう言ってるみたいに聞こえるわよ」 「そ、そんなんじゃないってば!」 千秋はあわてて否定する。 「前にも言ったじゃない。単なる『元気の素』なのよ。私はあの子にパワーをもらってるだけ。中学生の頃なら勘違いしたかもしれないけど、いい大人が、こんなの、恋だなんて思わないわよ」 むきになればなるほどなぜか上滑りする言葉に、千秋は焦った。だいたい、絶対に恋愛の対象になんてならない相手のことを、何必死に言い訳しているんだろう。 「まあ、飲みなさいよ」 沙希は笑いをこらえながら、赤くなって言葉を途切れさせてしまった女友達に、新しく運ばれてきた中ジョッキを手渡した。 まったく、面白いったらないわ――。沙希は胸の中でつぶやく。長い付き合いだけれど、まさかこの歳になって、高校生を相手に少女漫画のような純情劇を演じる千秋を見ることになるとは思わなかった。人生って、どんな楽しいことが起こるかわかりゃしない。 それにしても、目の前にいるこの親友は、以前よりもずっと生き生きとした表情をするようになったと、沙希は思う。同じ職場で働くようになったあの頃よりもずっと、屈託なく笑い、喋り、様々な顔を見せてくれるようになった。沙希は友人として、心から安堵を感じている。そして、千秋をそうさせたのが誰かってことも、彼女はよく知っている。 「パワーをもらってるだけ」千秋はそういうけれど、それってまさに恋じゃないの。今やお互いフリーなんだし、なにもそう頑なに否定することもないのに。この期に及んで、歳の差を気にしているのか……。 まあ、そんな生真面目さが、この友達の愛すべきところでもあるのだけれど。 「ねえ、じゃあ、聞くけど」 もう少し、千秋を苛めてみたい気持になって、沙希は口を開いた。酔いのせいか、久しぶりの開放感のせいか、心はすっかり学生時代に戻ってしまっている。 「『したい』とか、『寝たい』とか、そんな風にはぜんぜん思わないわけね。彼はじゅうぶん、そういう対象になる男の子だと思うんだけど」 「したい――?」 そうつぶやいたきり、千秋は絶句してしまった。はっきりとわかるぐらい、みるみるうちに頬が赤く染まっていく。 「さ、沙希ってば、何、言ってんのよ。そ、そんなこと……思うわけないじゃないの」 予想以上の狼狽ぶりだった。おしぼりを取ろうとした手が、グラスを倒しかける。間一髪で支えたものの、今度は肘がお皿にあたってガチャンと音を立て、ついてにテーブルのすみっこにあった割り箸を落っことしてしまう。それを拾おうとかがみ込んだ千秋は、最後にテーブルの角に頭を打ち、顔をしかめながら立ち上がった。 「――っ、たっ……」 「大丈夫?」 沙希は必死で笑いをこらえながら、おしぼりを差し出した。 「もう、沙希が変なこと言うからじゃないの!!」 相変わらず頬に血を上らせたまま、涙目になって抗議する千秋は、半分、マジで怒っている。 この程度の質問で、そこまで動揺する? もっと際どいやりとりを当り前のようにしていた数年前のことを思うと、今の千秋は別人のようだ。沙希は苦笑して言った。 「恐るべし、恋の力ってやつね。17歳の男の子を好きになると、自分まで17の頃に戻っちゃうのね」 「好きになったんじゃ、ないってば!」 千秋は焦って訂正する。 だけど、自分でもおかしいと感じているのだった。このぐらいの冗談、昔ならさらりとかわせたはずなのに。過剰反応してしまった自分が情けなくなる。 まったく、冷や汗ものだわ。千秋はおしぼりを目に当ててうつむいた。 いつものように自転車に乗って、自分の住むアパートへと帰ってきたのは、そう遅くもない時間。 沙希と飲んで、こんな時間に帰って来られるなんて、昔では考えられないことだった。もう1件行こうかと話し合っていた時、沙希の夫から電話がかかってきたのだ。 「こんな日に限って早く帰ってくるのよね。ダンナってやつは」 そうすまなそうに言って立ち上がった親友のことを思い出し、胸が痛くなる。 別れ際、「うちに泊まっていけば?」という言葉が喉まで出かかった。あの頃みたいに、コンビニでワインとチーズを買って、朝までおしゃべりすることができたら、どんなに楽しかっただろう。 遠くまで来てしまったんだわ。時が流れてゆく寂しさと切なさは、歳と共にどんどん重さを増してゆく。 いつになくしんみりとした気持になって、ドアを開けると、電話が鳴っているのが聞こえた。相手が誰か確かめることもなく、反射的に受話器を取る。 「こんな時間まで、どこで遊び回ってたんだ。何度も電話したんだぞ」 怒りを含んだ低い声に、すっと体温が下がる心地がする。できれば今、一番聞きたくない男の声だった。親友と過ごした楽しい時間の余韻が、一瞬で消え去った。 どこで遊ぼうと、あなたにとやかく言われる筋合いはない。そう言い返したかったが、唇は凍りついたように動かなかった。どうして今さら、こんなにも恐怖を感じるのだろう。 「あれはいったい、なんなんだ」 さらに怒気のこもった口調で、智史は言った。わけがわからず混乱する千秋を、耳が痛くなるような怒鳴り声が襲う。 「お前が今日、送りつけてきた離婚届、一体あれはなんなんだって聞いてるんだよ!!」 相手が酔っていることに、千秋は気付いた。酔っているのはこちらも同じだけれど、そんなレベルではなさそうだ。電話でもはっきりわかるほど、彼の言葉には脈絡がなく、呂律も少しばかりあやしかった。 離婚届のことだって、前の電話で話したはずなのに……。 今に及んでも、智史はまだ、ごねていた。もはやお互いに心が離れてしまっているのは明白なのに、親や親戚の声や世間体、彼自身のプライドといったものが、この男を頑なにさせてしまっているらしい。正式な離婚の手続きを促す千秋の電話は、いくつもの不愉快な言葉と共に、物別れに終わるのが常だった。 それでも我慢強く説得を繰り返し、どうにか届を出すところまでこぎつけたのが三日前のこと。判を押したものを、家まで持って行くからと言うと、「お前の顔なんか見たくない」と返されたから、郵送で送ることにしたのだ。「勝手にしろ」という捨て鉢な返事に、少し嫌な予感がしていたのは確かだったが。 しかし、いくらなんでも、そのことを忘れたわけでもないだろう。 「だって、あれは……」と言葉を返そうとすると、「言いわけをするな!!」と、ものすごい勢いで怒鳴られた。もはや話などできない。完全に常軌を逸したその声に、本物の恐怖が、足元から背筋へと這い上ってくる。 「どいつもこいつも俺をばかにしやがって!! 俺は絶対に、離婚なんかしない。絶対に、お前の思い通りになんかさせやしないからな。戻って来い、どうしても戻らないって言うんなら、連れ戻しに行ってやる!!」 乱暴に電話が切られた後も、千秋は凍りついたまま、受話器を離すことが出来ないでいた。ツーツーと耳元で鳴り続ける機械音に気付き、ようやく受話器を戻す。台の上についた両手が、がたがたと震えていた。 大丈夫、連れ戻しにくるなんてこと、智史が本当にするわけがない。胸の中で自分に言い聞かせる。 「どいつもこいつも」俺をばかにしやがって……そう彼は言った。きっと何かがあったのだ。会社でよほど不愉快な目にあったとか、おそらくそういったことだろう。自棄になっているだけだわ。 だけどこの恐怖の正体は、そんなことではないのだった。とにかく理屈抜きに怖い。心の歯車が狂ってしまったような心地がする。実際に智史と向き合い、暴力の最中にいたあの頃ですら、これほどの恐ろしさを感じたことはなかった。 どうしてしまったんだろう。身体中ががたがたと震えだす。壁に背をつけ、彼女は座り込んだ。 陸……あの男の子の名前を呼んでみる。俺たちは、大親友なんだからさ……力強くそう言った、あのお陽さまのような笑顔を思い出す。陸――陸に会いたい。 だけどいつものカフェに行っても、もうあの笑顔を見ることは出来ないのだった。このときほど、切実な喪失感を胸に抱いたことは、なかった。 |
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