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ライヴハウスの扉を開けたとたん、ステージの前に立つ千秋と目が合った。 久しぶりに見るその顔に、なんともいえない安堵の表情が浮かんだような気がして、陸は戸惑う。だけど、ひょっとして自分も同じような顔をしてたかもしれない。 バイトを辞めて会えなくなってから、ずっとずっと心のどこかに気がかりな気持が引っかかっていたから。 それは寂しい、会いたいというような思いとは違う。陸自身はまさかそんな風に思いはしないだろうが、母親が幼い子供の姿をずっと見ていないと心配でしょうがないといった心理に似ていたかもしれない。 会って、その姿を見て、いつもの勝気な物言いを聞いていないと、陸の中で彼女のイメージは、どうにも頼りなく、心細げなものになってしまうのだ。 だから、探していた何かをやっと見つけたような、泣き出しそうな安堵の表情を彼女の瞳に見つけたとき、胸のどこかが激しく痛み、陸は焦った。 どうして千秋は、そんな顔をするんだろう。 「よう、久しぶりだな」 どうにか笑顔を作り、手を上げる。千秋も同じように笑顔で手を振り返す。だけど何故だか言葉が続かなくて、互いに困り果てていると、島崎が現われて「椎葉さん、そろそろ……」と彼女を連れて行ってしまった。 なんとはなしに、ほっとしたような気持で座席に腰を降ろす。 ステージに上がってからも、千秋は今までになく調子が悪そうだった。一曲目のイントロで、いきなり不協和音を響かせ、陸の心臓を冷たくした。 そのあとはどうにか、はっきりと誰かに悟られるような失敗もなく、歌い、弾きこなしてはいたものの。 どうにも気持が浮ついているらしいのは明らかで……。見ている陸の方が、ハラハラ、ドキドキ、冷や汗の出るような心地になってしまう。いったいどうしてしまったんだろう、あいつ。 『You've got a friend』、陸が初めて聴いたあの歌を、千秋は歌っていた。いつものように、包み込むような歌声。だけど高音の危うい震えが、なぜだか彼の胸を痛くする。 こんなに気になるのに、どうして「好き」じゃないんだろう。 ふと、そんな疑問が心のどこかで生まれた。だけど陸はその小さな問いを、あわてて心の深いところに沈めてしまった。 「だいじょうぶですか?」 楽屋を出たとたん、待っていたらしい島崎に声をかけられた。千秋は少し、疲れた表情でうなずく。 「すみません、ひさしぶりのライヴなのに、上手くいかなくて……」 彼女は謝った。島崎は笑って答える。 「いえ、レベル的にはなにも問題ありませんでしたよ。ただ、椎葉さんにしては、歌に入りきれてなかったような気がして――ちょっと心配なんですが」 前半の言葉は、本心からのものなのか、単なる慰めなのか、微妙なところだった。今日の彼女は、どうにか間違えずに弾き、歌いこなすことで精一杯、といった状況だったのだから。「歌に入りきれてない」と言われれば、まさにそう。何年も歌をやってきたけれど、これほどステージで不本意な思いをしたのは初めてのような気がして、悔しくなる。 あれからずっと、眠れない夜を過ごしていた。昼間はなんとか気丈に仕事をすることができたけれど、ひとりきりの夜になると、わけのわからない恐ろしさに身体が震えだす。もちろん智史が自分を連れ戻しにくるなんてことは現実に起こらず、電話だってあれきりだったのだけれど、あの日植え付けられた恐怖心は時と共にふくらみ、彼女の心を蝕み続けていた。 どうにもならない。このところ、どうしても自分の感情をコントロールできない。自分が自分でなくなったような、心もとない気持を、いつも味わってる。 うつむいた千秋を、気がかりそうに見て、島崎は聞いた。 「少し、疲れてらっしゃるんじゃないですか?」 言葉の意味を計りかねて、千秋は島崎を見る。彼は重ねてたずねた。 「家を出て、どのぐらいになりますか?」 「1ヶ月と少し……だと思いますが」 質問の意図がよくわからないながらも、千秋は答えた。島崎はうなずいて、言った。 「相当、張りつめたままで、ここまで来られたんじゃないですか? 人間、そう長く気を張ってはいられないものでしょう? 疲れを覚えるのは、それだけ落ち着いたってことなのかも知れないけれど。1ヶ月というのは、わりに辛い時期なのかもしれませんね」 相変わらずの、鋭い洞察力だった。そうかもしれない、と、千秋は思う。 ずっとずっと、心のどこかで自分に言い聞かせてきた。こんなことは大したことじゃない、弱音を吐いちゃいけない、前を向いて、走り続けていなくてはと……。 だけど心とは正直なもので、辛い経験の分だけ、彼女の知らないところで確実に軋み、壊れかけて悲鳴を上げていたのだった。智史からの電話は、単なるきっかけにすぎなかったのかも知れない。 「だいじょうぶですよ」 千秋の心を読み取ったかのように、島崎は力強い笑顔を見せて言った。 「いつかは、この状況から抜けられます。走りつづけるのに疲れたんだったら、休めばいい。焦ることはないんじゃないですか?」 「そうですね」 千秋は、薄く笑顔を見せて答えた。ほんの少しだけれど、気が楽になったように思えた。 なんとなく、いつかこんな風になるんじゃないかと、島崎は思っていた。ひと月前、「家を出た」と、熱に浮かされたような笑顔で言った彼女は、一時的な躁状態にあるような気がしてならなかったから。 彼女に重大な決心をさせたのは、たぶん、ある種の「勢い」であったに違いない。そんなものかもしれない。どんなにひどい相手と暮らしていても、目をつぶって高いところから飛び降りるような勢いがなくては、それまでの生活のすべてを捨て去るなんてこと、誰だってそう簡単にできるはずがないのだから。 もちろん、彼女の選択は間違ってない。だけど、やはりその反動は避けられない。しばらくは辛い日々が続くのだろうな。 並んで歩き出した千秋の、真っ直ぐ伸びた背中と細い肩、どこか厳しいその横顔を、島崎はそっと見た。痛々しいなと思う。彼女のような人間にとって、世の中は時としてひどく生きにくいものになるのだろう。 なんとかしてあげたい。だけどどうにもできない。人間にはキャパシティーというものがある。守らなければならない人間を、すでに2人も抱えた彼には、これ以上手の広げようがないのも、わかりきっていることで……。 だからなのだろうか。 扉を開け、客席に出たとき、まっすぐ前の席で待っていた陸の姿を認め、 ああ、こいつがいたか、と、いつになく安心したような気持になってしまったのは。 陸は笑顔を見せて立ち上がり、手を振る。それを見た千秋の表情が、面白いように解け、柔らかくなった。傍目にもはっきりとわかる変わりように、島崎は驚いてしまう。 「お前さー、今日、とちっただろ? 一番最初の曲のイントロのとこ。サルも木から落ちるってやつか?」 近くへ来るなり、にっといたずらっぽい笑顔を浮かべて、陸は言った。相変わらずの物言いだが、千秋が今日のステージの出来をひどく気にしていることを知っていた島崎は、少しばかりぎょっとして、彼女を見る。 「サルで悪かったわね。いちいち細かいこと言ってるんじゃないわよ」 負けず言い返すその口調に、いつもほどの勢いはなかったものの。 表情にほんの少し力が戻った……ように思えて、ほっとした。 「帰る?」 陸が聞いた。千秋は黙ってうなずく。 島崎に軽く頭を下げて歩き出す彼女に、ほんの少し遅れて、陸は当たり前のように肩を並べた。 どういうわけか、いつも必ず連れ立って帰ってゆく。何だか不思議な感慨にとらわれて、島崎は甥の後姿を眺めた。いつの間にやら自分よりもがっしりした感じになった両肩に、隣を歩く年上の女を守らなくてはという無意識の緊張感を見たような気がして、なんだかおかしくなってしまう。 このふたりはいったい、何なのだろう。 島崎ならずとも、疑問に思ってしまうところに違いなかった。 |
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