L.N.S.B [ Story - 24]
 ライヴの前に用事があった千秋は、今日は電車で来ていた。陸の家とは沿線も方向も同じで、なんとなくほっとした気持になって、一緒に電車に乗り込んだのだけれど。
 ほんの一駅揺られれば、もう降りなければならない。今日は夕方のライヴだったから、そう遅い時間ではなかったけれど、秋も終わりの陽は早い。窓の外はもう、とっぷりと暗くなっている。駅からひとりで歩いて帰らねばならないのだと思うと、ただそれだけのことなのに、どうしようもなく気が重かった。
「どうしたんだよ。なんか、顔色悪いぞ、お前」
 不意に聞かれ、千秋は、え? と陸を見る。駅が近づくごとに、胸がつまり、冷や汗が出るような心地がしていた。何気ないふりを装っていたつもりだったのだけれど、わかってしまったらしい。
 電車が駅に着く。ひとりになりたくない。そんな心細さを必死に抑え、千秋は答えた。
「大丈夫、ちょっと疲れてるだけだから」
 じゃあ、と手を振って降りようとした。一瞬めまいがし、ぐらりと身体が揺れる。
 思わずホームに座り込みそうになったところを、腕をつかまれ、支えられた。

 思わず反射的に手が伸びた。なにが起こったのかわからなかった。
 一瞬、頭の中が真っ白になって、陸は千秋の横顔を見た。シャレにならないほど血の気の失せた顔色をしている。さっきから様子がおかしいとは思っていたけれど、なんで?
 などと考えている場合じゃなかった。発車のベルが鳴り終わり、ドアが閉まろうとしている。迷ってるヒマなんてない。間一髪。ドアに挟まれそうになりながら、陸はまだふらつく千秋の身体をかばって、どうにか電車を降りる。
「大丈夫?」
 いまだに胸がどきどきしている。とりあえず駅のベンチに千秋を座らせ、自分も隣に腰を降ろしながら、陸は聞いた。聞いてしまってから、これって愚問かもしれない、と思う。
 黙ってうなずいた彼女は、相変わらず青い顔をして、小さく震え続けているのだから。
 大丈夫なわけがない。こんな千秋を見るのは初めてのことで、陸はどうにも途方に暮れる。
 冷たい風が人気のないホームを吹き抜ける。陸は上着を脱いで、千秋の肩にかけた。彼女は心もとなげな瞳で陸を見上げ、小さく「ごめん……」と言った。
 その様子に、どうしようもなく胸が疼く。千秋は何かにおびえている?

 しばらくして千秋は立ち上がった。震えは止まり、顔色も少し良くなっていた。
「悪かったわね。このところ、いろいろあって、寝てなかったりして――。ほんとに、いろいろあったもんだから……ちょっと、疲れてたみたいで――」
 それでも、しどろもどろに言葉をつなごうとする声は、まだ震えてる。格好悪いと思う。いく分冷静になって、心ならずもこの男の子に見せることになってしまった、わけのわからないパニックを思い返すと、ひとりでに顔が赤くなる。絶対に見せたくなかった、あんなところ。
 なんとか無難に言い訳しようと、さらに言葉を探したが、まだ混乱の残る頭ではそれもかなわず、千秋はあきらめて言葉を切り、上着を脱いで、陸に返した。
「ほんとごめん。もう大丈夫だから」
 どうにか声に力を込めて、千秋は言ったが、陸は黙って彼女の顔をじっと見た。その表情に、心細げな何かを読み取ったのかもしれない。きっぱりと首を横に振って、彼は言った。
「とにかく、家まで送ってく。そんなんで事故にでも会われちゃ、こっちがたまんねーよ」
 その有無を言わさぬような頼もしげな響きを、千秋はほんとは切実に待ち望んでいたのかもしれなかった。
 いつものように強気に断ることなんて、とてもできない。彼女は黙って、改札へと歩き出す陸の後を追った。

 家までの10分足らずの道のりを、ふたりは、ぽつりぽつりと言葉を交わしながら歩いた。例によって陸は、多くをたずねることはしなかったのだけれど。
 この男の子の傍にいると、それだけで心が軽くなる……そんな気がする。その大きな身体、軽快な感じのする歩き方、力のある笑顔、無邪気さと優しさの入り混じった瞳の色、少々のことでは動じないスケールの大きさ。もうすっかり馴染みになってしまった何もかもが、千秋を安心させ、パワーをくれる。
 他愛ない会話をひとつ交わすごとに、胸に暖かさが戻る。家に着く頃には、恐怖も幾分おさまり、どうにか普通に彼と接することができるようになっていた。
 ひょっとすると、自分はもう、この男の子なしでは生きていけなくなっているのかもしれない。
 それはそれでまた恐ろしいことのような気が、ふとしたのだけれど。
 門のところまで来て、陸は少し躊躇するように立ち止まった。
 遠慮がちな空気を感じはしたのだけれど、ここまで来てもらった以上、暗い部屋にひとりで入る気にはとてもなれない。千秋は黙って門を開け、先に立って階段を上り始める。
 ほっとしたように足を速めてついてくる、彼の足音が後ろから聞こえた。

 明るいライトの下で見ると、千秋の顔色はずいぶんと良くなっているように見えた。
 陸は少し安心して、言われるままにブルーグレイのソファに腰を下ろす。「お茶でも入れるわ」と言って彼女は止める間もなく奥に消え、手伝おうかと立ち上がりかけたのだけれど、勝手についていくのもなんだか、って気がして。
 いつになく落ち着かない。ガラにもなく緊張している。独りになると、どっと疲れが出る心地がした。まるでもろく壊れやすい何かを、ずっと手の中に守り続けていたような。
 あいつ、いったい何があったんだろう。
 そんなことをぼんやり考えていると、隣のキッチンで「ガチャン」と音がして、陸は慌てて立ち上がった。

 割れたティーポットを前に、千秋は途方に暮れていた。やはりどこか調子が戻っていないらしい。それが、前から感じつづけている故のない恐怖心のせいなのか、突然陸とふたりきりになってしまったことに対する緊張感のためなのか、もはや彼女自身にも、よくわからなかったりするのだけれど。
 ともかく今の千秋は、すぐにパニックに陥ってしまう精神状態であることは確かだった。割れた食器を片付ける、ただそれだけのことを思いつけず、困りきって立ち尽くしている。
 だから陸が心配そうな表情でこちらへ顔を出したとき、心底、助かったと思った。
「どうした? 大丈夫か?」
 黙ってうなずきながら、胸の中に苦笑が沸いてくる。まるで赤ん坊だわ、これじゃ。
「ご……ごめん、手がすべっちゃって」
 どうにか普通に言葉を返すことができたが、陸はその様子に何かを感じ取ったらしかった。
「こっちこそ、悪い。調子が悪いから送って来たのに、いろいろさせちまって。片付けるよ。ほうきどこ?」
 千秋は慌てて、ぶんぶんと首を振る。
「な、なに言ってんの。そのぐらい自分でやるわよ」
 狭いキッチンでバタバタやってるせいだろうか。ふたりともなんだかぎこちない。ほうきを取りに行こうとした千秋は、あわてて割れた食器を踏みそうになってしまい、陸に腕を引っ張られた。
「あぶねーな、お前」
 ため息混じりにつぶやく陸の顔は、驚くほど間近にあって、思わず千秋はそのまま固まってしまう。
 陸もどうしてか、そのまま手を離せないでいた。つかんだままの腕が、なんだか熱い。ほんの少しその手を引っ張れば、抱きとめることができそうな至近距離に彼女はいて、陸は一瞬、そうしたい誘惑にかられた。まるでそうすることがすごく自然なことのような……何考えてんだ、俺。
 そのときふたりは、ほとんど同時に「やばい」と思ったに違いない。
 どうにもならない、あまりにも微妙な「間」が、一瞬、ふたりの間に流れた。
 数秒がやけに長く感じられた。先に自分を取り戻したのは、陸の方だった。彼はあわてて手を離し、大きく息をついてから、言う。
「とにかく、落ち着こう。俺がぜんぶやるから、お前は座ってろ」
 そして有無を言わさず彼女の両肩をつかんでリビングへと連れて行き、半ば強引にソファへと座らせた。いつになく態度が乱暴になってしまったのは、動揺のせいかも知れない。
 千秋から場所を聞いて掃除道具を引っ張り出し、手際よく割れたポットを片付ける陸を、彼女は力なくソファにもたれたまま見つめていた。まるで子供のような、その表情の心許なさに胸が疼く。こいつ、大丈夫なのかな。
 お茶の用意をしようと、彼女に断ってキッチンに入る。その場所はいかにも彼女らしく、整然と片付いていて居心地が良かった。ふと時計を見上げ、お茶というよりも、今はすでに食事の時間であることに気付く。
 陸はそっと、千秋の様子をうかがった。この様子じゃこいつ、放っておくと何も食わないままにちがいない。彼自身も少しばかり空腹を覚えていた。ようし、何か作ってやろう。そう思いつくと、たちまち気分が盛り上がってきて、彼は弾んだ声で千秋に告げた。
「なあ、冷蔵庫の中、見せてもらっていい? 晩飯、作ってやるよ」
「え……? いいけど……でも、何もないわよ」
 さすがに少し慌てた風に、千秋が答える。陸は素早くドアを開けて冷蔵庫の中身をチェックし、不敵な笑みを浮かべた。
「これだけあれば、大丈夫だよ。まあ、見てなって」
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