L.N.S.B [ Story - 25]
「ほら、トマトとタマネギ、ベーコンとにんにくフレークもあるじゃん。スパゲティは?」
「あるけど……」
 千秋の戸惑いをよそに、陸はどこからか大きな鍋を引っ張り出してきて湯を沸かし、食器棚からスパゲティと、ついでにツナ缶も見つけてきた。そして、タマネギを刻み、トマトを火にかざして器用にぺろんと皮を剥いてしまい、それをざくざくと切り、ベーコンを切ってジャーっと炒め……。
 なんだか冗談のようなてきぱきとした仕事ぶり。何か手伝わねばと慌ててキッチンまで来たものの、結局手伝いようがなくて、ぼーっと突っ立ってる千秋を見て、彼は笑って言った。
「心配しなくていいよ。俺こういうの好きだから。向こうでゆっくりしてたら?」
 実のところは邪魔だったのだろう。缶ビールを渡され、肩をぽんぽんと叩かれて、キッチンから追い出されてしまう。なんだか情けない気もしたが、今の千秋は、いつになく無防備にもなっていた。どうやら腕の差も歴然としてるみたいだし。言われるがままに、おとなしくカヤの外に出ることにする。
「あ、なんか音楽かけて。ノリノリのやつ」
 すっかり調子を取り戻した陸の、能天気な声が背中から聞こえる。千秋は素直に棚からウィルソン・ピケットのCDを選び、ステレオに入れた。
「やっぱ、こうなったらビールだよな」
 楽しげにそう言って、陸は冷蔵庫からビールを出して、プシューっと栓を開け、それを飲みながら刻んだタマネギとにんにくを炒め始める。
 何だかいい匂いがしてきた。千秋はといえば再びソファに座り、ただもうぼーっとその様子に見とれているしかない。
『In the Midnight hour』が流れ始めた。「いいじゃんこの曲」とか何とか言いながら、陸の手は止まることがない。冷蔵庫を開けるたびに、新たな食材を見つけ、料理の品数もどうやらどんどん増えていっているようだ。トマトをフライパンに入れてぐつぐつ煮込み、スパゲティを沸かしておいたお湯の中に放り込み、次の料理にかかる。
 嘘でしょ? 千秋は心の中で何度つぶやいたかしれない。ビールが頭に回るにつれ、目の前の光景がなんだか夢のように思えてくる。ハイネケンのグリーンの缶を片手に、音楽に合わせてハミングなんかしながらとても楽しげに動き回る彼は、もうものすごく格好が良くて、この子ってば、いったいナニモノなの?と、千秋はただ呆然とするしかない。 
 ゲンキンなものだわ。我ながら苦笑したくなる。気が付けば、さっきまで彼女を苦しめていた恐怖は、跡形もなく消えていたのだから。
 だって、部屋は暖かくて、いい匂いがして、ご機嫌な音楽が流れていて、自分のために楽しげに動き回ってくれる男の子が目の前にいる。それで心が癒えない方がおかしいかもしれない。思えば、自分のために誰かが料理を作ってくれるなんてこと、本当に久しぶりのことだった。しかもそれが、大きな身体をした17歳の男の子なんだから。
 ただそれだけで、奇跡みたいなものだと思うと、不意に泣きたいような幸福感に襲われ、千秋は焦った。

 所要時間、約30分。テーブルに並んだ料理を見て、千秋はため息をつかずにいられない。
 トマトとベーコンのスパゲティ、冷凍インゲンをゆでて、ツナとしょうゆマヨネーズで和えたもの、タマネギとにんじんのコンソメスープ。キャベツとニンジンをごろごろ切ってつくった即席のピクルスまである。
 もう、完璧としか言いようがない。なんだかいまだに夢かマボロシを見ているようで、千秋は心持ち無口になって、スパゲティを口に運んだ。
 うーん、くやしいけど美味しい。もう何日も食欲どころじゃなかった千秋なのに、熱々のスパゲティはするりと喉を通ってしまった。茹で加減がまた、絶妙なんだな。インゲンだって、何ヶ月冷凍庫に入ってたかわからないような代物なのに、ここまで美味しくしてしまうとは……。彼女は目の前で涼しい顔をしてワインを飲んでいる陸を、あらためてまじまじと見てしまう。
「ねえ、こういうスパゲティって、なんていうの?」
「さあ」
「じゃあ、このツナサラダみたいなのは?」
「わかんねえ。だって、あるもん使って適当に作っただけだから」
 陸はしれっと答える。完敗だわ……千秋は胸の中でつぶやく。どこからみても無邪気でマッチョなこの男の子に、どうしてこんな家庭の主婦みたいな芸当ができるんだろう。
「すごすぎるわ。今どきの高校生って、みんな、そんなんなの?」
 そう聞かずにはいられない。陸は屈託なく笑って、答えた。
「……ってわけでもないんじゃないの? たまに遊びに来た友達にメシ作ってやると、みんなびっくりするから」
「じゃあ、どこで覚えるの? こういうの。お母さんに教えてもらったとか」
「いや、うちの母親、めったにメシ作んねーから。仕事が忙しくて」
 陸はこともなげに言って、笑った。
「だからこそ、ってやつだな。自分でやらなきゃろくなもの食えねえもん。親父にまかせといたらラーメンばかりだし。俺も兄貴も小学校の頃から包丁握ってんだぜ。まあ、やってみたら面白れーし、今はかなり好きでやってるけど」
 そりゃあ手際の良さがハンパじゃないわけだわ。必要に迫られて身についたものなんだから。
 文字通り指一本動かさず、ふたりの男の子をこんな風に育て上げた彼のお母さんを、千秋はある意味、すごい!!と思ってしまったんだった。

 食事が終わるなり、千秋は「さて」と立ち上がり、てきぱきと食器を片付け出す。陸もあわてて立ち上がったが、「片付けるのは好きだから」という彼女の言葉に甘え、任せることにした。ずい分と元気を取り戻したらしいその様子は、彼を安心させていたし。
 それにしても……改めて部屋を見渡し、彼は思う。女の部屋じゃねーよな、これって。
 整然と片付けられた彼女の部屋は、ナチュラルばやりの昨今、珍しいぐらい、無機質なモノトーンでまとめられていた。部屋の一角に2台のキーボードが置かれ、黒いスチールのシェルフに、膨大な数のCDやMDが、整然と並べられている。後は小さなテレビとステレオとテーブルなどがあるだけで、よけいなものは一切ないって感じ。
 でも、妙に居心地がいいのはどうしてだろう。本当にこの場所は寛げる。考えてみれば、かなりせっぱっつまった状況でここへ来たわけだけれど、ともすればそんなことも忘れてしまいそうになる。ずっとここに居たい、そんな風にすら思ってたりする。
 どうしてなんだろう。そう思いつつ、陸は何気なく立ち上がってCDの並んだシェルフを眺めた。 
 千秋のライヴを見るようになって、少しは名前を覚えた、だけどまだまだ未知の、たくさんのアーティストたち。こういうものが彼女を作っているんだな、とふと思う。壁にはスチールのフレームに入ったアンディ・ウォーホルのポスター、どこかで見たようなレコードジャケット。キーボードの上には手書きの五線紙とケースから出したMDが散らばっていて、そこだけちょっと雑然とした雰囲気になっている。
 それらはすべて、彼女自身の人生と同じように、間違いのない目で選ばれた、彼女の愛するものばかりであるはずで。
 ああ、そういうことなんだな、と思う。千秋らしいといえば、これほど千秋らしい部屋はない。
 もう、ここへ来ることはないのかな。そう思うとなんだかひどく寂しくなった。だからかもしれない。
「何か、聴きたいのがあったら貸すわよ。好きなの持って帰ったら?」
 いつの間にやら片付けを終え、ぼんやりとCD棚を見ていた陸にそう声をかけた千秋に、こんな言葉を返してしまったのは。
「また、来ていいかな? ここに」
 千秋はひどく驚いた顔をした。陸は少し、気恥ずかしくなって言葉を探す。なんだかすごく居心地がいいから、お前の部屋。また、他のCDも借りたいし。それに、なんかいろいろ心配で、ほっとけなくって。別に、下心なんて、あるわけじゃないんだけど……。
 あれこれ考えたんだけど、どんな言葉もなんだか違うような気がして。困った陸は、ポケットの携帯を千秋に差し出した。
 言えたことは、ただこれだけ。
「また、連絡する」
 千秋はしばらく呆然とそれを見ていたが、うなずいて受け取り、自分のナンバーをメモリに入れた。

 門のところまで千秋は来てくれた。もうすっかり調子も戻ったから、駅まで送って行くと言われたが、それじゃあ、なんにもならない。
「大丈夫か? ほんとに」
 暗い場所へ来ると、その表情も再びかすかに固くなるような気がして、心配になった陸は聞いた。
「大丈夫、面倒かけたわね」
「気にすんなって、大親友なんだから」
「まだ言ってるの? そんなこと。百年早いって言ったでしょ?」
 ほんの少し、顔をしかめて答える。いつもの千秋だ。安心し、「じゃ」と歩き出そうとすると、「陸」と呼ばれた。振り返ると、いつになく真面目な顔で、こんなことを言われ、驚いてしまう。
「ありがとう、ほんとに。おかげで楽になったわ」
 これまでの付き合いで、こんなに素直に「ありがとう」なんて言われたの、初めてなんじゃないだろうか。不覚にも胸が熱くなる。
 それに乗じて、ってわけじゃないけれど、本当はその静かな笑顔にたずねてみたかった。
 いったい、何があったんだよ――って。
 でも、たぶんこいつは答えないだろう。陸はただ笑顔を返し、夜道へと歩き出した。
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