L.N.S.B [ Story - 26]
「あの……このところ、陸がよくあなたのところへお邪魔してるみたいで――」
 久しぶりにカフェで会った島崎に、いつになく真面目な顔で聞かれてしまった。その物言いは、どちらかといえば、陸の保護者代理としての役割を感じさせるものだったので、千秋は恐縮する。
「す、すみません。あの、別に引っ張り込んでるってわけじゃないんですけど」
 冷や汗をかきつつ返したその言葉がおかしかったのか、島崎は笑って答えた。
「いえ、別にそういうつもりで言ったんじゃないんです。そりゃあ、あいつがあなたに、その…『溺れている』というような様子でもあれば、心配もするんですが。あいつはといえば、やけに淡々としてて――。俺としては、なんであなたといっしょにいて、ああも冷静でいられるのか、そちらの方が不思議でならない」
 冗談とも本気ともつかない、そんな物言いに千秋は赤面する。島崎は少しばかり真顔に戻って言った。
「俺が心配なのは椎葉さんの方です。陸がどういうつもりであなたにくっついているのか、どうも解せなくて……。それと、まあ、好奇心もあります。本当になんなんでしょうね。あなたと陸というのは。なんとも不思議な関係じゃないですか?」
 そんなことを聞かれても……という感じなんだった。実際、本人にもよくわからないものを、説明のしようがない。
 とはいえ、傍にいる者が不思議に感じるのも、無理はないのかもしれない。本当に、自分でもなんなのだろうと思うのだ。このところの陸との日々は。

 あれから陸は、週末ごとに千秋の家を訪れるようになっていた。家に来て、CDを聴きながら、ただひたすら話をして、そう長居はせずに帰って行く。彼といればいつも時を忘れる千秋が、ちょっと物足りなくなってしまうぐらい、まさにそれは淡々としたものだった。
 そして時にはキッチンに立って、楽しげに腕をふるってくれる。前のように冷蔵庫からなにやら見つけてこまごまとしたものを作ってくれることも、家から材料の袋を下げてきてくれることもあり、ふたりで買出しに出かけたことも、何度かはあった。
 季節はもう、冬になろうとしていた。この大きくて傍にいるだけであったかい男の子と、肩を並べて歩くなんて、寒さに慣れた自分にはもったいないこととすら思える。馴染みになりつつある街並みを歩き、近くのスーパーに入ってあれこれ話をしながら食材を選んでいると、不意に涙ぐみたいような気持にとらわれ、困ってしまうことがある。
 たぶん、私はこういうことを、一緒に暮らす人としたかったんだわ……そう思うから。
 何気ない日々のあれこれを、同じ目線で見つめ、瞳に映るものすべてを、共に楽しいと感じること。そんな思いを口に出せば、同じ言葉で答えてくれる誰かがいること。
 彼女が共に暮らす相手に求めていたのは、そんなシンプルなこと。ただそれだけのことが、智史を相手にするとどれほど困難だったか。

「あなたは、陸を好きなんですか?」
 島崎の言葉に、現実に引き戻された。千秋は驚いて首を横に振る。
「まさか……こういうことを恋愛と取り違えるほど、子供じゃないつもりです」
 そんなことを聞かれるとは、心外だった。17歳の男の子に本気で恋をするほど、自分は浮ついた人間に見えるのだろうか。少しばかり、悔しくなる。
 彼は苦笑して話題を変えた。
「でも、良かった。前に会ったときは、どうなることかと心配してましたが、落ち着かれたみたいですね。陸があなたに悪い影響を与えているわけでもなさそうで、安心しました」
 普通は、その逆を心配するんじゃないだろうか。あいまいにうなずきながら、千秋は少し複雑な気持になった。
「森川さんとのことは、決着がつきましたか?」
 そう聞かれて千秋は初めて思い出す。まず、それを島崎に話さなければならなかったことを。



 智史から実にひと月ぶりに連絡があったのは、1週間ほど前のことだった。もはや彼の影におびえることも、音沙汰のなさを不気味に思うこともなく、離婚届の行方を気にすることも、ともすれば忘れがちに日々を送っていた彼女だったから、聞きなれた声を受話器の向こうに聞いても、それが自分を解放してくれる、待ち望んだ知らせであるという実感が、すぐにはわかなかった。
 判を押したから、うちまで取りに来てくれ――。彼が短く告げたのは、ただそれだけ。それが離婚届のことを言っているのだと理解するまで、少し時間がかかってしまったのだからのんきなものだ。
 とはいえ休日、彼の実家へ向かう足は、やはり重かった。
「ごめん、今日はちょっと用事があって……」
 陸からの電話に答える声も、どこかいつもと違っていたのだろう。
「大丈夫なのか?」
 何が「大丈夫」なんだかわからないくせに、彼は気がかりそうに何度も聞いたのだから。

 なんとなく予想はしていたけれど、智史は不在だった。心もち固い表情の義母が千秋を迎え、見慣れた和室に通された。
 封筒を渡され、中身を確認してしまうと、後は話すことがなくなってしまう。義母は相変わらず、まったく笑顔を見せなかったが、それでも何か話さなくてはと思ったのか、息子の近況を短く語った。
 彼は彼で、なかなか波乱に満ちた日々を送っていたらしい。会社での立場がいよいよ危うくなり、一時は手のつけられないほど荒れていたこと、最近、ようやく会社を辞める決心がついて、下請けだった小さな広告会社に再就職したことを聞き、千秋は納得がいった。彼女に脅しのような電話をかけてきたのは、おそらく最悪の時期のことだったのだろう。彼ならそんな行動に出ても不思議ではない。
 そして義母ははっきりとは言わなかったが、そんな彼を見守り、黙って支え続けてくれた存在が、どうやらあるようだった。多分、あの電話の女の子だろう。千秋は現金にも、つい、心から安堵してしまう。
 感謝だわ、おかげでこれ以上、あの男の無意味な脅し文句に怯えずにすむ。もはや彼自身にも、この家にも、何の未練も感じていない自分に、改めて気付いた。
 とはいえ、最後に義母が言った言葉は、さすがに少しばかり胸にこたえたけれど。
「結局あなたは、うちには合わない嫁だったのかも知れないわね。あなたにとって一番大切なのはいつも、旦那様よりも、あなた自身ですものね」
 何とも言えず、沈んだ気持を胸に、もう二度と来ることのない家を出る。
 間違いなく自分の意志で智史の元を去ったはずだった。なのに、疎まれ追い出されたのは自分であるかのような錯覚にとらわれている。
 まったく、最後まで冴えないものだわ。一番大事なものは自分自身、確かにそうだ。私は、この世の中を生きて行く上で、何か重大な間違いを抱えているのかもしれない。
 そんな思いにふと胸が暗くなったとき、ポケットの携帯が鳴った。

 大丈夫か? 今日はずっとカフェで亮二とうだうだしてる。終わったらメールちょーだい。

 わざとふざけたような文面に、なんだか胸が熱くなる。信じられないほどのグッド・タイミング。奇跡としか言いようがない。
 ただ、これだけのことで、胸の中がぱっと明るくなった。智史のことも、お義母さんのことも、どこか遠くに飛んでいってしまった。これはもう、会いに行くしかない。千秋はただ、「終わった」とメールを返し、駅への道を急いだ。



「またメールなの? 最近ほんとによくマメに送ってくるわね」
 昼食を取りに入ったレストラン、着信音が鳴ったとたん、食事もそこそこにバッグから携帯を出す千秋を見て、沙希は半ば呆れ顔で言った。
「マメに、って言うほどでもないわよ。1日に2回か3回ぐらい」
 千秋は少し顔を赤くして答える。
「じゅうぶん、多いんじゃないの? よくそんなに書いて寄越すネタが、あるものよね」
「別にどうってことないことばかりだもの。あ、今日は宿題忘れてグランド10周走らされたんだって。もうすぐ大学生になろうって子が、なにやってんだか」
 そう言って携帯の画面を見るその表情は、見ているこっちが恥ずかしくなってしまうほど優しい。沙希は肩をすくめ、言った。
「1日に3回のメールと、で、週末は必ず遊びに来るって言ってたっけ? ゴハン作ってくれるとか?」
 画面から目を上げ、千秋はうなずく。
「そういうのって、『愛されてる』って言わない?」
 と、沙希は沙希らしく鋭い突っ込みを入れた。
「い、言わないわよ」
 千秋は答えた。この女友達の言わんとすることは、大体予想がついていたから、クールに即答したつもり、だったのだけれど、なぜだか声が上ずってしまった。焦った彼女は、早口に言葉を並べる。
「考え過ぎなのよ、沙希は。家でもCD聴いて、ただひたすら話をして、それだけだもの。あの子も彼女と別れて寂しいんじゃないの? 次が見つかるまでの、つなぎみたいなものよ、きっと」
 強気に言い放つ千秋に、沙希は苦笑した。千秋は自分が強がりを言う子供になったような気持になる。
「まあ、そうでないことを切実に願ってるわ」
 沙希は答えた。その言葉はあながち冗談でもない。
 あのふたりの間にあるものを、本人たちよりもずっとよく理解しているのは、おそらく傍観者である自分なのだろう。沙希にはなぜだかそういう確信があった。あの、お昼休みのカフェで言葉を交わす彼らを見たときからずっと。
 歳の差、立場の差、そんなものが、ぜんぜん問題にならない恋も、世の中には多々あるのだろうけれど、あの二人の場合は違う。千秋も、そしてたぶんあの男の子も、あまりにもナイーブで「普通」で、そしてすべてを乗り越えてしまう向こう見ずな情熱が、少しばかり足りない。自分たちの間にある壊れやすいものを大切にしたいばかりに、ひどく臆病になってしまっている。そんな心理が、沙希には手にとるようにわかってしまうんだった。
 だからこそ、千秋も自分の気持をぜったいに認めようとしないわけで。
 まったく、もどかしい。惹かれ合っているのは、もはや明白なのに。あの男の子もあの男の子だわ。年齢の割には、落ち着き過ぎている。同じ部屋で時を過ごしているんなら、さっさと押し倒してしまいなさいよ!!思わずそう言いたくなってしまう。
 だけど、これほどまでにもどかしさを覚えるのは、逆に、ふたりの向かっている先が彼女にははっきりと見えているせいなのかも知れなかった。
 このままではいたくない、そんな激しい思いが彼らの背中を押す時が、いつか来るはず。
 要するに、時間の問題ってこと。何も心配することなどないのかもしれない。そのとき沙希は、疑いもなくそう思っていたのだけれど。
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