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「食べないの? もうお昼休み終わっちゃうわよ」 ふと、目の前にある千秋のランチがほとんど手付かずの状態であることに気付き、沙希は何気なくたずねた。 「なんだか、ずっと食欲がなくて」 少し青い顔で、千秋は白状した。 「ほら、智史とのごたごたが長引いたじゃない。精神的に参ってしまうことが多くて…それが身体にも出るみたい。胃が痛くなったり、ふらふらしたり。意外にデリケートな身体だったのね」 そう言って彼女は笑おうとした。 実を言うと、陸がときおり食事を作ってくれるのは、そんな彼女を心配してのことだったのだ。彼の作ったものなら、どうにか食べることができたから。 「でも、もうダンナとのことは落ち着いたんでしょ?」 沙希に聞かれ、千秋は答えにつまる。言われてみれば、このところ精神的にどうこう、ということはほとんどなかったのだ。夜も眠れるようになっっていたし。 ただ、体調だけが戻らない。今朝起きたときも、よく眠ったはずなのに身体が重くて、何も食べる気がせず、やっとの思いで職場まで来たのだった。仕事をしているときは、どうにか忘れていられたけれど。 千秋がそう言うと、沙希は笑って言った。 「やだ、それってなんか妊娠みたいじゃないの。来るべきものはきちんと来てるんでしょうね」 冗談めいた言葉に、千秋は「え?」と、虚を突かれる。 「来てない……けど――」 しどろもどろに、答える。こんどは沙希の顔色が変わる番だった。千秋はあわてて言葉を探す。 「で、でも、沙希も知ってるでしょ? 私って本当に不規則なんだから。2、3ヶ月ないことぐらい、めずらしくもなんともないのよ」 「いつから、なの?」 静かに聞かれ、混乱する頭で記憶をたどった。少なくとも、家を出てから一度も、だ。あれから今にいたるまでの日々はあまりにも目まぐるしくあわただしかったから、そんなに時がたったことにすら気づかずにいたのだけれど……。 「離婚なんて人生の一大事があったからよ。ずっと、精神的に不安定だったし……。さっきも言ったけど、もともと――きちんとあるほうじゃ、ない……し――」 自分に言い聞かせるように言った語尾が震え、自信なげに声が小さくなり、消えた。 「とにかく、どっちにしろ病院へ行った方がいいわ」 沙希は静かに言った。その青ざめた顔とは裏腹の、冷静な声の響きが、千秋の胸に刺さった。 「やっぱそれって、恋だよ、恋。どう考えてもそうとしか思えねえ」 ……ったく、亮二にこれを言われるのは、今週に入って何度目だろう。 体育の時間、ふたりで組んでストレッチの真っ最中。折り曲げた背中に思いっきり体重をかけてやるが、陸に劣らず頑丈な身体はびくともしない。 ホイッスルの音と共に立ち上がり、パンパンと砂を払った彼は、能天気な笑顔を見せて言葉を続けた。 「なんだかんだ言って、お前が彼女にベタボレなのは決定だな。そんなに好きならさっさとコクっちまえ」 陸は何も答えず、めいっぱいウンザリした顔を作ってやった。こいつ、外見も動作もびびってしまうほど大人なくせに、どうしてこう、言うことが軽いかなあ。だいたい、1年前までマトモに日本語しゃべれなかったやつが、「コクっちまえ」とか言うか? 千秋に会えなかった先週の日曜日、どうにも胸騒ぎがして仕方なかった。なんとなくひとりでいたくなくて、思わず亮二を呼び出してしまったのだけれど、これってちょっと、失敗だったかもしれないと思う。 我ながらしつこいなと思いつつ、メールを出した。思いがけず、すぐに返事が返ってきて、亮二とふたりでうだうだと時を過ごしていたカフェに、千秋は姿を見せた。 どうしてだろう。その顔を見ると、無条件に安心してしまうのは……。そして、相手の瞳にも同じような安堵の色が浮かぶのは、本当に、どうしてなんだろう。 そんなふたりの様子を、間近でしっかりと目撃していたのが、この救いようもなく頭のシンプルな悪友なんだった。 「どうして認めねーんだよ。相手が年上だからか? 10やそこらの歳の差、今どきどうってことねーだろうがよ」 「そういう問題じゃ、ねえよ」 「じゃあ、どういう問題なんだよ」 授業が終わってからも、更衣室までくっついてきて、しつこく追及を続ける友人に、陸は心底うんざりする。これだから、頭がアメリカンな奴は困る。こいつはいつもそうなのだ。こちらが納得の行く答えを返すまで、あれこれ質問するのをやめようとしない。 だけど、自分でもよくわからない複雑な気持を、どう説明しろっていうんだろう。彼はとうとう面倒くさくなり、 「うるせー」 と、着替えのために脱いだ体操服を、亮二の頭に投げつけた。 更衣室を出てすぐ、ポケットの携帯をチェックする。着信なし……陸の胸に、薄い靄のような不安が広がる。ここ2、3日、メールがなかった。今までなんだかんだで1日に1度は返信をくれてたのに。 メールも電話もこっちが勝手にやってることだから、それをどうこう言う権利はない。でも、心配になる。何か、あったんだろうか。 それから3日たち、4日たっても状況は変わらず、週末、何度か電話しても、彼女が出ることはなかった。 胸の中に広がる不安は、急速に重たく暗いものに変わっていった。どうしようもなく嫌な予感がして、なんだか不安で……。どんどん心が余裕を失って行くのを、彼は自分でも、どうにもできなかった。 もう、恋だとか恋じゃないとか、そんなことは言ってられないぐらいに。 職場の前の歩道、ブロンズの手摺にもたれて立つ、その男の子の姿を見たとき、沙希は、そう大して驚かなかった。それは、なんとなく予想のついていたことだったから。 「千秋の親友」の姿を認め、小さく笑って手を上げる陸の、急速に大人びてしまったように見える表情に、かすかな胸の痛みを覚えながら彼女は合図を返した。 「悪いけど…千秋ならいないわよ。体調崩して、しばらく会社休んでる」 ためらいがちにそう告げると、その表情が「え?」と固まる。 「休んでる…って。あいつ、どうしたんだよ」 思わず、といった風に血相を変えて、陸は聞いた。聞いてしまってから、それがそう親しくもない年上の人間に対する態度としては、すこしばかり不躾であったことに気づいたらしい。彼はうつむいて言った。 「ごめん、いきなり出てきて、こういうこと聞くのも、なんだかだよな」 その心許なげな様子に胸が痛んで、沙希は優しく聞いた。 「千秋と、ずっと話してないのね?」 陸は小さくうなずき、ぼそっと答える。 「もう1週間、メールも電話も繋がらないんだ。わけ、わかんなくて……」 やっぱり……沙希は胸の中でため息をついた。この男の子は、何も知らされてないんだわ。 「べつに……そのことをどうこう言うつもりはないんだ。会いたくないなら、それでいい。でも、こういうのって、あまりにもあいつらしくないだろ? なんか、心配になって……。あいつ、何かあったのか?」 その淡々とした口調に、沙希は少なからず驚かされる。その胸の内は、決して静かではないだろうに。 突然連絡を絶たれるなんて扱いを受ければ、大人の男だって普通、もっと取り乱したり怒ったりするんじゃないだろうか。なのに、そのことを責めるつもりはないと彼は言う。そして、ただひたすら、千秋のことだけを案じているのだ。 彼の思いは本物なのだと、沙希はこのとき初めて、悟った。この男の子は、もうどうしようもなく本気で千秋に恋してしまっている。彼自身は相変わらず、その気持に気付かないままのようだけれど。 「とにかく、これだけが知りたいんだ。千秋は、大丈夫なんだよな」 陸はうつむいていた顔を上げ、真っ直ぐに沙希を見て、聞いた。 その瞳の真剣さに気圧され、あいまいにうなずきながら、沙希は言葉を探す。「大丈夫」だとは言い切れないのが、辛いところだった。どう、話すべきなのだろう。千秋が彼に対して沈黙を守っている以上、自分が軽率なことを言うわけにはいかない。 千秋、あんたってば、まったく罪な女だわ。 とかくあの親友には甘い沙希だけれど、今回ばかりはその頑なさを恨みたくなった。 もちろん、こうするしかなかった彼女の気持も、わからないではないのだけれど。 「前のダンナと何かあったとか、それで神経が参っちまってるとか、まさか、そういうことじゃないよな? あいつ、最近不安定だったから……。身体の調子も良くなかったみたいだし…」 重ねて聞かれ、覚悟を決めた。このまま何も知らせず、この男の子を帰すわけにはいかない。それに千秋だって望んでいるかもしれないとも思う、誰かが真実を話すことを。陸が今、どれほど不安な気持でいるか、誰よりもわかっているのは、千秋自身に違いないのだろうから。 沙希はひと呼吸し、思い切って口を開いた。 「そんなに心配なら、直接、様子を見に行ってあげなさい。あの子の家、知ってるんでしょ?」 陸は少し驚いた顔をし、「でも……」と口を開こうとする。沙希は重ねて言った。 「千秋があなたの電話に出られないのは、今の自分の状況を、どうしても話すことができないからよ。あの子、妊娠してるの」 「え……?」とつぶやいたきり、絶句した彼の表情が、そのまま凍りついてしまったように見えた。 |
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