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ドアを開けると、そこには陸がいた。 ほとんどパジャマに近いような服装や、まったく化粧気のない顔を気にする余裕もないほど、千秋は心底驚いてしまう。毎日何度となく思い浮かべ、会いたいと思っていた顔がそこにあったのだから。だけど彼の表情は、彼女の大好きな、あのお陽さまみたいな笑顔じゃなかった。 思いつめたように真剣な表情が、彼女の顔を見て、ほっとしたように緩む。 そんな陸を見るのは、初めてのことで……。 陸は陸で、彼女がやせてあまりにも顔色がよくないのに驚き、一瞬呆然としてしまう。 いつもの調子で話さなくては……彼はどうにか笑顔を作って言った。 「寝込んでるって聞いて様子見に来たんだけど、なんか、ほんとに辛そうだな」 「もう、ぼろぼろよ」 千秋は力のない笑みを浮かべた。 ソファに座り、持参の缶コーヒーを飲みながら、陸は何から話し出せばいいのかわからず、困っていた。千秋は、ぐったりと壁のクッションに持たれて元気がない。陸が持ってきた飲み物を、手に取ろうともしなかった。 「あの、遠慮しないで寝てていいよ。辛かったら、俺はすぐ帰るから」 そう言いながら立ち上がりかける陸に、千秋はあわてたように、かぶりを振る。 「何もしないで寝てると、よけい辛いの。誰かとしゃべってる方が、気が紛れるかも」 「きちんと食べてる?」 「お茶とか、水ぐらいだったらなんとか口に入れられるけど」 「お茶……って、お前それ、ぜんぜん食べ物じゃねーじゃん」 陸はあきれて言った。そりゃあ、痩せるわけだ。 「食べなきゃいけないのは、わかってる。でも、無理して食べても吐くだけだし……こんなことがずっと続いたら、このまま私、どうなっちゃうんだろう」 思わず力なく訴えてしまって、我に返り、千秋は苦笑したい気持になる。 何、言ってるんだろう。こんな毎日がずっと続くはずがない。早く終わらせなくてはならないのは、わかりきったことなのに。 なのに心はいつも同じ願いを発し、理性が打ち消すということを、何度も繰り返してる。どうか、このまま、無事に……と。 どうしようもなく、混乱している。 沙希に諭されて危機感を持ち、とりあえず買って来た検査薬に、「まさか」の陽性反応がくっきりと浮かび上がったのは、2週間ほど前のこと。 それでも薬で調べた結果なんてあてにならないと自分に言い聞かせながら、足を運んだ産婦人科では、「妊娠3ヶ月」をはっきりと告げられ……以来、千秋は、混乱の中から抜け出せないままでいる。 どうして? なんで、今ごろになって……。 頭の中に、疑問符ばかりが渦を巻く。その事実を現実として受け入れる心の余裕もなく、すぐに激しいめまいと吐き気がやって来て、そのまま彼女は仕事に行くことも、冷静にものを考えることもできなくなってしまったのだった。 「大丈夫だよ」 思わず陸は、そう答えていた。 「よく、わかんねーけど。今は、食べなくても大丈夫らしい。そのうちダイエットしなきゃなんないほど、食べるようになるからって、昔あき兄の奥さんが言ってた……」 そこまで言ってしまって、陸は慌てて口をつぐんだが、遅かった。千秋が小さく目を瞠って陸を見る。 しばらくの沈黙の後、彼女はぽつりとたずねた。 「沙希に、聞いたの?」 陸はうなずくしかない。 「ごめん……」彼は言った。 「俺がむりやり聞き出した。沙希さんの方は、ばらす気なんてなかったんだ。怒んないでやってくれよな」 「わかってる」 千秋は静かに答える。 「私もずっと、陸に話さなきゃって思ってたの。でも、どうしても言えなくて――。沙希が言ってくれてよかった」 たぶん、それがわかっていたから、沙希は話したのだろう。そんな気がした。昔からあの親友は、千秋の望むこと、望まないことを驚くほどわかってくれている。甘えっぱなしもいいとこだわ。自分の不甲斐なさが情けなくなる。 でも、ここから先は、誰かに頼るわけにはいかない。 自分自身で向き合わなくてはならないのだ。この、真っ直ぐな瞳と。 「でも、どうしてなんだよ。ダンナとは、その……仲悪かったんだろ?」 うつむきがちに、陸は聞いた。彼らしくもなく、歯切れの悪い物言いだった。 その問いを口にしてしまってから、自分がこうして千秋の夫のことを聞くことなど、今まで一度もなかったことに、初めて気づく。今まで知らずにいたことの不自然さや、ここへきて今さらのようにたずねずにはいられない、やむにやまれぬ自分の気持にも……。 さっき、ドアを開けた千秋の姿を久しぶりに目にしたとき、どうしようもなく胸が痛んだ。逃げようのない現実に直面した彼女が、どれだけ混乱し、たったひとりで苦しみ続けて来たか、一目見てわかったから。 その時、彼は気づいてしまったのかも知れなかった。彼女が、自分の想像もつかないような過酷な現実を生きていたことに。 千秋が話したくないのなら、それでいい、ずっと、そう思ってきた。どんなに心配でも、気がかりでも、彼女が話すことを求めていない以上、単なるガキでしかない自分が、よけいな詮索をするわけには行かないと……。 それに、ずっと、それでもよかったのだ。彼女と話していると、ただひたすら楽しい、それだけでよかった。それだけで、充分だったから。 だけど今は違う。たったひとりで過ごしたこの数日間が、彼を、自分でも気づかないままに大人にしていた。なんとかして、こいつの力になりたい、そう、強く思っている。 自分のできることなら、なんでもしてやりたい、助けてやりたい。彼女が助けを求めているかどうかではなく、ただ、手をさしのべずにはいられないのだ。 だから話して欲しいと思う。すべてを知ればまた胸は激しく痛むだろうけれど。 その痛みを耐える覚悟が、すでに彼にはできていた。 千秋は迷いと共に、陸の問いを受け止める。どう答えれば良いのか、わからなかった。 本来、彼は人の心の触れられたくない深い部分には、決して立ち入ろうとしない男の子だったと思う。そうしたことを本能的に察するだけの賢さや思いやりゆえのこととも言えるのだけれど、それが逆に、ふたりの間の埋めがたい距離ともなっていたのだ。 だからこそ、混乱する気持のままに、何も言わず連絡を絶ってしまうなんて大人気ないことができた。そんなこと、彼にとってはそう重大なことでもないだろうと思っていたから。 なのに……。彼がこうして来てくれたこと、自分を気にかける様子を隠そうともせず、これまでになかった問いを口にしたことに、千秋は混乱している。寄りかかりたい、何もかも話してしまいたい、そんな思いと必死に戦っている。迂闊に答えることはできない。陸の問いに答えることは、これまで自分と智史の間にあったことすべてを話すことに、他ならないのだから。 我知らず、彼女は追いつめられたような瞳をしていたのだろう。目を上げ、まっすぐに千秋の目を見た陸の表情が、ふっとゆるんだ。 「ごめん……」少し苦笑して、彼は言う。 「答えたくないなら、答えなくていいんだ。でも、話してくれないか。お前の話したいこと、なんでも――。俺は、きちんと聞くから」 そして、きちんと受け止めるから――。そんな、声にならない声が聞こえたような気がして、千秋は驚いてじっと陸を見つめる。 そして長い沈黙の後、気が付けば、彼女は話し始めていた。 どうにか冷静に、冷静に……上手く話さなくては。そう、心に言い聞かせながら。 「智史とは……ずっと、うまくいってなかった。お世辞にも仲の良い夫婦とは言えなかったわ、結婚した頃から、最後まで――」 こうして陸は、千秋の夫の名前を初めて知ることになる。 |
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