L.N.S.B [ Story - 29]
「最後の方なんて、完全にもう心は離れていたし、冷めていた。憎み合ってた、って言った方がいいぐらい。智史には他に寝る相手がいたみたいだし、私のことなんて欲しいとも思わなかったに違いないわ。なのに、そうなればなるほど、彼は私を支配しようとしたの」
 覚悟はしていたはずなのに……もう初めから胸がズキズキと痛んでしょうがなかった。とりわけ千秋が淡々と口にした、「支配」という言葉は、鋭い矢のように陸の胸を刺した。千秋ははっきりとは言わなかったけれど、それが何を意味するかぐらい、陸にも察することはできたから。
 その結果、千秋はこんなことになってしまったのだ。その事実はあまりにも痛々しすぎて、言葉にして確かめることなんて、とてもできなかったけど。
「そんな顔、しないで」
 陸の考えていることがわかったのだろう。千秋は小さく笑みを浮かべて言った。
「それほど大変なことじゃなかった。もともと夫婦だったんだし、逃げ出そうなんて考えるよりも、少しの間、黙って耐えている方がよほど楽だったの。あなたが思うほど、辛いことじゃ、なかったわ……」
 言葉とは裏腹に、その笑みが微かに強張るのを、陸は見逃さなかった。揺れる気持を抑えるかのように、千秋は小さく息をつく。「ただ……」と続ける声は、震えを帯びていた。
「ただ――子供ができてしまうことだけは、あの頃もやっぱり怖かった。智史は、何としてでも子供を持とうとしてたから……。皮肉なものよね。今になって、できちゃうなんてね」
「こども……?」陸はわけがわからず問い返す。
「なんで、子供なんか……子供好きだった――なんてわけ、ないよな」
 千秋は首を横に振る。陸はなんだか舌打ちをしたい気持になった。そうだよな、そんな甘っちょろいキャラであるはずがない。理解できないことが多すぎて、なんだか思考が麻痺している。でも、だったら、どうして? 
 解せない気持が表情に表れていたのか、千秋は再びわずかに笑みを見せて、答えた。
「どう考えても、子供は好きじゃなかったと思う。いつまでも自由でいたい、好き勝手に遊んでいたい人だったもの。望み通り子供を持つことができたとしても、生まれてしまえば、後は無関心だったでしょうね」
 話しながら、どうにか浮かべた笑みが留めようもなく消えてゆくのを千秋は感じていた。
 わけがわからないと言いたげな、陸の表情が胸に痛い。やっぱり、話すべきことじゃない。だけど、話し続けるしかなかった。
「……なのに、周りの誰かに子供はまだかって聞かれるたび、機嫌が悪くなった。よく怒られたわ。お前のせいで俺は立場がない、みんなから馬鹿にされる。子供が欲しくないなんて、お前はおかしいんじゃないか。女としてどこか欠陥があるんじゃないか……って」
 感情のままに投げつけられた、いくつもの言葉が胸に蘇る。冷静さを保つのが難しくなり、千秋は必死に感情を殺そうと努めた。
 高ぶる気持とは裏腹に、声は次第に、冷たく、淡々としたものになってゆく。
「彼は、そういう人だったの。心からの『こうありたい』という望みよりも、世間的に『こうあらねばならない』という常識を、何よりも優先させるような……。だから、彼には何もかもが気に入らなかったのよ。私が子供を生みたがらないことも、歌や仕事を続けていることも、自分の思い通りにならない全てのことが、智史には許せなかった。だから、どうにかして私の上に立とうとした……自分の方が、私よりも偉いんだってことをわからせようとしたの」
 そこまで話し切ると、千秋はいったん言葉を切り、目を伏せた。
 静けさの中、かけるべき言葉も見つからず、陸はただ、彼女が再び話し出すのを待つしかなかった。
 正直、きちんとは飲み込めない。「偉い」ってなんなんだよ。「上に立つ」って、何のために? まるで違う世界の話を聞いているようで、頭が理解することを拒否してしまう。
 ただ、ほんの少し答えが見えたような気がしていた。そういう男……だったんだ、千秋のダンナ、って。
「そして……笑っちゃうような話だけど、気がつけば私も、その通りだと思うようになってた。頭じゃなくて心がね。私なんて何の価値もない、彼の言うことを聞いているしかない人間なんだって……」
 沈黙の末、千秋はうつむいたまま、そう言った。まったく彼女らしくない自嘲気な響きが、陸の胸に突き刺さる。
 その痛みと共に、彼は思い出していた。いつか自分が口にした無邪気な言葉を。
 ――結婚してるやつらはいいよな、好きな相手と朝まで一緒にいられるんだもんな。俺は千秋がうらやましいぞ……。
 なんて残酷なことを言ったんだろうと、今さらのように思う。あの時彼女は、なんともいえない複雑な色を瞳に浮かべはしなかっただろうか。
 それだけじゃない、思い出せば、思い当たることはいくつもあったのだ。自分の肩にもたれて眠ってしまった彼女の頼りなげな寝顔。駅で倒れかけた時の怯え切った表情。あの時も、あの時も、そしてあの時も……。今さらのように、自分の能天気さが情けなくなる。
「陸……?」
 自分の思いに沈み込んでしまった陸に、千秋が少し不安気に声をかける。
「ごめん、ちょっと、話しすぎたかも……」
 話してしまったことを恥じ入るかのようにうつむいて詫びる彼女をじっと見つめ、陸は、はっきりとかぶりを振った。
 過ぎてしまったことを悔やんでも仕方がない。これまでの分、今、きちんと受け止めてやればいいんだ。彼女が独り、胸に抱え続けてきたものを。
「もっと、話せよ」
 どうにか感情を抑え、力強い笑みを見せて彼は言った。こんな風に笑えない気持のままで、無理矢理笑顔を作るのは、ただ無邪気に生きてきた彼の人生の中で、初めてのことだったかもしれない。
「ぜんぶ話して、楽になっちまえ。俺が最後まで、聞いてやるから……」
 当惑と安堵を泣き出しそうな瞳に浮かべてじっと自分を見るその表情が、まるで子供のように見えた。

 気が付けば千秋は、すべてを話し出していた。智史が帰って来ない夜の孤独と焦燥、彼の世話に追われる日々の虚しさ、言葉が通じないかのような悔しさともどかしさを抱えながら、聞くに堪えない言い争いを繰り返したこと。自分のすべてを否定するような言葉を投げつけられるたび、心が小さく縮んでゆくように感じられたこと……。
 その中のいくつかは、沙希や島崎にすでに話したことだったけれども、これほどまでに切実な思いで、自分の結婚生活のことを話したのは、初めてだった。
 本当は誰よりも、この男の子にすべてを聞いて欲しかったのかもしれない。
 陸は穏やかな表情にときおり微かな痛みのようなものを浮かべ、ただ静かに千秋の話を聞いていた。いつになくその大人びたその様子に、彼女はともすれば、彼が自分よりずっと年下の高校生だということを忘れそうになるほどだった。
 話が、結婚生活の最後に千秋が受けた暴力に及んだときには、さすがにはっきりと表情を変えたけれど。
「殴られたって……まさか、あの時、転んだって言ってた――」
 陸は震える声で聞いた。初めてのライヴの時の、あのやりとりを思い出しながら、千秋はうなずく。
「家庭っていう、彼にとって決して壊れてはならないものが壊れ始め、仕事も、上手く行かなくなり始めてた。多分智史は、怖かったんだと思う。自分の人生が滅茶苦茶になってしまうように感じて、怯えてたのよ。そしてこうなったのは全部、私のせいだと思っていた」
「どうして千秋のせいになるんだよ」
「私が、智史の言うことに従わなかったから。智史の考える理想の奥さんになれなかったから。彼の考えてた理想の人生や、結婚生活を、私は多分、滅茶苦茶にしてしまったんだと思う」
「理想……って……」
 つぶやく声は、声にならなかった。あまりにも飲み込めないこと、理解できないことが多すぎて……。彼は小さく息をつき、千秋の言ったことを心の中で繰り返す。そうしないと、次の言葉が出てこなかった。
「その理想って、何でも言うことを聞いてくれる奥さんがいて、自分は世話しなくていいけど、とにかく世間体だけは保つための子供がいて、自分は好きに遊んだり仕事したり出来る結婚生活ってこと? そいつの考える人生の中に、『千秋』はどこにいんだよ。千秋は、千秋なのに……そんな自分勝手な理想を押し付ける権利、そいつにはねえよ」
 千秋はかすかに苦笑し、小さくふっとため息をついた。
「それは、私も同じだったのかも知れない。智史も、『智史』だったもの。私も、自分の理想を彼に押し付けてたんだわ、多分」
「だからって、妻を殴っていいてことにはならないだろ? わかんねーよ、俺、そいつのこと。お前がどんなに話してくれたって、きっと理解できねえ。俺にわかるのは……」
 陸はそこまで言って言葉を切り、うつむいた。その横顔に浮かぶ苦しげな表情に、千秋は胸を突かれる。
「俺にわかるのは、お前が、本当に苦しかったんだ、ってことだけだ」
 彼は唇を噛み、うつむいた。その横顔に色濃く浮かんだ憤りの色に、千秋は驚き、そしてなぜか、泣きたいぐらいに救われたような気持になる。ずっと、こんな風に、誰かに怒ってほしかった、そんな気がして。
「ごめん……どうしてずっと、気付いてやれなかったんだろう――」
 痛いばかりの後悔に満ちたその言葉を聞いた時、千秋の中で、不意に何かが崩れた。
「陸が……陸が、あやまることじゃない――」
 どうしよう、声が震える。今ここで感情を爆発させることだけは、避けなければ。千秋は必死に、自分に言い聞かせる。だってこんなこと、この男の子には、あまりにも荷が重過ぎる。もうこのぐらいにして、「全部話して楽になったわ」と、笑って話を終わらせよう。これ以上、こんな辛い話を彼に聞かせるわけにはいかない。
 だけど、そう思ったときにはもう遅かったのかも知れない。
「どうして……なんだろう――」
 千秋は震える声で、話すつもりのなかった胸の内を、言葉にしていた。
「もっと早く、気付けばよかった。彼が合わない相手だって。出会ったときも付き合ってたときも、いつだって引き返すことができたのに……。彼と一緒にいるのは、あんなに辛かったのに、どうしてここまで来てしまったんだろう……。もっと早く彼と別れてたら、こんなことにはならなかったのに。智史だって――あそこまで壊れることはなかったかもしれないのに」
 少しずつ、自分でも何を言っているのかわからなくなってくる。
 長いこと抑えられていた悲しみが、一度に溢れ出しそうな思いにとらわれる。だって目の前にいるこの男の子が、彼女の痛みを自分の痛みのように感じてくれていることが、その真摯な表情でわかるから。
 彼女はどうにか笑おうとした。深刻な空気を、なんとか冗談交じりの言葉に紛らわせようと思って口を開いたが、冗談にはならなかった。
「ほんと、嫌になる。自業自得、なにもかも自分のせいってわけだわ」
 それが、精一杯のひとこと。
 それ以上、何も言えなかった。だって、言葉を終えたとたん、あっ……と思う間もなく、涙がこぼれ落ちるのを、千秋は自分でもどうにもできなかったのだから。
 あわてて下を向く、涙は止まらなくなり、彼女はそのまま顔を上げられなくなってしまった。
 
「千秋――」
 なんだかたまらない気持になり、陸は彼女の名前を呼んだ。
 泣き続ける彼女に、その声は届かない。もう一度、呼んでみる。だけどやっぱり、混乱の中にいる千秋に、陸の声は聞こえないみたいだった。
 痛々しさに、胸がつまる。何度でも何度でも呼びたい、そんな気持になった。独りで泣かなくてもいいんだってこと、知らせてあげたい。だけど声をかけるだけじゃ、だめみたいだ。震える背中に手を置く。そうすると、切ない痛みで胸はいっぱいになって……。
 もう、抱きしめるしかなかった。
 ぎこちなく手を伸ばして肩を抱く。その肩の細さ、そして、抱き寄せた感触の、あまりの軽さに陸は驚く。 いつも強気で、自分なんかよりずっと大人で、何があっても負けないやつなんだと思ってた。こんなに頼りない身体をしてたなんて、そして、その身体で、想像もつかないような重い荷物を背負い続けていたなんて。
 強く抱きしめることなんて、できない。壊れてしまいそうで。
 自分の胸の中にすっぽりと収まってしまう華奢な身体を、そっと包み込むように抱いて、彼はその背中を撫で続ける。胸の痛みは、そのままささやく言葉となって、唇からこぼれ出た。
「お前は何も間違ってない。きっと、大丈夫だから……。頼むから千秋、そんなに自分を、責めんな……って」
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