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泣きたいだけ泣いたら、少しは気持が落ち着いたのかもしれない。千秋はそのまま眠りに落ちてしまった。 彼女をソファに寝かせ。しんと静まり返った部屋で、陸は少しばかり途方に暮れる。無意識に、湿ったシャツに手を触れていた。そこにはまだ、切ないぬくもりが残っているような気がして。 どうしても、心が現実に戻ってこない。 あわてて頭をぶんぶんと振り、見慣れた部屋に視線をめぐらす。そう、そういえばあいつ、何も食べる気がしないって言ってた。今の彼には、なにか現実的な作業が必要だった。立ち上がってキッチンへ行き、いつものように冷蔵庫を開けて、中を引っ掻き回してみる。ポテトスープ…ぐらいなら、なんとか口に入れられるかもしれない。水だのお茶だの飲んでるより、ずっとマシだろう。 じゃがいもとタマネギの皮を剥き、細かく刻む。鍋に移して水を注ぎ、ブイヨンキューブをいくつか放り込んで、火にかける。そんなことをしていると、少しずつ、気持が落ち着いてきた。 スープが煮えるのを待つ間に、千秋の様子を見に行く。ソファからずり落ちたブランケットを直してやりながら、無防備な寝顔を見ていると、暖かい気持になってくる。母親みたいに彼女を気遣い、世話を焼いている自分がなんだかおかしい。だけど今は、本当にそうしたいのだ。不思議なことだけれど。 キッチンへ戻ろうとしたとき、「陸――」と自分を呼ぶ声が聞こえて、彼は振り返った。 ソファをのぞき込むと、千秋はまだ眠っている。気のせいかな。立ち上がろうとすると、眠ったままの彼女が、「陸――」と再び自分の名前を口にするのが、今度ははっきりと聞こえた。 陸は驚いて、その寝顔をじっと見つめる。 千秋は少し顔をしかめて身動きしながら、もう一度陸を呼んだ。彼はなんだか不思議な感動にとらわれながら、彼女の手を取り、握ってやる。そうすると、彼女はすぐに静かな表情になり、落ち着いて眠りに落ちた。 あ、スープを見に行かなきゃ。しばらくして陸はようやく我に返り、立ち上がった。キッチンに立って、スープをかき混ぜながらも、なんだかぼんやりしてしまう。 眠りの中で名前を呼ばれるなんて…。信じられない気持だった。無意識に名前を口にする…それって、千秋の心のどこかに、自分が居るってこと? まさか…でも、どうして? 不覚にも胸が熱くなった。なんだか胸がいっぱいになって、コンロの火を止める。いてもたってもいられなくなって、千秋のところへ戻る。 「なあ、千秋……」 深く眠るその寝顔に、語りかけた。 「俺はお前を、助けられる……よな?」 どうして、こんな気持になるのかは、わからないけれど……。 自分にはできる、確信に満ちて、そう思える。 青ざめた彼女の寝顔に、ようやく休む場所を見つけたような、安心しきった表情が浮かんでいるのが、なんだかやるせなく、切ない。陸は再び、千秋の手を取り、自分の両手で包み込んだ。 そうやって彼女を見守りながら、どれほどの時間が過ぎただろう。窓の外が薄暗くなるころ、千秋はようやく、ゆっくりと目を開いた。はっきり目が覚めて、陸に気づくと、彼女は驚いて起き上がった。 「ご……ごめん、ひょっとして、寝てた?」 ちょっとだけ寝ぐせのついた頭、その慌てぶりが、なんだかおかしい。すっかり気持が落ち着いていた陸は、笑ってうなずく。 「疲れてたんだろ? 千秋は……。ずっとずっと、ひとりで頑張って来たんだもんな。」 彼は言った。赤みのさした千秋の顔に、当惑の色が浮ぶ。ただ言葉もなく不思議そうに自分を見るその表情を彼はあろうことか、なんだか可愛いと思ってしまった。 そうなんだ…と思う。年上だとか、大人だとか、そんなこと、もう関係ない。きっと、彼女を助けることは、俺にしかできない。それは確かな事実のような気がして……。 考えるよりも先に、言葉がするりと口をついて出た。 「もう無理しなくていい。俺が、お前の子供の父親になってやる……いや、ならせて欲しいんだ」 陸が帰ったあと、キッチンに入った千秋は、コンロの上に彼の作ったスープを見つけた。 いつのまにかこんなものを作ってくれてたなんて……。千秋はなんとも言いようのない気持になって、お鍋のふたを手にしたまま、立ちつくしてしまう。 なにか食べなくては、と思いながらも、もうずっと何も口に入れられない日々が続いていた。さすがにスープを温めなおす気力はなく、冷たいままカップに注いで、口をつける。するとそれは、信じられないぐらい、すーっと喉を通ってゆき、千秋を久しぶりに生き返ったような気分にさせるのだった。 どんなに食欲のないときでも、愛情を込めてきちんと作られた料理というのは、しっかり口に入ってしまうものなんだなあと思い、彼女は切なくなる。 本当は陸がとても必要だった。こんなふうに彼女を思いやり、それを形にしてくれる人は他にいない。どうしてそれが、11歳も年下の高校生なんだろう。彼には未来があり、その未来を奪ってしまうわけにはいかない。千秋はなんだか悲しかった。 スープを一口飲むごとに、胸の中が暖かくなってくる。だけど、凍りついた心が溶けてゆけば、その分、痛みを感じる感覚も戻ってくるのだ。千秋は陸の優しさが、あのためらいのない真っ直ぐさが、今では本当に恨めしかった。 ぼんやりしてるうちに、電車を一駅乗り過ごしてしまった。あわてて降り、反対側のホームに回ってベンチに腰かけていると、身体がどこまでも沈みこんでいくような心地がする。人気のないホームは、悲しいほど静かだった。陸は、思った以上に落ち込んでしまっている自分に気付いた。 俺って、バカなのかなあ――。彼はため息をつく。進む道ですら定かでない高校生の自分が、千秋を助けてあげられるなんて、なんでそんなことを思ったんだろう。よく考えもせず、くだらないことを言ってしまった。そして、なぜかはわからないけれど、千秋を傷つけてしまった。 彼は、自分が「父親になる」と告げたときの、千秋のなんとも言いようのない表情を思い出した。いつものように「10年早い!!」と一喝されたほうが、気は楽だったかもしれない。あの後彼女の口から出た言葉は、陸の予想外のものだったから。 「たぶん、子供は生まないことになると思う」 何も答えられないでいる陸を見て、千秋は辛そうにうつむき、それからゆっくりと言葉を続けた。 「どう考えたって、育てていくのは無理だもの。それに、智史の子供なのよ。やっとの思いで別れたところなのに――。彼の子供を愛してあげられる自信なんて……ない」 一瞬、「嘘だ」と言葉を返しそうになった。どうしてそう思ったのか自分でもわからないのだけれど、本能的に……。だけど、すべての感情を押し隠したような千秋の瞳に出会い、陸は割り切れない気持のまま口を閉ざす。 「ごめん、心配かけちゃったわね。つまんないことに巻き込んで、悪いと思ってる」 千秋は言った。さっきまでの無防備さや頼りなさは、跡形もなく消え、彼女は今まで陸が何度となく向き合ってきた、とりつくしまのない大人の表情に戻っていた。そんな様子に傷つきながら、彼は首を横に振る。 「こっちこそ…。なんか、変なこと言ったみたいで――」 「そんなことないよ」千秋はただ短くそう答えた。その言葉は、なんだかまったくの気休めみたいに聞こえて、陸は再び傷ついてしまう。 結局俺は、子供だったんだよな。何台も電車を見送りながら、陸はいつまでもそんなことを考え続けていた。千秋の力になんて、なれるはずがない。そんなことにも気づかないほど、子供だった。 だけどあのときは、心の底からそう思えたんだった。千秋が眠りの底から「陸……」と自分の名前を呼んだとき、ほんとうに。 彼女を助けてあげられるのは、俺しかいない、って。 それが真実であることを、彼は知らない。 「そんなことないよ」 何気ないふうに答えながら、その言葉に真実がにじみ出そうになって、千秋はあわてて口を閉ざしたんだった。そんなことない――。本当に、陸の言ったあの言葉が、一瞬にしてどれほど千秋を揺り動かし、感動させ、幸せにし、そして同時に絶望させ、辛い気持にさせたか、彼は知る由もないだろう。 彼女が陸に言ったことは、ほとんどが嘘だった。子供を生まないことだって、きっぱりと決断したわけじゃない。頑張ればなんとかなるんじゃないかという気持と、やっぱり無理だという気持の中で、心は揺れまくっている。本当に彼の子供が疎ましく、すぐさま生まない決断ができたのであれば、こんなに苦しんだりはしない。 自分でも信じられないことだけれど、できることなら生みたかった。これから先、ひとりで生きていく決断をした彼女に、いつ、再びチャンスがめぐってくるか、わからないのだから。 だけど陸には、冷たいことを言うしかなかった。あそこまで言わなければ、陸をも、彼女自身をも、納得させることができなかっただろう。 どうしてあの子は、あんなに優しいのかなあ。そう心でつぶやくと、なんだか笑えてきてしまう。恋人になんてなり得ない、単なる「大親友」のくせに、どうしてあんなすごいことを、するっと言えちゃうんだろう。 「父親になる――」だなんて。 だからあの子は偉大なんだわ。千秋は思った。優しい…本当に神様みたいに優しい。相手が誰であっても、同じ状況で、彼は同じことを言うのかも知れない。そう思うと心が痛んだ。 あの時彼がどんなに本気だったか、拒絶されたことがどれほどのダメージだったか、千秋もまた、知るはずがない。 まして今この瞬間、彼が真夜中の駅のホームに座り込んだまま、立てないでいるなんて、彼女には想像もつかないことなのだった。 |
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