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「お前、今、すっげえ落ち込んでるだろ?」 学校の帰り道、陸の目を真っ直ぐに覗き込んで亮二は聞いた。その、ものおじのしない瞳、単刀直入な物言いに、陸は思わず苦笑する。 いつも以上にはしゃぎ、笑い、しゃべり、どうにか誰にも悟られずに一日を乗り切ったつもりでいた。この親友には、初めからバレバレだったのはしょうがないにしても……。 もう少しさりげない気の使いようってものが、あるんじゃないか? 「べつに……。なんも、落ち込んでねーよ」 気恥ずかしさも手伝って、陸はわざとぶっきらぼうに答えた。しかし相手は、そんな「心のヒダ」を理解するようなタマではない。 「どうしてそういう嘘つくかな? どう考えても朝からヘンだぞ。しかも今日は一度もメールするところ、見てねえし。なんか、あっただろ? 『彼女』と」 その、妙な鋭さとストレートさにはかなわない。陸はあっさりと降参し、反撃の言葉を探すのをやめた。ほんと言えばずっと誰かに話したかった……誰かに突っ込んで欲しかったのかもしれない。 絶対に誰にも言うなと前置きして、陸は言った。 「あいつ、妊娠したんだ」 他人ごとながら、予想もしなかった事実であったらしい。亮二はさすがに、表情を固まらせる。 「――って、お前、いつの間に?」 「俺じゃねえっての」 あまりにとんでもない大ボケに、いっぺんに頬が熱くなった。思わず言い返す声のトーンが上がる。 「俺なわけないだろうが。前のダンナだよ」 「って、でも、なんで?」 「詳しい事情は言えねえ」 陸はただ短くそう答える。だけど、その表情にうっすらと浮かんだ憤りの色を見て、亮二は大体の事情を察したらしかった。 「なんていうか…、その…、そりゃ、落ち込むよな」 ぽつんとつぶやいて、言葉をなくしたかのように黙り込む。 いつもは無遠慮な親友の、らしくないそんな反応に、陸は少しばかり救われたような気がした。 「で、彼女、どうするって?」 ふたり、黙ったまま駅へと歩き、改札を抜け、ホームのベンチに腰を下ろしながら、亮二はようやく気を取り直したように口を開き、たずねる。 「生まない…って」 真っ直ぐ前を向いたまま、陸は答えた。あのときの千秋の表情を思い出すと、いまだに激しく胸が痛む。それを悟られたくなくて、彼は亮二と視線を合わせることができないでいた。 「そっ…か」 その言葉を、どう受け止めればいいのか。少し迷った後、亮二は表情のないその横顔にたずねてみる。 「でも、それって、お前にとっては、その方がよかったんじゃねえの?」 こちらを向いた陸の顔に、複雑な表情が広がる。一瞬、まずった、かな? と思う。 陸はしばらく考えこむかのように黙っていたが、やがて、静かに俯いて、首を横に振った。 「あんまり、良くはないんだ。なんでだか知んねーけど俺、あいつに生んで欲しいと思ってる。生まなかったからといって多分、何もかも元の通りにはならないし、それに、あいつがほんとは生みたがってるの、なんとなくわかるから」 そうなのだ。それは、陸だって、考えないでもないことだった。あいつが、生まないって決心したなら、それでいいじゃないか。「智史の子供を愛してあげられる自信なんて、ない」、考えてみれば、当然過ぎるほど当然の気持なわけで……。なにも困難な道をわざわざ選ばなくたっていい。 それに…そうすれば、今度こそ何もかもなかったことにできる。何もかも元通り、今まで通り、千秋と付き合っていくことができる。それでいいんだ 何度も心に繰り返し、自分に言い聞かせた。だけど、心はいつも、「No」という答えを返すばかりだった。そうじゃない。生まないことで、千秋が幸せになれるとは、とうてい思えない。彼にはなぜだかわかってしまったんだった。千秋の声、表情、瞳の色から、冷たい言葉とはうらはらの、「生みたい」という気持が。 本当に、いつも、いやになるほどわかってしまう。 だからこそ、今の陸には、何をどうすることも、できない。 しょうがねえなあ…。心の中に広がる微笑と共に、亮二は思った。まったく、愛だよな、愛。自分なら、好きな相手がそういう選択をしたことで、むしろほっとするかもしれない。陸は逆に苦しんでる。強すぎる思いは、時として、必要以上に事態を深刻にしてしまうものなんだろうか。 こいつはいったい、どこまで自覚しているんだろう。彼は、わざと茶化すように、聞いてみた。 「じゃあ、どうしたいんだよ、お前は。父親にでもなるつもりか?」 「言ったよ。父親になるって」 こともなげに答を返され、さすがに亮二は驚いてしまう。 「マジ? うそだろ?」 「うそじゃねえよ。あっさり、却下されたけど」 陸は少し怒ったように言った。あんなことを言ってしまった自分の浅はかさを思うと、今でもいたたまれないような気持になるから。 「ほんと、アホだよな、俺。なんであんなこと言っちまったのか、自分でも、わかんねえ」 「わかんねえ、ってことはないだろ?」 亮二は苦笑して言った。 「『好きだから』に、決まってんだろーが。だいたいふつう、父親になるのなんのって話の前に、それを言わなきゃなんないんじゃねーのか?」 陸は、言葉をなくして亮二を見つめた。人間って、あんまり驚くと、表情がなくなってしまうものなのかもしれない。騒がしいアナウンスと共に、電車がホームに入ってきて、にわかに周りで人が動き始める。「おい」と、即そうとしたが、亮二はあきらめた。今のこいつじゃ、立ち上がることだって無理だろう。 遠ざかる電車を、いさぎよく見送って、彼は言葉を続けた。 「もう、いいかげん認めろ。『好き』なんてもんじゃねえよな。めちゃくちゃ惚れてんだろ?」 千秋を抱きしめたときのことを、陸は思い出す。あのとき、やけつくような熱さを、胸のどこかで感じていた。 壊れそうに華奢な身体を包み込むように抱いて、泣く場所を作ってやりながらも、壊れるほどに、痛いほどに強く抱きしめたい気持と、必死で戦っていた。 その熱さを、切ない胸の痛みを、恋だっていうんなら、もう、認めるしかないのかもしれない。 陸は、呆然とした表情のまま、それでもはっきりと、うなずいた。 認めてしまえば、ほんの少し、心が軽く、暖かくなる。 だからといって、やっぱり何をどうすることもできないのは、辛いところだったけれど。 短い冬の日が、あっという間に暮れて行こうとしている。 公園のベンチに座り、走り回る子供をぼんやりと見ながら、もう帰らなくてはと千秋は思った。さっきまでは、1月にしては珍しく、上着を脱いでも座っていられるほどの陽気だったのに。 帰るのは嫌だと駄々をこねる子供の扱いがわからず、つい、長居をしてしまったけれど、風邪でもひかせてしまったら大変だわ。保育園を休ませることにでもなれば、協力しているつもりが、逆に親友に迷惑をかけることになりかねない。 「天馬くん――」 千秋は立ち上がり、子供の名前を呼ぶ。このところちょっとした動作のたびに感じる目まいや吐き気が、不思議なほど軽くなっていることに気づいた。ついでに、気持も……。 あの日から、一度も会ってない陸のこと。ぎりぎりの決断を迫られる時期に来ていながら、いまだに心を決めかねている、お腹の子供のこと。将来のこと、仕事のこと。それまで彼女を悩ませ、押しつぶしていたあらゆることが、今日1日、くるくる変わる子供の表情や行動を必死になって追いかけているうちに、いつのまにやら遠のいていた。きっと、なんとかなる。そんな気持になれたのは、本当に久しぶりのような気がする。 子供って、ひょっとすると偉大なものなのかもしれない。まさかそれを見越して、沙希が自分に息子を託したわけではないのだろうけれど。 「ごめん、遅くなって。面倒かけたわね」 ドアの向こうに立つ沙希の疲れた表情に、胸の痛みを覚えながら、千秋は笑って首を横に振る。 「ううん、ぜんぜん手のかからない子だったもの。今寝てるから、ゆっくりしていったら?」 沙希はうなずいて靴を脱ぐ。そして千秋にコートを手渡しながら、少し笑って言った。 「考えてみれば、千秋の部屋に来るなんて、ほんと、久しぶりよね」 本当にそうだ。学生の頃は、毎日のように行き来する間柄だったのに。なんだか昔に戻ったようで、うれしくなった。彼女の息子を預かることにして、本当に良かったと思った。 沙希の母親が入院したのは、半月ほど前のことだ。夫の無理解と非協力の中、親に助けられながらどうにか仕事を続けてきた沙希は、以来、窮地に陥ることになった。 子育てと仕事に、病院通いと父親の世話も加わって、以前よりいっそう忙しくなった彼女の疲れた様子に、ずっと胸を痛めていた千秋だった。いつも世話になりっぱなしの自分が、何もできないことが辛くもあった。 だから、母親の手術に立ち会うために子供を一日預かってほしいという彼女の頼みを、自信はないながらも快く引き受けたのだけれど。 「びっくりしたでしょ? 急に子供をみて欲しいなんて言われて」 沙希に聞かれ、首を横に振りながらも千秋は正直に答える。 「でも、意外だった。沙希なら頼りになる『ママ友』がたくさんいるって思ってたから」 「千秋に預かって欲しかったのよ」 沙希は言った。その率直な言葉をうれしいと思いつつ、真意を量りかねて、千秋は親友の顔をじっと見る。 だけど彼女は、それ以上何も言わず、部屋を見渡した。整然と片付いたテーブルの上、CDがぎっしりつまったシェルフ、部屋の一角を占領しているキーボード。そして、その視線が、自分の持っている、ハーブティーの入った無骨な感じのする黒い焼き物のマグカップに落ちたとき、彼女の口元に笑みが浮かんだ。 「ほんと、変わんないわね。千秋の趣味って。学生のときと同じ部屋にいるみたい」 「それって、進歩がないってこと?」 千秋は笑いながら訊ねる。 「千秋はまったく、本当に千秋だってことよ。なんだかほっとするわ。ここにいると」 「陸も、同じこと言ってた」 思わず、といった風にぽろりと口にした千秋の横顔に、ほんの少し、どこかが痛むような表情が浮かんだのを、沙希は見逃さなかった。彼女は親友の目を、探るように見て、聞いた。 「ねえ、これからどうするつもりなの?」 「え?」と、千秋が虚を突かれた顔をする。そんな彼女を真っ直ぐに見、いつになく真剣な表情で、沙希は言葉を重ねた。 「話があるの……って言っても、これは、千秋しだい、ってことなんだけど」 |
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