L.N.S.B [ Story - 32]
 沙希が、離婚する決意を固めていることを、千秋はこのとき、初めて知った。
 彼女の夫が、突然仕事を辞め、田舎に帰ると言い出したのだ。
 いくつになっても青い鳥を追いかけているというのか、決して長いとはいえない結婚生活の間に何度も仕事を変えている夫のそうした無責任さには、慣れていたはずの彼女だったけれど、さすがに「お前も仕事を辞めてついて来い」という彼の言葉にだけは、首を縦に振るわけにはいかなかった。
 何度かの言い争いの末、業を煮やした夫は先に田舎に帰ってしまい。すでに実質的な別居状態に入っていること、それでも子供の親権などをめぐって、弁護士を間にした、うんざりするような争いが、双方の実家がらみで続いていることなどを、沙希は少しばかり憤りの込められた早口で、手短に話した。
「ほんと、信じられない。今まで私や子供のために何もしてこなかったくせに、私が簡単に仕事を辞めてついていくと思ってるのかしら。慣れない場所で、向こうの家族や親戚に囲まれてゼロからやり直しなんて、冗談じゃない。あんな男に、それほどの価値なんてないわ。子供のことも、私の母親のことも、ちっとも考えてないし。もう、いいかげん愛想が尽きたってわけよ」
 さばさばした口調に胸が痛む。「あんな男、居ても居なくても同じ」と割り切って、強く生きていた沙希だったのに。よりによって、どうしてこれほど大変な時期に、こんな争いごとが起こってしまうのか。離婚という事実よりも、ここへいたるまでの、そしてこれからしばらく続くであろう様々な苦労を思うと、千秋は自分のことのように辛かった。
「彼は、天馬くんは、大丈夫なの?」
 千秋は傍らのソファで眠る沙希の息子を見やりながら、たずねた。沙希は笑って答える。
「常識的に考えて、向こうに取られるなんて絶対にありえないでしょうね。ダンナは今までほとんど子供の世話なんてしてこなかったし、しかも今は無職。天馬は100%、私が育てたようなものだし、こっちは仕事だって持ってる。まあ、きちんと決着が着くまで向こうがどれだけごねてくれるか、考えただけで、嫌になるけど――。どっちにしろ、シングルマザーになれるのは時間の問題、ってわけよ」
 ひとりで子供を育て、母親の看病をし、仕事も続けながら、離婚の後始末もしなくてはならない。いかに沙希といえども、そう簡単に乗り越えられることではないだろう。気丈な笑顔を見せる親友に、自分の無力を感じながら、それでも「何か私にできることがあったら……」と言おうとしたとき――。
「で、千秋、あんたに相談なのよ」
 改まった風にそう言われ、沙希の最初の言葉をすっかり忘れていた自分に、気が付いた。
「あんたは、子供を生みたいんでしょう?」
 重ねて唐突にそう聞かれ、一瞬、返事を躊躇する。沙希の離婚の話をしていたはずなのに、なぜ、そうなるのか。少し考え、親友の言わんとしていることに、かすかに思い当たる。まさか、まさかとは思うけど……。正直な気持を答える他なく、千秋はうなずく。
「前のダンナの子供。しかも、愛し合ってできたわけじゃない。それでも生みたいのよね?」
 試すように聞かれ、千秋は今度は、はっきりと、うなずいた。
「子供は……、子供だもの」
 千秋は、ただ短くそう答えた。だけどその言葉には、彼女のこれまでの迷いや苦しみが、万感の思いが、込められていた。そのことを沙希は悟ったのだろう。彼女はにっこり笑って言った。
「私と、いっしょにやっていかない? いっしょに暮らして、協力し合って子供を育てるの。千秋とだったら、きっと上手く行く。言ってみれば、これは私からのプロポーズってわけよ」


 あれからふわふわと現実感のないままに、陸の日々は過ぎた。形だけの自校推薦も、いつの間にか終わり、さして感動のないまま、数日前に合格通知を受け取った。
いつもと同じように振舞っているつもりでも、傍目にはどうやら腑抜けて見えるらしい。「学年末、大丈夫か? 大学には入れたけど高校卒業できなかったなんて、しゃれにならないから気を抜くな」なんて、先生にまで説教されてしまった。そんなこんなでどうにかリキを入れた学年末テストも今日で終わり。1時限しかないテストを終えて、昼前に家に帰る。
 玄関の鍵を開けようとしたとき、ポケットの携帯がメールの着信を告げた。
 ある予感に急かされ、玄関先に突っ立ったまま、震える手で携帯を開く。相手の名前を見て、どきりとした。慌しく中身を開け、そこに書かれた短い言葉を見て、陸は自分の感情がどういった種類のものなのか、もはやわからなくなった。うれしいのか、悲しいのか。ともかくほっとしたことは確かで…。
 ― 子供は生むことにしました。沙希といっしょにやっていくことになったの―
 携帯の画面には、ただ、そう、書かれてあった。
 全身の力が抜ける。冷たい玄関のドアに額をつけたまま、陸はしばらく動けずにいたが、やがて、ただ「よかった…」とだけ返事を書いて送信キーを押した。


 午後の仕事が始まる直前、5分ほど迷った後、沙希は陸の携帯番号を呼び出した。会社の前で待っていた陸に千秋の事情を話したあの日、彼女に何かあったときのためにと、彼は律儀に連絡先のメモを残していったのだ。
 何が起こったとしても、千秋本人が自分にそれを知らせて寄越すなど、決してないだろうことを、、あの男の子は悟っていたのかもしれない。その健気さを不憫にすら思いながら、万一のことがあったら、必ずすぐに連絡すると約束して別れてきたのだけれど。
 そうした経緯が経緯だけに、陸は緊張ぎみの声で沙希からの電話に出た。あわてて、千秋の身体に何かあったわけではないことを告げると、ほっとしたような沈黙が一瞬、降りる。
「千秋から聞いたでしょ? これからのこと」
「メールで、簡単にだけど……。沙希さんとやっていくことにしたんだって?」
「そう、それで、私からもきちんと話した方がいいかと思って。夕方、時間ある?」
 おそらく千秋はメールで詳しいことは何ひとつ、説明していなかったのだろう。さほど躊躇することなく、陸は、沙希が伝えた時間と待ち合わせ場所に、行くと答えた。事務的に話を済ませて電話を切ろうとすると、
「沙希さん」
 と呼ばれる。
「俺、ほんとにほっとしてる。ありがとう」
 一瞬、胸のどこかがちくりと痛んで、沙希はあわてて彼に別れを告げた。

 前に話したときと同じカフェに座って待つ陸の姿を見たとき、やっぱりきちんと会って話すことにしてよかったと、沙希は思った。
ドアを開けて入ってきた沙希の姿を、すぐに認め、彼はにっこりと笑った。以前と同じ、力のある笑顔。だけどそれは、ずっと前に会った時のような、無防備に身体の内側から溢れ出す力じゃないことに、彼女は気づいていた。
 痛みを知り、その痛みをどうにか知られないようにやり過ごそうとしている……そんな表情。それは本来、彼のような年齢の男の子にとっては、無縁の努力であるはずなのだけれど。
 彼にその痛みを与えたのは、彼から千秋を奪ったのは、自分なのかも知れない、そんな思いが心から離れない。だから、であるにちがいないのだ。今自分がここにいるのは……。とはいえ、何から話してよいのかわからないまま、沙希は陸の向かい側の席に座る。そんな彼女の胸の内を知ってか知らずか、陸はさりげない風に話を切り出した。
「あいつ、どうしてる?」
「今週から、仕事に出てる。今日は検査で午後から帰ったけど」
「検査?」
 そう問い返した眉が、心配そうに微かにひそめられる。沙希は苦笑して答えた。
「定期検診よ。いたって順調、何も心配なしって、さっきメールが来た」
「そっか……」
「つわりも治って、もう、ばりばり働いてる。子供生んだらしばらく仕事できないからって。いざとなったら、めちゃくちゃ強いのよ。あの子は」
「知ってる」 陸はそう答えて、笑った。
 沈黙が降り、沙希は一瞬、途方に暮れる。陸は以前のように、あたりさわりのない学校のことなどを無邪気に話したりしなくなっていた。さしてよく知らない第三者に対しても、そうした人なつこさを楽々と発揮できる男の子であったはずなのに。
 何かが違う。戸惑いの中、運ばれてきたカプチーノに口をつけ、ともかく話さねばと、沙希は千秋と一緒に暮らすことになったいきさつについて話し出した。
 自分自身の離婚のこと、親の病気のこと、千秋の「生みたい」という気持を、どうしても見過ごせなかったこと。相槌を打ちながら静かに話を聞く陸が、ときおり無理にといった感じに浮かべる笑顔を見るたび、やはり胸のどこかが刺すように痛んだ。
 痛むのは良心だってこと、沙希はとっくの昔に気づいている。
 千秋のためなんかじゃなかったんだと思う、いっしょに子供を育てて行こうと申し出たこと。離婚しても、独りにはなりたくなかった。家族が欲しかった。そして、その家族はなぜか、千秋でなくてはならなかったのだ。
 それがどういう種類の愛情なのか、自分でもよくわからないのだけれど。
 ともかく、今の彼女には、他の誰でもない、千秋が必要だった。
 自分は千秋にとって、良いことをしたのか、いまだにわからないでいる。現実を考えれば、これ以上の方法はなかったに違いないのだけれど。だからこそ、逆に逃げ道のない場所へ、彼女を囲い込んでしまったような、そんな気もしてる。
 本当は子供なんて、生むべきじゃないのかもしれない。そうすればふたりは、今まで通りでいられるのだから。あるいは陸が言った通り、彼が「父親」になるべきなのか。困難なことだけれど、高校を出てすぐに父親になる男の子だって、いないわけじゃない。
 ふたりの真剣な思いを垣間見るたび、心はどうしようもなく揺れた。
 だからかもしれない。深く考えもせず、話の最後にこんな言葉を口にしてしまったのは。
「悪かったわね。あんたの千秋を取っちゃって」
 陸は虚を突かれたように、沙希を見た。その顔がわずかに赤く染まった。
 言葉を探す、長い沈黙の後、彼はかすかに苦笑を浮かべて口を開く。
「なんで……、わかったんだよ」
 なんでも何も、とっくの昔に沙希にはわかっていた。もう何年も、親友として、千秋を見守りつづけてきた彼女だったのだから。第三者であるからこそ、彼女の周りにあるものは、何でも見えてしまう。それが本物であるのかどうかってことまで。
 意外だったのは、陸が素直にその気持を認めたこと。千秋はといえば、自分の気持をわかっていながら、決してそれを認めようとしない頑なさがあったのだけれど、この男の子は、本当にずっと気づいていなかったんだわ。
 だけど今は気づいてる。自分が、どうしようもなく千秋を好きだってこと。どうして今になって? やるせなさを感じて言葉をなくす沙希に、だけど陸は穏やかに言葉を続けた。
「でも、沙希さんが謝ることじゃないよ。俺だって、わかってるから。沙希さんといっしょにやってくのが、あいつにとって、一番いいんだってことぐらい。電話でも言ったけど、本当に良かったって、思ってる。嘘じゃない。沙希さんにはマジでめちゃくちゃ感謝してるんだ――。でも……」
 一瞬、言葉が途切れる。沙希に真っ直ぐ向けられていた視線が、下に落ちた。戸惑いの混じった沈黙の後、自分でも何を言っていいのかわからない、といった風に笑って、陸はつぶやく。
「なあ、沙希さん。俺、どうしたらいい?」
 答なんて求めていない、だけど聞かずにはいられない。そんな感じの言葉だった。だけど沙希は答を知ってる。
 そのままでいればいい。それだけで、この男の子は、千秋を揺り動かす力を持っているのだから。そう言ってあげたかった。
 だけどこればかりは言えない。陸の将来を考え、千秋が必死に決断したこと、身を切られるような思いで、彼の手を振り解いたことを、無駄にするわけにはいかないのだから。
 少し考え、沙希は口を開く。こう答えるしかなかった。
「大人に、なるしかないわ」
 陸の表情が変わった。その言葉は意外にも、彼の心の深い場所に届いたようだった。
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