L.N.S.B [ Story - 33]
 千秋がしばらく休んでいたライヴを再開させることを、陸は家に遊びに来ていた叔父から聞いた。「知らなかったのか?」と、意外そうに聞かれ、少しばかり落ち着かない気持になる。
 千秋からは、最近、一度だけメールが来た。引越しをすませ、沙希といっしょに暮らし始めたという報告と、新しい住所。「いつでも遊びに来て欲しい」と書かれてあったけれど、だからと言ってのこのこ出かけて行けるほど図々しくなれるはずもない。考えてみれば、もうずい分長いこと会ってないんだ。
 ただ自分の無力さだけを思い知らされたような気持で千秋の部屋を出た、あの日のことを思い出す。あの時の彼女の、どこか傷ついたような表情も。
 このままで終わらせてしまうわけには行かない。それはわかっていたのだけれど。
「もうすっかり顔色も良くなって、元気だったぞ。生まれてしまえば、またいつ歌えるようになるかわからないから、ぎりぎりまでライヴは続けるってさ。頼もしいっていうか、なんていうか……」
 島崎は相変わらずうれしさを隠せないといった顔で、そう語った。まったく、この叔父にかかると、自分や千秋を取り巻く苦境が、どうってことないもののように思えてくる。
 そこまでしゃべって、ようやく甥の複雑な表情に気づいたらしい。島崎は少し言葉を切って、陸を見た。そして何かを納得したのか、やれやれといった風に小さくため息をつく。
「そう言えば最近、フヌケになってるって、姉さんが言ってたな。椎葉さんの顔でも見れば、元気になるんじゃねーか? ほれ、チケットやるよ」
 とチケットを差し出され、陸は一瞬、激しく迷う。だけどすぐに決心はついた。「よけーなお世話だよ」と口の中でつぶやきながらも、チケットを受け取る。
 その決心が、自分の人生を大きく切り拓くことになるとは、まだ思いもしない陸だった。


 店に着いたとき、すでにステージは始まっていた。目立たないように小さくなって、陸はどうにか空いていた隅の席に座る。
『I need to be in love』……陸も何度か耳にしたことのある、カーペンターズの曲を、千秋は歌っていた。 スポットライトに浮かび上がるその横顔を、陸はまぶしいような思いで見つめる。そしてその瞬間から、他のものは何も見えなくなった。
 叔父の言った通りだ。すっかり顔色が良くなった。痛々しいほど痩せていた頬にも、少なくとも以前と同じぐらいには、ふっくらとした感じが戻り、会場の熱気のせいか、ほんの少し、赤く上気している。いつもステージで見せるのと同じ、凛と張りつめた表情。吹っ切れたんだな、と思う。
 まずは言いようのない安堵を感じる。だけどそれはいつものこと。今日の胸の内は、それだけではすまなかった。
 うつむいた横顔にさらさらと落ちかかる、長い髪が落とす影の深さに、どきりとした。軽く伏せられた瞼が作り出す陰影に、胸が震えた。抱きしめた華奢な身体の感触を思い出し、我知らず顔が熱くなった。
 どうしよう、と思う。いったい、どうしてしまったんだろう。千秋のステージは何度も見ているはずなのに、こんな気持になるのは初めてのことで……。だけど、心のどこかではわかってもいたのだ。これが、とっくに馴染みのある感情だってこと。
 そんな調子で、どのぐらいの時間、魂を抜かれたような心持で過ごしたのかわからない。気が付けばライブが終わり、バーに変わった店の中は明るい光に満たされていた。なんだかぼんやりとしてしまって、すぐに席を立つ気にはなれない。すっかりぬるくなった飲み物を前に物思いにふけっていると、不意に、
「陸……」
 と声をかけられる。
 懐かしい声に、顔を上げると、目の前には、ひどく驚いた表情の千秋が立っていた。
「よ……よう――」
 心の準備もへったくれもなく、ただ熱いものが胸をいっぱいに満たしてゆく感覚をどうにもできないまま、陸はぎこちなく言葉を返した。
「来てないと、思ってた……。だって、こんなすみっこにいるんだもの」
 呆然と陸を見つめたまま千秋は言った。
 本当はここへ来たときから、彼女はずっとその姿を探していたのだ。ステージが始まる前の雑踏の中にも、いつも座っているはずの正面の席にも彼を見つけられなかったとき、どうしようもなくブルーになってゆく心をなだめるのに、どれほど苦労したことか。
 もう、会えないのかも知れない。そんな不安が追い払っても追い払っても心にまとわりついて離れず、歌っている間もいつものように完全に心を無にすることはできなかった。
 だから、ステージが終わり、客席に出て来てからも、千秋は往生際悪く陸を探さずにはいられなかったのだ。常連の客たちと言葉を交わしながら、ときおり不安げに視線を巡らせる彼女に気づき、島崎は苦笑しつつ皆を連れて退散してくれた。
「チケットを渡したから、来てるはずなんですけれどね」
 誰のこととも言わずそんな風に教えられ、思わず顔が赤くなった。来てるはず……ないわ。そう自分に言い聞かせながら、帰るつもりで出口に向かって歩き始めたとき、
 隅の方の席に、求める姿を見つけたのだった。
 思わず、ためらうことも忘れて声をかけてしまい、だけど千秋はそのまま立ちすくんでしまった。だって、千秋の声に気づいて夢からさめたようにこちらを見た陸は、今まで見たことがないほど、大人びた顔をしていたのだから。一瞬、心臓が壊れそうにどきりとした。
 陸はまだ夢半ばにいるかのような表情で千秋を見つめて「ああ……」と答え、またしても彼女をドキドキさせる。
「ちょっと遅くなって、ステージが始まってから来たんだ。席がここしか空いてなかった」
 そして、ようやく…といった風に少し笑顔を見せて、言った。
「座ったら?」
 言われるままに、前の席に腰を降ろす。そして、まっすぐに彼と向かい合ったとき、泣き出したいような気持が、あらためて彼女の胸をいっぱいにした。
 不安に押しつぶされそうになりながら過ごした数ヶ月。その長い長い日々に、ようやく今、区切りがついた、そんな気がして。
「よかった…」
 千秋は思わず、胸に浮かんだ言葉をぽろっと口にしていた。
「ずっと、心配してたの。会えて、本当に…よかった――」

 心底安心したようなその笑顔に、陸は胸を突かれた。参ったな、と思う。そんな顔をされたら、とても冷静ではいられない。
 「よかった……」その千秋のたったひとことで、今までひとりきりで悩んだり、苦しんだり、落ち込んだりした日々すべてが、一瞬にして報われたような気がした。やっぱり、本当に好きなんだ、陸はあらためて思う。誰かを好きだと自覚して向かい合えば、こんなにも胸は苦しくなるんだ。
 だけど……それは、今となっては許されない感情なのだということも、わかっている。
 上手くやらなくちゃ。少し冷静さを取り戻し、陸は自分に言い聞かせる。苦しいようなこの気持を、決して悟られないように。だって、彼女は一度、はっきりと自分を拒絶したのだから。
 千秋が必要としているのは、自分じゃない。こんな風に思いを向けられることなんか、彼女は望んでいない。
 慣れなくてはいけないのだ。胸のどこかに焼け付くような熱さを隠し持ったまま、以前と同じ顔で彼女と向き合うことに。
 だけど実際にそうしてみると、それはそう難しいことじゃなかった。そんなことは今まで何度も習慣のように繰り返してきたことのようにも思えるのだった。
 そこからはどうにか、いつもの調子に戻ることができたかも知れない。
 注文を取りに来たウェイターに、千秋はペリエを頼んだ。こんなところでソフトドリンクを注文する千秋なんて想像もつかなかったので、陸が大げさに驚いて見せると、少し赤くなって、身体が受け付けなくなったのだと答えた。
「本当に、身体って良く出来てるものよね。もう、ビールなんて見るのも嫌って感じなの」
 そうして千秋は少しだけ、沙希との新しい生活と、順調に育っているお腹の中の子供について話した。そんな話を穏やかに聞き、ともすればうれしいとすら感じている自分が、陸はなんだか不思議だった。
 空気が少し変わったのは、千秋が陸の進学のことを話題にしたときだろうか。
「そう、今さらって感じだけど、島崎さんに聞いたわ。大学、無事に合格したんだって? おめでとう」
「あ、ああ…」
 突然話をふられ、少しとまどいながら、陸は答えた。
「合格したっていうか、なんていうか…あんまし実感ないけど…」
 正直、今の彼には、あまり触れて欲しくない話題だった。さりげなく話を流そうとしたが、複雑な目の色は隠せなかったのだろう。千秋が少し訝しげな顔をする。
「あまり、うれしくないの?」
 探るような瞳でそう聞かれる。いつにない彼女の読みの鋭さに少し驚きながら、陸は思わずうなずいていた。
「ちょっと、いろいろ考えてて……もしかしたら俺、大学行かないかも知れない」
 そうするりと答えてしまい、千秋の瞳に驚きの色が浮かぶのを見て、しまった…と思う。こんなこと、今話すつもりじゃ、なかったんだけど。
 だけどそれはいつの間にか、自分ひとりの心の中にはしまっておけないほど大きいものになっていたのかも知れない。このままじゃだめだ、何とかしなくてはならない……このところ、何度となく陸を居ても立ってもいられない気持にさせる、そんな焦り…。
 ―大人に、なるしかないわ―
 いつか沙希が言った言葉は、陸自身も気づかないうちに、彼の心の深いところに入り込み、取り付いていたのだった。自慢じゃないけど、今まで、自分の人生に疑問を感じたことなんて、一度もない。「のんびり屋のあんたに競争なんか絶対無理」と親に言われ、入りさえすればそこそこの大学まで自動的に進める私立の小学校に放り込まれて以来、ただただ前に押し出されるだけの人生の節目を、そういうものだと受け止めてきた。
 天性のものとしか思えない、強固な楽観主義、人はそれを「能天気」と呼んだりもするけれど。
 だけどそれが彼の強みだったのだ。焦ることはない、普通に、マイペースに歩き続けていれば、いつかは何かに出会えるはず、そう思っていた。今の自分では千秋の力になれないと気づいたあの夜までは。
 「普通」じゃだめだ。マイペースでは遅すぎる。早く、誰よりも早く大人にならなくてはいけない。だけど、何を目指して走ればいいのか、わからない。ガラにもなく、そんな焦りにどうしようもなくとりつかれるようになったのは、千秋、お前のせいなんだけど……。
 たぶん、こいつは何も気づいていないんだろうな。目の前にある、ただただ不思議そうな色を浮かべるだけの瞳を見て、陸は安堵とも落胆ともつかない気持に襲われる。でも、それでいいんだ、とも思う。今、自分の胸の内にあるものを、彼女に悟らせるわけにはいかないのだから。
「どうしたの? なんだか静かになっちゃって。何か悩んでるんなら、お姉さんが話を聞くわよ」
 我知らず黙り込んでしまった陸に、千秋がからかうように声をかける。
「いいっての。こんなとこで千秋に人生相談なんて、冗談じゃねーよ」
 思わず苦笑して、陸は答えた。しかし、少し思い直して言葉を繋ぐ。
「でも、どっちかっつーとお前の話は聞きたいかも。なあ千秋、お前が今の仕事をするようになったきっかけって、何?」
 深く考えることなくそうたずねたのは、旅行代理店での仕事のことを話す彼女の瞳が、いつもいきいきと輝いていたのを思い出したから。でも、何気なく口にしたその問いが、何よりも重要な質問だったのだということに、彼はすぐに気づいた。
 千秋ならきっと、答をくれる。そんな確信にも似た思いにとらわれ、陸は真っ直ぐに彼女を見つめ、言葉を待つ。
 唐突な問いに、千秋は一瞬、戸惑ったような顔をしたが、そんな彼の表情の中に、何か真剣なものを感じ取ったのだろう。もう、いつものように茶化したり軽くかわしたりすることはしなかった。

「やっぱり、『旅行』かな。大学のとき、半年ほどヨーロッパをひとりで旅したことがあるの。それが、きっかけ」
 千秋は答えた。考えて見れば、自分自身のこれまでのことをこの男の子に話すなんて初めてのことで、気恥ずかしさに自然と神妙な顔つきになってしまう。よりによって、陸を相手に「人生を語るお姉さん」の役割を演じることになってしまうなんて……。
 だけど彼女にはわかるんだった。陸がいつになく悩んでいること、真剣に、自分の将来に何かを求めていること。いつものように、何も言われなくても、わかってしまう。だから彼女も、何かを伝えないわけにはいかない。
 陸の将来、それは今の彼女にとって、何を犠牲にしてでも大切にしたいものであったはずだから。
 まっすぐに伸びた背筋、ただ椅子に腰掛けているだけで、のびやかに見えるそのたたずまい。真剣な表情をしていても決して消せない、いたずらっ子のような瞳の輝き、唇の端がきゅっと上がった、いつも笑っているような口元。もうすっかり見慣れたはずのそうしたものたちを、やはり眩しい思いで見つめながら、千秋は再び口を開いた。
 ふと、自分は今度こそ、この男の子を失うことになるのかもしれないと思い、強烈に寂しくなる。
 そんな気持を、決して外に出すことはしなかったけれど。
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