L.N.S.B [ Story - 34]
「何が原因だったんだろう。今となってはみんな忘れちゃったんだけど、もう何もかも放り出したくなるぐらい、嫌なことがあったの。それで……」
 千秋は衝動的にオープンチケットを買って日本を飛び出したのだった。大学2年の夏休みのことだ。
 そうして、1ヶ月ほどで帰ってくるつもりが、行ってみたい場所がどんどん増え、結局有り金を使い果たすまで、貧乏旅行を続けてしまった。
 イギリス、フランス、ドイツ、スイス、ギリシャ、トルコ、スペイン、ポルトガル。北アフリカにまで足を伸ばしてチュニジア、アルジェリア、モロッコに到ったその旅は、その後の彼女の人生の出発点となった。そんなことを千秋は、淡々と語った。
 広い世界とどこかでつながってさえいれば、自分の人生、何が起こっても負けないでいられる。実際に旅をしていてもしていなくても、その思いは、それからの彼女の支えとなった。だから、つながっていられる仕事がしたくて、大学へ通いながら、夜は旅行関係の専門学校に行くようになった。沙希と出会ったのもその場所でのことだった。
 歌もそうだけれど、仕事もそう。一度何かに取り付かれると、夢中にならずにいられない。そんな風にして今の千秋がここにいるわけで……。
「だけど本当は、すごくなりたいものが、もうひとつあったの。私には向いてないってことがすぐにわかったから、あっさりあきらめちゃったけど」
 すべてを吸収するかのように、興味深げに耳を傾けてくれる陸の態度につられ、彼を相手に「人生」を語る気恥ずかしさもすっかり忘れた千秋は、我知らず熱っぽい口調になっていた。彼女はカバンの中から、古びた一冊の文庫本を出し、テーブルの上に置く。
 モノクロの写真の中からこちらを見つめてくる、黒人らしい男の子の強い目の光につられ、陸はその本を手に取った。何気なくめくったとたん、破れたカバーの折り返しの部分がはらりと落ちて、慌てる。
「気にしなくていいわよ」
 千秋は笑って言った。
「もう、2回ほど買い換えてる。すぐにぼろぼろになっちゃうもの」
「いつも、持ち歩いてんの? これ」
 陸は驚いて聞く。
「いつも、持ち歩いてる。読むこともあるし、読まないこともあるけど。まあ、お守りみたいなものね」
 カバーをかければこんなにぼろぼろになることもないだろうに。でも、この表紙の写真の持つパワーが、「お守り」みたいなものなのだろうと、陸は悟った。写真のことを何も知らない彼にも、これがすごい写真だってことはわかったから。
「お前ってやっぱ、ヘンなやつ」
 半ば呆然としながら、陸はぼそっと言った。そんな反応は予期していたと言いたげに肩をすくめ、千秋は話を続ける。
「2度目に行った外国は、ニューヨークだったの。この本を読んで、どうしても行きたくなったから。彼女のように、見たこと、聞いたこと、感じたことの新鮮な驚きを、写真や文章にして、それが仕事になったらどんなにいいだろうって、思ったの。でも、私には無理。人の心に入り込む能力がないと、こんな仕事は絶対に無理ね。とらわれない感性を持っていて、どこへ行っても物怖じがなくて、どんな人の心にもするりと入り込んで共感できる、そんな才能がないと……」
 そう言いかけた千秋の言葉が、ふと、途切れた。彼女の話を聞きながら、ぱらぱらと本をめくっていた陸の手も止まる。
「ひょっとして、陸になら向いてるのかも。よかったらあげるわ、その本。そろそろ新しいのを買おうと思ってたところだったから」
 陸になら、向いている……おそらくは軽い気持で口にしたのであろうその言葉が、彼の心に波紋を呼び起こした。彼はあらためてページを閉じ、表紙をまじまじと見る。

 吉田ルイ子 『ハーレムの熱い日々』

 この名前と、さっき千秋が口にした言葉は、このとき消えない暗示となって、密かに彼の胸に取り付いたのだった。



「上がっていけばいいのに、沙希も会いたがってるわよ」
 マンションのエントランスまで千秋を送って来て、そのまま帰ろうとする陸を、彼女は心底残念そうに引き止めてくれた。だけど陸は首を横にふる。
「俺もそろそろ終電やばくなるから……」
 本当は内心、離れたくない思いで胸はいっぱいだったのだけれど……。言いたいこと、話したいことはまだまだたくさんある。今度いつ会えるだろうと思えば、なおさらのこと。
 そんな思いをきっぱりと断ち切って、陸は言った。
「今日は、ありがとな。話聞かせてくれて。おかげでなんか、いろいろと見えてきたような気がする」
 千秋は照れたように笑って、答える。
「がらにもなく長々と語っちゃったわね。ほんとはうっとーしかったんじゃないの?」
「いや、全然。逆にうれしかった。お前のこと、すごくわかったような気がして……」
 そう言いかけて、陸はやばい、と思い、口をつぐんだ。今までにないトーンで話してしまった。千秋の目に、かすかな戸惑いの色が浮かぶ。陸はうろたえ、「ごめん……」と言った。そうすることで、よけいにごまかせなくなったことに気付き、舌打ちをしたくなる。
 陸は目を伏せた。沈黙の中、どうにかこの場を乗り切ろうと必死に頭を働かせる。今さら千秋に気持を気付かせるわけにはいかなかった。ここまでは、どうにか上手くやってきたのに。
 だけど、もう、どうすることもできないのも事実だった。
 今、現在にいたるまで、彼女がたった独りで成し遂げてきた様々なことは、陸を深く感動させていた。やっぱり、千秋は本当に千秋なんだと思う。誰よりもまっすぐで、自分の本当に求めるものを見分ける鋭い視線を持っていて、そして、こうと決めたことのためにはどんな努力だってする、それが千秋なんだ。
 かなわない、と思った。自分はそんな風に生きてゆけるだろうか。
 やっぱり、こいつが好きだ。本当に、どうしようもないほど。話を聞きながら、何度そう思ったか知れない。ただもう思いは溢れ、心の中にとどめておくことなどできなくなっていた。
 彼は観念して目を閉じ、大きく息をついて、口を開く。いつかのように、考えるよりも先に、言葉が口をついて出た。
「俺……、千秋が好きだ」

 一瞬、何を言われたのか、わからなかった。
 千秋は、ゆっくりと顔を上げた。もう長いこと、心が麻痺している。いつもそんな風に感じている。だから、その言葉は最初、彼女に何の感慨も呼び起こさなかったのだけれど。
 じわじわと、胸の中に広がってくる痺れるようなぬくもり。凍りついた心が溶けてゆくにつれ、それは少しずつ刺すような痛みに変わり、千秋は思わず微かに顔をしかめた。
 痛くて、本当に痛くて……。それは、相手にはわからないほどの、本当にわずかな表情の揺らぎだったのだけれど。
「本当に、好きなんだ。もっと早く気づけばよかった。今だって俺、お前の子供の父親になりたいって思ってるし、なれないってことが、すげえ悔しい」
 言ってもしょうがないことだけどな……そう言って彼は、千秋を見て、ほんの少し笑った。
 なんていい顔をするようになったんだろう、って思う。
 この笑顔を、失おうとしているのだ。出会って以来、何よりも大切なものになっていたこの笑顔を。千秋は一瞬、手をのばしてその両頬を、包み込んでしまいたい衝動にかられた。そうすれば自分は、ずっとこの男の子の側にいられる。信じられないことだけれど、彼は今はっきりと「好きだ」と口にしてくれたのだから。
 その激しく抗いがたい感情を、千秋は固く目をつぶってじっと耐えた。
「ごめん」
 自分の口にしたその短い言葉が、まるで他人の言葉のようにそっけなく耳に響く。
 陸は、軽く唇をかんでうつむいた。これほど傷ついて心もとない様子の彼を見るのは、初めてだった。表情の読み取れないその目元から、ふと、涙がこぼれおちそうな錯覚に襲われ、それは単なる錯覚に過ぎないというのに、激しく胸が痛む。だけどそれは一瞬だけのこと。陸は顔を上げ、まっすぐ千秋を見て、再び笑顔を見せた。
「わかってる。やっぱ、俺じゃだめだよな」
 切なさや、痛みや、あきらめや、思いやりや…いろんなものが混じりあった、その笑顔。
 彼にこんな顔をさせるのはいったい何なのだろう。千秋はまるで他人事のように胸の中でつぶやく。

 どうしてそんなに、傷ついた顔、するんだよ。ふられたのはこっちだっていうのに……。
 なんともいえない色の瞳が、今にも泣き出しそうに思えて、陸は思わず手を伸ばして彼女の頬に触れた。涙が落ちる前に、拭ってあげたくて……。
 冷たい頬に触れた瞬間、千秋はかすかにビクっと震え、身を引こうとした。だけど、その手のひらのぬくもりが、彼女を引きとめたみたいだった。千秋はそれ以上動かず、目を伏せる。 でも、陸の指はいつまでたっても濡れることがなくて、それがなぜだかまた、彼にはやるせなく切なかった。無理しないで、泣いてくれたらいいのに。
「なーに、深刻になってんだよ」
 わざと茶化すように、彼は笑って言った。心の痛みを笑顔に変えることを、いつから自分は習慣にするようになってしまったんだろうと思いながら。
 彼はその頬の冷たさを、そして千秋は彼の手のひらの暖かさを、おたがい、愛おしむかのように、ふたりはしばらくそのままの姿勢でじっとしていた。しばらくして、抱きしめたい思いがつのる前にと、陸がそっと手を離す。
 「じゃあ」と笑って別れた。寒さの中、触れられた部分だけが焼け付くように熱いのを感じながら、千秋はマンションの階段を登った。



「なんて顔してるの?」
 扉を開け、千秋を迎え入れた沙希は、苦笑混じりに言った。
 いたわるように肩を抱かれ、部屋に入った千秋は、自分がどうやって靴を脱いだかもわからない有様だった。ただ子供のように成されるがまま、リヴィングのソファに座らせられ、ティッシュを箱ごと渡されて、初めて自分が泣いていることに気づく。
 しばらくそのまま放って置かれ、何枚ティッシュを使ったのか、自分でもわからない。
 暖かいマグカップを、手に持たせられる感触に、我に返った。その中身が何であるかにも頓着せず、千秋は機械的にカップを口に運んだ。
 ホットワインの温かさが、全身をめぐり始める感覚に、少しずつ人心地を取り戻す。それは今の彼女が本当に求めていた、シンプルな温かさ。
「大丈夫?」
 そこで初めてそう聞かれ、千秋は目を上げる。そして自分が今独りでないことと、その事実の有り難さに…、
 彼女はようやく気づいたんだった。

「好きだって言われた。あの子本当に馬鹿よね」
 千秋の言葉に、さすがに沙希は、ひどく驚いて目を上げた。
 その表情を、千秋は誤解したらしい。誰よりも陸の気持をわかっているのが沙希であることを、彼女は知らない。
 その思いの深さゆえに、彼は絶対に自分の気持を千秋に伝えることはないだろうと、ずっと沙希は思っていた。なのに、何かが限界を越えてしまうような変化が、彼の心の中に起こったってことだわ。それはどうやら良い結果には終わらなかったみたいだけれど。
 陸は今ごろ、後悔の中にいるのだろうか。そう思うと少し胸が痛む。
 だけど沙希がなにより気がかりなのは、目の前にいる親友のことだった。彼女は黙って手をのばし、千秋の手を握った。
「信じられないでしょ? 陸が私のことを好きだなんて、そんなこと絶対あるわけない。どこまであの子は優しいんだろ。ほんと、嫌になるわ」
「普通、優しいだけで『好きだ』なんて言えないと思うけど」
 沙希の言葉に、千秋は一瞬、戸惑ったように彼女を見たが、すぐに黙って首を横にふった。
 千秋だって半分はわかっているのだ。だけど認めるわけにはいかない。
 陸が、一時的な感情や上っ面の義侠心だけで、「父親になる」なんて言うような男の子じゃないことぐらいわかっている。だけど、その言葉を信じたところで、どうだというのだろう。彼の気持を受け入れたところで、どうなるというのか。今はいい、だけど絶対に、いつか後悔する。それは、彼の前にある無限の未来を、彼が普通の男の子として成長する機会を、奪ってしまうことに他ならないのだから。
 だけど、そう考えるそばから、どうしようもなく泣けてくるのだ。沙希は見かねて言った。
「なにも『父親』になってもらわなくてもいいじゃない。私たちふたりで、子供の面倒はきちんと見れるんだから。そんなに思いつめなくても、今までと同じように彼と付き合っていくことだってできるのよ」
「たぶん、無理だと思う」
 千秋はうつむいたまま、ぽつんと答えた。
「今さら何もなかったみたいにはできない。そうするには私、陸のこと、好きになりすぎてるもの」
 沙希は本当に驚いてしまって、千秋を見た。混乱の中にいる彼女は、自分が今何を言ったかに気づいていないらしい。
 たとえ無意識のことにせよ、千秋がはっきり陸を「好き」だと言ったのは、後にも先にもこのとき一度きりのことだった。
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