L.N.S.B [ Story - 35]
 いつのまにか、春になっていた。卒業式が終わり、ぞろぞろとみんなにくっついて体育館を出て、外の光のまぶしさに思わず目を細めたとき、陸は初めてそのことに気付いた。
 季節は変わり、高校生活が終わる。そして、数日後には、彼は18歳の誕生日を迎えようとしている。
 だけどそんな区切りは、今の自分にとってまったく意味のないことと思えた。
 ほんとうに目指すものは、もっともっと先にある、そんな気がしはじめていたから。

 最後のホームルームを終えて教室を出たとき、待ち構えていたかのように思いつめた目をした1年生の女の子に、体育館の裏に呼び出され、コクられてしまった。
 俺、この子としゃべったことあったっけ、なんて思いながら、陸は見知らぬ女の子の言葉にぼんやり耳を傾ける。少し離れた場所で何人かの女の子たちが、お互いを突っつきあったりしながら、それでも神妙な顔で彼女を見守っているのが、なんだか可笑しかった。ある種の女の子というのは、たぶん、いつになっても変わらない。
 あいつは多分、好きな相手に思いを伝えるのに、友達についてきてもらうなんてこと、絶対にしないタイプだったろうな――と、ふと、千秋に思いが至り、習慣のように胸が痛む。
「ごめん」
 返事を待っている女の子に、陸は謝った。本当に悪いとは思うのだけれど、傷つけないように、遠まわしに言葉を選ぶ余裕なんてなかった。千秋のことを思ったとたん、心ははるか遠く、はなれた場所へ飛んで行くような心地がして。半分、うわの空で彼は言葉を続けた。
「俺、めちゃくちゃ好きな相手がいるんだ。ほんと、ごめん」
 目に涙を浮かべた女の子が、それでも吹っ切れたような表情で、友達に囲まれて行ってしまった後も、陸はしばらくここから動きたくなかった。
 独りになりたい、最近、そんな気持になることが、増えたような気がする。

 千秋とはずっと、会ってない。会わないことにもすっかり慣れてしまったような気がするけれど、あの、傷ついた瞳を、手に触れた頬の冷たさを、忘れられないでいる。
 忘れていられる方法は、ひとつだけあった。千秋から手渡された、あのボロボロの本……。
 もうすでに、何度も読み返していた。それだけでは飽き足らず、同じ著者の本や写真集を探しては買い求め、やはり貪るように読んだ。
 広い世界とどこかでつながってさえいれば、何があっても負けないでいられる……あのとき、千秋の言った言葉の意味が、わかるような気がした。彼女がその文章や写真の持つパワーに強くひかれ、この本をお守りのように大切にしている理由も、それでいて、「自分には向いていない」と言ったその胸の内も。
 陸になら向いてるかもしれない……その暗示は、彼の中で、少しずつ決意に変わろうとしている。

 天気がいい。3月の陽射しはすでに汗ばむほどに暖かく、ときおり吹き抜ける風が心地良かった。
 高台にあるその場所からは、遠く霞んだ海までが見渡せる。草の上に腰を降ろせば、いつまでも居てしまいそうな気がして、陸はあえて座らず、後ろの壁にもたれた。
 千秋だったらきっと、このあたりでビールが飲みたいと騒ぎ出すはずだ。ほんと、天気が良くて、ビールさえあれば、幸せになれるやつだったもんな。彼は去年の秋の日のことを思い出した。公園の石段に並んで座り、缶ビールを片手にハトにエサをやりながら、尽きない話をした時間のことを。あの日も、暑すぎない秋の陽射しが贅沢に降り注ぐ、本当に気持の良い1日だった。
 今思えば宝物のようなそんな時間を、あの頃の自分は、なんて無邪気に当たり前のように受け止めていたことか。同じような毎日が、これからもずっと続くと思っていたから。失うことがなければ、自分の気持に気付くこともなかったのかもしれない。自分のおめでたさが、なんだか嫌になってしまう。
 あーあ、しょうがねーな。どんなときも、何を考えていても、気が付けば思いはいつの間にか千秋にたどり着いてる。まったく、女々しいったらありゃしねえ。
 彼は大きくため息をつき、空を見上げた。
 空はどこまでも柔らかく、優しい色をしている。だけど霞んだブルーはじっと見つめていると、じわじわと目に沁みた。華やかな喧騒を遠くに感じながら、ぼんやりと体育館の壁にもたれていると、
「陸――」
 と、聞き覚えのある声が彼を呼んだ。

「なんだってそんなところにいるのよ。2年の子達から探してくれって頼まれちゃって、大変だったんだから」
 あー疲れた、と笑って、麻優里は陸の隣の壁にもたれた。その屈託のない笑顔が、陸を現実に引き戻す。
「それにしても、ふつう元カノに頼むかなあ、こういうこと」
「元カノだから、なんじゃねえの?」
 陸は笑って言った。ふくれた顔をしながらも、その役目をまんざらでもないと感じている様子が可笑しくて、ちょっとだけ気持が浮上した気がする。
 あんな別れ方をしたっていうのに、麻優里とはすぐに、ふつうに言葉を交わせる友達どうしに戻り、さらには他の子達よりもほんのちょっぴり、心を許せる、貴重な女友達になった。修羅場……ってほどじゃないけど、それなりにいろんなことをくぐりぬけてきた「戦友」ってところなのかな。付き合ってたころは、こいつもこんなにさばさばした感じじゃなかったけど。
 別れて初めて、「元カノ」というかけがえのない親友になれる。そんな相手もいるものなのかもしれない、そんな風に思えた。 

「元気ないね」
 麻優里はちょっと心配そうに眉をひそめて言った。
「卒業するの、そんなに寂しい? 別に会えなくなるのが辛い相手がいるわけじゃないでしょ? この学校に」
「それ、皮肉か?」
 陸は苦笑してたずねる。
「皮肉じゃないよ、だって事実だもん」
 彼女は少し真剣な顔で答えた。
「最近、完全にふぬけてるって、亮二が言ってるよ。ずっと、本気で好きだったんでしょう? あの人のこと。だけど、上手くいかなかった……ってとこなのかな」
「当たり…」
 陸は自分でも驚くほど、素直にそう答えていた。今さらこいつに隠すことなんてない、そんな気がしたから。
「でも、『ずっと』かどうかはわかんねえ。気付いたのはつい最近だから」
「絶対、『ずっと』だよ。私なんて初めからとっくにわかってた。だって陸ってば、どんどん素敵になっていくんだもの。付き合い始めたときは、単なる無邪気な男の子だって思ってたのに、あっという間に大人っぽくなっちゃって。あの女の人の噂を聞いたとき、やっぱり、って思った。きっと、私なんてかなわないって。なんだか悔しいから、最後はちょっとごねてやったけど」

 あの人にはもう、会わないでほしい――。そんな麻優里の言葉を、陸は思い出していた。あのとき彼女の胸の中にはすでに諦めの気持が生まれていたのだ。自分はといえば、どうにか相応のこの恋を続かせようと必死だった。千秋は大人で、自分とは違う世界を生きている相手で――。だから、麻優里のことを好きなんだと思い込もうとしてた、そういうことだったのかもしれない。
 結局、無理があったんだよな。その無理にさっさと気付いてくれた麻優里に、今さらながら感謝したい気持になる。
「俺ってほんと、情けねえよな。自分のことだっていうのに、お前がとっくに気付いてたこと、ぜんぜんわかってなかった。いろいろ、悪かったな」
 苦笑まじりにそう言いかけると、激しく胸が痛んだ。もう、とっくに馴染みになってしまった痛みだ。一瞬、言葉を途切らせ、どうにか持ちこたえる。陸は少しうつむいて再び口を開いた。
「こんなに好きになってたんだ。でも、気付いたときには間に合わなかった」

 自分が今、どんな顔をしているのか、彼はわかっているのかしらと麻優里は思う。とっくに彼をあきらめたはずの彼女ですら、どうにも切なくなってしまう。それほど、人の心をひきつける表情をしていた。
 ほんとに素敵になったと思う。ほんの半年前までは、ただ、きらきら輝く夏のお陽さまのような男の子だった。元気で無邪気で、大きな身体にいっぱいつまったエネルギーを、いつも持て余していて、でも、ただそれだけ。
 今はそう、まぶしいだけだった笑顔に、時おり濃い影が射す。きらきらと照りつける陽射しが、暖かい陽だまりに変わることもある。ごくたまに、雨が降り出しそうにも思えて、目が離せない。そんな様々な顔を見せるようになった彼の変化に、女の子たちが気付かないはずはない。
 陸は麻優里と別れて、今も独りなのか、3学期になって、やたらと聞かれるようになった。
 付き合ってる相手は、いないみたいよ。好きな人ならいるかも知れないけど。少しばかり腹立たしい気持と共に、なんどそう説明したか知れない。
 彼の「好きな人」って、誰?。その謎が嵐となって学校中を駆け巡ったこと、本人は知っているのだろうか。どうやら彼は自分の中に深く入り込んでしまっていて、自分の周りで起こっていることに、なんの興味も持てないみたいだけど……。麻優里は少し胸が痛くなって、優しく言った。
「自分のことって、実はいちばんわからないものなのかも知れないわね」
 
 その言葉のやけに優しい響きを、同情されていると感じ、陸は少し恥ずかしくなる。「戦友」どうしに、しめっぽい空気は似合わない。一矢報いてやりたくなって、陸はいつもの調子をとり戻し、話を変えた。
「そっちはどうなんだよ。すっげえ、上手くいってるらしいな。聞いたぞ、無断外泊」
 麻優里は大げさに、「げっ!!」という顔をする。
「大騒ぎだったらしいな、お前んち。ヒロトのやつ、お前の親父に殴られたんだって? 見たかったぜ、そのシーン」
「べ、別に、彼のために、ってわけじゃないのよ。もう高校も卒業することだし、そろそろ親離れしなきゃって、思っただけで」
 麻優里は少し顔を赤くして言った。あ、気を使ってるなと思う。陸と付き合っていたころは、無断外泊どころか、門限すらきちんと守らなくては気がすまない彼女だった。今思えば結局、向こうにも、そしてこちらにも、熱さが足りなかったってことだ。そのことを気にしてる。こういう性格は、前と変わらないな。陸はなんだか微笑ましい気持になって、麻優里の頭をぽんと叩いた。
「そんなに気ぃ使うなって、好きなんだろ? あいつのこと」
 うなずいた顔が、ますます赤くなる。慌てたように麻優里は言った。
「そろそろ行こう。みんな待ってるよ、陸のこと。出て行ったらきっと大騒ぎだから、覚悟しときなさいね」

 麻優里の予言通り、制服でごった返す中庭に出たとたん、あっという間に女の子たちに取り囲まれた。予想以上の事態に少し恐怖すら感じて、麻優里に助けを求めようとしたが、彼女はいち早く迎えに来た彼氏に、人ごみの外へ連れ出されようとしているところだった。
 千秋とのことが学校で噂になっていることを陸に知らせ、麻優里を「泣かせんなよ」と真剣な顔で言ったあの友人は、ちゃっかりと陸の後釜に収まっていた。カノジョの親父に殴られたりと、いろいろ苦労はしてるみたいだけど、ともかく幸せそうだ。
 陸の視線に気付き、にっと笑ってピースサインを寄越してくる彼に、中指を立てたサインを返してやりながら、ふと思う。春だなあ、って。とたんに現実が遠ざかる心地がした。

 頬に当たる風は、まだ冷たいけれど、とにかく春なんだ、歩き出さなくちゃ。
 千秋……いつも胸の中をいっぱいにしているその名前を、陸は胸の中でつぶやく。彼女が傍にいない今、どんなにたくさんの仲間や友人たちに囲まれていても、彼は独りだった。わかってる。この場所はもう、自分の居る場所じゃない。ひとりで歩き出さなきゃならないんだ。誰よりも早く、大人になるために。
 すっかり馴染みになった焦燥感が胸を満たした。困ったなあと陸は思う。現実感が遠ざかり、皆と上手く言葉を交わすことができない、かといって、ふり切ってひとり帰るほどのパワーもない。
 途方に暮れていると、どこからともなくがっしりと腕を掴まれ、人ゴミから連れ出された。
 飄々とした声が女の子たちをなだめるのをぼんやりと聞く。「帰るか?」と聞かれて、顔を上げた。亮二だった。陸はうなずいて、礼を言う。
「だいじょうぶか?」
 陸の腕をつかんだまま、気がかりそうにこちらをのぞきこんで亮二は聞いた。陸は黙ってもう一度うなずく。まだ心は半分どこかへ行っていて、何を言えば良いのかわからなかった。
 そんな陸の態度にも、すっかり慣れているといった様子で、亮二は黙ってすたすたと歩き出す。
 その淡々とした反応に救われた。最近、こいつにはまったく頭が上がらないと思う。

 校門を出て、駅への道を黙って歩くうちに、少しずつ気持が落ち着いてきた。見慣れた景色がようやく、目に入り始める。卒業式が終わってずい分たつのに、誰もが帰りがたい気持でいるらしく、駅へと向かう制服姿は少なかった。
 そういえば、亮二はよかったのかな。冷静にものを考えられるようになると、隣を歩く親友のことが、ふと、気になる。春からはまた同じ場所にあるキャンパスへ通う陸はまだしも、違う大学へ行く彼は、この学校を訪れることもなくなるわけで。
「お前、こんなに早く帰って来ちまって良かったのか?」
 今さら……だよなと思いつつそう聞いてみると、亮二はやはり、今さら……という呆れ顔をして答えた。
「1年しか通ってなかったし、別に未練はないさ。気になるのは、これから先のことだな」
 彼らしい答だと思いながら、陸は「そっか……」とつぶやく。
「お前は……そうか、またこれからもあそこに通うんだな、英文科だったっけ」
 何気なしに聞き返され、陸はうなずく。別に深く考えもせず、選んだ学科だった。自分が大人にならねばならないこと、将来への道を自分自身で切り開いて行かねばならないことなど夢にも思わなかった数ヶ月前を、今では少し後悔している。
 亮二は法律関係の仕事を目指すのだと言って、法学部を選んでいた。「バンドは単なる趣味に過ぎないから」……あれだけのことを「趣味」だと言ってのけるスケールの大きさを、まぶしく感じた。
 だけど俺も負けてはいられない。陸は自分に言い聞かせる。今からでも、じゅうぶん間に合うはずだから。
 「陸にならきっと向いている」と言った千秋の言葉を、何気なく手渡された、1冊の文庫本が与えてくれた感動を、胸に蘇らせながら、今まで誰にも言わなかったことを、陸は今、初めて口にした。

「でも、たぶん、ずっとここにはいない。留学しようと思ってるから。アメリカへ行って、ジャーナリズムの勉強をしたいんだ」
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