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「わっ、どうしたんだよ千秋。そのカッコ……」 久しぶりに、本当に久しぶりに、そして唐突に千秋の目の前に現れた陸は、彼女の姿を見たとたん、目を丸くしてそう言った。 職場のカウンターの近くで立ち仕事をしていた千秋は、一瞬、夢かマボロシを見ているような気持になって立ち尽くす。彼が千秋の職場を訪ねて来るなんて、出会って以来初めてのことだったし、そして何よりも、あの胸の痛む別れから2ヶ月近くもの間、もう彼には会えないのかも知れないという、寂しいあきらめの中で、日々を過ごしていた彼女だったから。 季節はとっくに春を迎えていた。 「ひょっとしてそれ、マタニティウェアってやつ? なんかすっげえ、可愛い!! ひゃー!!ガラじゃねえ」 そう言って陸は、遠慮も何もないといった感じで、笑い出した。ふたりの間にあったことなど、すべて忘れてしまったかのようなその屈託のなさに、千秋は一瞬、混乱する。 あの、鋭く胸を刺した陸の告白、痛みを押し隠した笑顔、そして頬に触れた指の暖かさ。千秋は今だってはっきりと、思い出すことができるというのに。すべてはマボロシだったのだろうか。そんな錯覚に陥りそうになる。 「あんたってば、突然来て、いったいなんなのよ」 彼女は少し顔を赤くして、ようやく、そうつぶやいた。面と向かって「可愛い」などと言われ、こうも豪快に笑われてしまっては、深刻になりようもない。確かに、今の自分は笑われても仕方のない格好をしているという自覚があれば、なおさらのこと。改めて、今日の自分の姿を見下ろす。 妊娠7ヶ月。体型の変化に勝てず、昨日買って来たマタニティウェアは、出来る限りオフィス向きのスクウェアなものを求めていたにも関わらず、色こそ黒が基調でも、胸の辺りでふんわりとした切り替えが入り、白い胸元には紺色のリボンが付いた膝丈ワンピースという、普段の彼女なら絶対に着ないタイプのデザインだった。やはりこの手の服は、どんなにかんばってもどこかしらキュートになってしまうものらしい。 自分でも「似合わない」と思い、今朝は今朝で同僚たちにさんざん爆笑され、ずっと落ち着かない気持で仕事を続けていたのだ。なにも今日、来ることはないじゃないの、と、うらめしくなってしまう。 とはいえ、そんな再会が、ずっと彼と顔を合わせるのが怖いような気がしていた彼女の心を、ずいぶんと軽くしてくれたことは確かだったのだけれど。 「で、何? 人のカッコ見て笑うために、わざわざここまできたの?」 興味津々に自分たちを見守る、沙希や同僚たちの視線が痛いこともあり、少し落ち着きを取り戻した千秋は、わざと憮然とした表情を作ってそう聞いた。とたん、陸は少し真顔に戻る。久しぶりに見るその表情の大人っぽさに、心臓がわずかに跳ねるのを感じた。 彼がすでに高校生ではないことに、今さらのように気づく。考えて見れば、もう、17歳でもないんだわ。たったひとつ歳を取る。それだけのことが大きな意味を持つ。そんな時期を生きているこの男の子が、なんだかにわかに眩しく見え、切ない気持になる。 「違う……って、当たり前だけど」 そう言って彼は再び、にっこりと無邪気な笑顔を取り戻した。 「話があるんだ。昼飯、いっしょに行かねーか?」 その無邪気さが半分、演技であること。その表情の中に言いようのない緊張が隠されていることを、千秋は敏感に感じ取る。なにか、大事な話なのかしら。彼女の胸に、うっすらと不安が広がった。ちょうど昼休みに入ったこともあり、あわてて同僚たちに断りを入れ、すたすたと店を出て行く陸の後を追う。 そのとき、彼が肩からカメラを下げていることに、千秋は初めて気づいたんだった。 雑踏の中、少し遅れて歩いてきた千秋を、陸は振り返って待つ。そのまっすぐな視線に戸惑いを覚えていると、にわかに「撮ってもいい?」とカメラを構えられ、千秋はあわてた。 「ちょ、ちょっと待って、こんなカッコしてるとこ、撮らないでよ」 レンズをふさごうとする彼女の手を反射的に避けた陸は、後ろから歩いてくる女の人とぶつかった。大きな身体を小さくして謝るその姿に、千秋は思わず吹き出してしまう。 少なくとも出会った頃と同じ、のびやかさと表情の豊かさを、彼はすっかり取り戻しているようだった。安堵にも似た思いに、溶け残っていた緊張が消える。自分が彼に与えた痛みは、それほど大きいものではなかったのかも知れない。拍子抜けしたような、寂しいような気持にならなかったといえば、嘘になるのだけれど。 そんな彼女を振り返り、陸は少しばかり憮然とした表情で言った。 「ったく、何もそんなに嫌がらなくったって……。こんなカッコ……って言っても、お前これから当分は『こんなカッコ』なんだろ? そんなこと言ってたら、ずっと撮れねーじゃん。それに、そんなに悪くないと思うけど」 「よく言うわよ。見たとたん爆笑したくせに。どうせ私は『ガラじゃない』わよ。マタニティウェアなんて」 いつもの調子で、負けず言い返した千秋に、陸は少し怒ったような表情を見せて答えた。 「可笑しくて笑ったんじゃねーよ。ほんと、可愛かったから……。いつもと違うのが新鮮、っていうか、ガラじゃないところがまた、いいっていうか――」 え? と思う間もなく陸は千秋に背を見せて再びすたすたと歩き始める。その首筋がわずかに赤く染まったように見えるのは、気のせいだろうか。 今までの陸じゃない。あの、寒い日の出来事は、決してマボロシじゃなかった? 再び波打つ心臓をもてあましながら、彼の後ろを歩き出す千秋は、そのカメラの意味を問うことを、すっかり忘れてしまっていた。 ちょっと、ドジったかもしんない……陸は舌打ちをしたい気持になってる。再び、千秋と向き合うには、あの日のことを「なかったこと」にするしかないと、彼はずっと思っていた。そして実際に自分の中で「なかったこと」にしてしまえるまで、1ヶ月以上かかった。それでもなお、彼女と顔を合わせる勇気を育てるには、さらなる時間が必要だった。 そうまでして、もういちど千秋に会おうと思ったのは、決して未練なんて感情のためじゃない。 どうしても伝えたいこと、そして、彼女に手を貸してもらいたいことがあったから。 他のどの場所でもない、今まで足を踏み入れたことのない彼女の職場をわざわざ訪ねたのは、その決意ゆえだったのだ。初めは上手くいったと思った。あまりにも意表を突いた彼女の姿を目にした驚きで、変な気負いや緊張は、あっという間にどこかに飛んで行ってしまったから。 なのに、ちょっと油断すると、この有様で……。 一度意識してしまった想いを、表にに出さずにいることの難しさを、彼は今、ひしひしと感じていた。だけど、そうしなくてはいけないのだ。かつての彼が、無意識にそうしていたように、その感情を、再び手の届かない心の奥底に隠して、カギをかけてしまわなくてはいけない。そうしなくては自分は一歩も前へ進めない、そんな気がしているから。 そんなことを、ぼんやり思いながら歩いていた陸だったのだけれど。 彼は不意に立ち止まり、再び千秋を振り返った。 「そういえば……」 不意を突かれた表情をしている千秋に、苦笑して言う。 「俺たち、メシ食いに出てきてたんだっけ。どこに入る?」 そう言われて、千秋は初めて今が昼休みであることを思い出す。どこへ行くでもなく、気が付くとずいぶんと長く歩いていた。そんなことも忘れてたなんて……。 ふたりとも、本当にどうかしてる。 しばらく呆然と顔を見合わせていたふたりは、ほぼ同時に、吹き出した。 結局、もと来た道を少しばかり引き返し、あのカフェに入る。千秋もこのところ、さすがに足が遠のいていた。素朴な手書きの看板、石の階段、鬱蒼と茂る緑。なんだか懐かしい思いにかられ、胸がいっぱいになる。 店の中には相変わらず、シタールの音が流れている。陸は屈託のない様子で、バイトのウェイターたちと言葉を交わし、窓際のテーブルへと向かった。 「そういえば、ここのバイト、もうやってないんだって? 島崎さんに聞いたけど」 席につきながら、ふと思い出して千秋が聞く。陸はうなずいた。 「もっと実入りのいいバイト、探そうと思って。いろいろとお金が必要なことになりそうだから」 その言葉の意味を問おうしたのだけれど、彼は自分の口にした言葉に頓着ない様子で、窓の外の置物にカメラを向け始める。 デジタルカメラではなく、そう大きくはないけれどしっかりしたレンズのついた、本格的な感じのカメラだった。それにしても、観光客じゃないんだから…千秋は少し呆れて口を開く。 「さっきからずっと、聞きたかったんだけど。それ、いったいなんなの?」 「卒業祝いに買ってもらった。あき兄と親の合同出資」 楽しげにファインダーを覗きながら、陸が答える。その横顔の輝きに、千秋は胸を突かれた。 そんな彼女の胸のざわめきを知ってか知らずか、陸はカメラを置いて向き直り、カバンから小さなフォトアルバムを出して、千秋に差し出す。 その表情は、いつの間にか、真剣なものに変わっていた。 モノクロの写真ばかりだった。友人たち、両親、通い始めたばかりの大学の風景、彼の周囲にある、あらゆるものが生きいきと映し出され、1枚1枚の写真には、短いコメントが添えてある。 その言葉にも、切り取られた風景にも、「才能のきらめき」としか言いようのないものを感じ、千秋はしばらく言葉を失ったまま、それらを目で追い続けていた。まるで、陸の視線そのものだわ、と思う。彼が何を感じ、どんな風に日々を過ごしているか、見ているだけで、鮮やかに伝わってくるような気がする。 なんともいえない感動を、心のどこかに感じながら、彼女は目を上げ、たずねた。 「あの本を、読んだの?」 陸はうなずく。 「何度も読んだ。あの本だけじゃなくて、あの作者の他の本も。ユージン・スミスとか、彼女に少しでも関わる写真家の写真集や本も、探して読んだ。だけどすぐに、読むだけじゃ物足りなくなって、自分でもカメラを持たずにいられなくなった。それが、楽しくて、何もかも忘れてしまうほど、夢中になって。それで、わかったんだ。お前が言った言葉の意味が」 食事が運ばれてきた。陸は千秋が差し出したアルバムを受け取り、リュックの中にしまった。 「俺には向いてる。うぬぼれかもしんないけど、そう思う。やれるとこまで、やってみよう、って、思ってる」 その真摯な瞳に、千秋は、かつての自分を見たような気がした。でも、彼女とは違い、そこには真実の輝きが、確かにあった。 少し悔しいような気持をもてあましながら、千秋はうなずく。 あの本の作者のようになりたいと本気で憧れたのは、どれほど前のことになるのだろう。千秋はおぼろげな記憶をたどる。ふとした偶然の導きから、ニューヨークのハーレムに住むようになった日本人留学生が、60年代のブラックパワーを生きいきと映し出すフォト・ジャーナリストに成長する、そんなストーリーに、初めて感動を覚えたのは、いつのことだっただろう。彼女はスクープを狙うタイプのカメラマンではなかったけれど、日常の中に信じられないほどの輝きを見出し、ペンとカメラで鮮やかに切り取ってみせた。 私には無理…そう思ったのは、自分の本質をよくわかっていたから。千秋は良くも悪くも自分の内面をしっかりと作り上げ、そしてそれを変えられない頑なさを持つ人間だった。自分の心に深く入ってゆくことに長けてはいても、人の心の中には入り込めない。やはりそれは、才能の問題なのだと思う。 陸になら、向いている。あのとき感じた微かな予感は、千秋の中で、確信に変わろうとしている。 何気ない日常の隙間や、人の心の奥底にどこまでも入って行き、深く埋もれた宝石を見つけ出すこと。誰よりもとらわれないまっすぐな視線と、のびやかな心、人の痛みを自分の痛みのように受け止める優しさを持つ彼なら、きっとできる。 それに……彼女にはわかっている。あの大きな身体にいっぱいつまったパワーを、向けるべきところに向けたなら、この男の子にできないことなんて、ないわ。 千秋は改めて、正面に目をやる。初めて一緒に食事をしたときと同じように、気持がいいほどのスピードで、豪快に目の前のカレーを次々と口へ運んでいる男の子に。この元気さに、どれほど救われてきたか知れない。でも、彼女にはもう、わかっていた。彼が、自分の手の届かない遠い場所へ行ってしまうつもりでいることが。 一瞬、目の前がぐらりと揺れるような寂しさに襲われる。だけど、どうにか持ち直す。その決意を、受け止めてあげようと思った。それがどんなに痛みを伴うことであっても。 千秋はスプーンを持つ手を止め、まっすぐに陸を見て、静かに聞いた。 「アメリカに、行くつもりなんでしょう?」 陸はうなずいた。そのとたん、不意に泣き出したいような気持になり、彼はあわててうつむく。 それから後、食べているものの味がわからなくなって、困った。どうにか食事を終えたとき、自分の決意を千秋がしっかりと受け止めてくれたこと、そして、そのことによって、もう後戻りはできなくなったことを……。 彼は悟っていたのだった。 |
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