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ふと夜中に目覚め、部屋の外に出ると、千秋の部屋から灯りが漏れているのが見えた。沙希は少し眉をひそめ、ドアをノックする。 中をのぞくと、机にいっぱい資料を広げ、一心不乱に調べものをしている千秋の後姿が目に入る。沙希はため息をつき、声をかけた。 「そろそろ寝たら?」 千秋は振り返り、夢から醒めたような瞳で沙希を見る。 「もう、2時過ぎてるわよ。あんまり無理しない方がいいんじゃない?」 沙希が言うと、驚いて時計を見る。そして、ばつの悪そうな顔をして、小さな声で答えた。 「ごめん、どうしても調べておきたいことがあって」 机の上に山になっているのは、英文で書かれた大学のパンフレット。沙希は再び、小さくため息をつく。 千秋は「仕事」として陸の留学に関わることになり、陸は彼女の働く旅行代理店に通ってくるようになった。なんだかんだで週に何度かは顔を見せる。以前と同じように、ふたりのあいだに和やかな空気がもどってきたのは、傍から見ていても微笑ましいものがあるのだけれど。 実のところ、この留学カウンセラーという仕事は千秋の得意な分野ではなかった。彼女自身、留学経験がないし、アシスタントとして以外、この仕事に関わったこともない。なのに職場ではなんとなく、あの男の子の担当は千秋ということになってしまったのはどういうわけだろう。わからないことだらけの、慣れない仕事。沙希のフォローも万全というわけには行かず、本来の負けん気も災いして、経験のなさを努力でクリアしようとする千秋の睡眠時間はどんどん短くなっている。 だけど、相手が陸でなかったら、彼女もここまで頑張りはしなかっただろうと思うのだ。 ふたりの間にある特別な空気は、あっという間に同僚たちの知るところとなった。何も気づいてないのは、本人ぐらいかもしれない。 社長などは「いいんじゃないの? 椎葉さんには、恋のパワーで仕事を覚えてもらいましょ」なんて、暢気なことを言うし、うちの職場って、やっぱりどこか変? ただ沙希ひとりが、ひそかに気を揉んでいるという状況なんだった。 千秋自身の身体のこと、お腹の子供のこと、気がかりなことはいくらでもある。だけど何より心配なのは、好きな男(と言ってももう、差し支えないだろう)を送り出すための仕事を懸命にこなそうとする、彼女の心のありようだったかもしれない。 「大丈夫なの?」 資料の片づけを手伝ってやりながら、沙希は聞いた。そのひと言に込められた様々な思いを、千秋は感じ取っただろうか。 微かに笑顔を見せ、「うん……」と、ただ短く答える。 吹っ切れたような表情。たとえ胸の内にはなにがあろうと、その瞳には微塵の揺らぎも感じられなくて。 たぶん、これ以上、何を言っても無駄なのだ。沙希の胸に、あきらめにも似た気持が生まれた。 まったく……自分ひとりの身体ではなくなったというのに、相も変わらず周りが見えてるんだか見えてないんだかわからないような歩き方をするものだから、こいつには本当にハラハラさせられる。 「千秋、赤信号」 車や自転車が行き交う雑踏を平気で渡ろうとする千秋の前に、陸はあわてて腕を突き出して通せんぼをした。きょとんとした表情で、「え?」とこちらを見上げるその顔に付いてるモノは、ほんとに役に立ってんのか? 沙希にさんざん言われて、外を歩くときだけは渋々ながらも眼鏡をかけるようになったと聞いて、束の間安心していたのだけれど。 こいつの場合、視力以前の問題なのかもしれない……陸は大げさにため息をついた。 「妊婦はぼーっとすることが多いってきくけど、本当なんだな。お前、最近ひどくねえ? ぜんぜん前見てなかっただろ」 「きちんと、見てたわよ」 千秋は少し憮然とした顔で、目の前の腕を押しのける。 「こんなことしてもらわなくったって、きちんと止まるつもりだったんだから」 「『つもり』だけじゃ、だめだっての」 ぼそっとつぶやく陸に、「何か言った?」と無邪気に聞き返す千秋の動きが一瞬、止まった。 「あ……」 「どうした?」 思わずどきっとしてたずねる陸に、彼女はうれしそうな笑顔を向ける。 「動いた」 その表情に、一瞬、眩暈にも似た感覚に襲われる。 たぶん、少しは辛い気持になるのだろうと思っていた。千秋が変わってゆくこと、彼女を変えるのが、他の男の子供であること。 だけど目の前にいる彼女の、ただ愛しさにあふれた翳りのない表情を見てると、お腹の子供が憎むべき元夫の子供だなんて意識、すでに微塵もないように思える。 そしてまた、自分もそうなのだ。その子は他の誰でもない、千秋自身の子供で、そして、自分にとってもなぜか、どうしても他人だとは思えなくて。 ただもう、すべてをひっくるめて、愛しいと思ってしまう。今の彼女を……。でも、辛いのはむしろそのことなのかも知れなかった。 抱きしめたい……ふたりで過ごす穏やかな時間ごと、抱きしめて、ずっと離したくない。気が付けば、何度となくそんな思いにかられている自分に気づき、陸は内心、苦笑したい気持になる。 いくら自分に言い聞かせても、苦しいようなこの思いだけは、どうにもならない。 自分にできるのは、決して相手に悟られないように、何気ないふりを装うことだけ。彼は千秋に笑顔を返し、青に変わった信号を渡り始めた。 留学に関わることを、できれば仕事として千秋に委ねたい、陸がそう告げたとき、それもなんとなく予想のついていたことだったらしく、彼女はさしてためらうこともなくうなずいたのだった。 「留学は私の専門じゃないし、担当は会社の決めることだから、私が関われるかどうかわからないけど」と言われたが、結局は彼女が担当ということになり、ほっとしている。きちんと千秋に向き合ってから旅立つこと、それが自分なりの「けじめ」であるような気がしていたから。 なんて、カッコいいことを考えていたくせに、実際、何日かに一度、彼女と顔を合わせることになってみると、以前と変わらぬ日々が戻ってきたような、そしてこれからも続いていくような錯覚に陥ってしまうから情けない。おそらくは互いの努力によって、彼女との時間は穏やかでさりげない幸せに満ちたものになっていたから。 だけど、日ごとに変わる彼女の身体は、変えようのない現実を、ふたりの旅立ちの日はそう遠くないことを思い出させた。後1ヶ月もすれば千秋は産休に入り、その後の仕事はすべて、沙希が引き継ぐことになる。そうなればもう、彼女は自分に会おうとしなくなるだろう。なぜだか陸にはそれがわかっていた。 それでも、千秋が自分のために産休を取るはずだった時期を大幅に先のばしにしてくれていることまでは、さすがの陸も知るはずがなかった。 ずっとお腹が張り気味で、医者からは早く休みを取るようにと言われている。それでも薬を飲みながら、どうにか頑張っている。別に陸だけのためじゃないと、自分では思っていたのだけれど。 なにもそこまでしなくても、仕事は別にしてあの子と会えばいいじゃないと沙希に言われたけれど、そんなわけにはいかなかった。この仕事を続けられないのなら、自分には陸の側にいる資格なんてない、そう頑なに信じていたから。彼女もまた、彼と共に居られる穏やかな時間を何よりも愛しいと思っていたにも関わらず。 自分でも無理をしていることはわかっている。心にとっても、身体にとっても。だけど今、できる限りのことをやっておかないと、きっと一生後悔する。陸には、未来につながる最良の道を見つけて欲しい。その手助けをすることが、自分に与えられた唯一の、そして最後の役目だと思うから。 そのためには、何を犠牲にしてもかまわない、そんなふうにすら感じている自分に気づき、千秋はその先走った使命感が、我ながら可笑しくなった。まったく、沙希が心配するわけだわ。 でも、そう考えることで少なくとも言いようのない寂しさから逃れることはできる。それもまた、事実だった。 この男の子はどんどん変わって行くわ。目の前を歩く大きな背中を見ながら、彼女は思う。初めて出会った頃の屈託のなさや無邪気さが、ともすれば懐かしくなってしまうほどに――。彼女は知ってる。「何か」を見つけた人間は、途方もなく強くなれること、彼がその「何か」に引き寄せられる力は、誰がどうしたって止められないことを。 そんなとき、千秋の思いを感じ取ったかのように、陸は振り返る。「なーに無口になってんだよ」なんて、これだけは以前と変わらない、あのくらくらするような笑顔で言われ、彼女は思わず本音を漏らしてしまいそうなる。 行かないで。ずっとこのまま、ここに居て……と。 季節は再び、出会った頃と同じ初夏に差しかかっていた。ふたりの思いとは無関係に、残り少ない日々は、淡々と過ぎてゆこうとしていた。 穏やかな日々のバランスは、あるとき突然くずれた。あの日、いつものように店で陸を迎えた千秋は、表情が固く、顔色も良くなかった。どうにか不手際のないように、事務的な話を進めるのも精一杯という感じで。 こんな彼女を、いつか見たことがある、と陸は思った。 話を終え、立ち上がるとき、彼女は軽くふらついた。身体を支えようと机についた手が、震えていた。時期が時期だけに、その様子はただごとではなく、事務所から同僚たちが心配げに集まってくる。 「椎葉さん、今日は帰りなさい」 そう、社長にきつく言われ、そう頑なに無理を通すこともできなかったのか、彼女はうなずく。その社長に「大沢くん……だったかしら、悪いけど彼女を連れて帰ってあげて」と頼まれ、どちらにしろそうするつもりだった陸は、千秋を伴って店を出たのだった。 「大丈夫? 病院、行った方がいいんじゃねえの? よかったら、付き添うけど」 陸が聞くと、千秋は黙ってかぶりを振った。駅のベンチ、陸の買った缶ジュースを握り締めてうつむく姿に、軽い既視感を覚える。去年の秋のことだ。ライヴの帰り、電車の中で倒れかけた千秋は、今と同じように震えていた。あの時陸は、そんな彼女をどうにも放っておけなくて、半ば強引に家までついていったのだった。 そう、今の千秋の様子は、あのときと同じだ。何かたずねようと口を開きかけたとき、彼女は自ら、消え入りそうな声で、ぽつんと言った。 「ゆうべ、智史から電話があったの」 陸は思わず立ち上がりそうになるのをこらえた。千秋の元夫であるその男の名前を聞くと、いっぺんに冷静さを失ってしまう自分に我ながら驚く。彼は、うつむいたままの彼女の横顔を、のぞきこんで聞いた。 「何か、言われたのか?」 押し殺した怒りが、声や表情に滲み出てしまうのを、自分でもどうにもできない。陸のそんな様子に少し驚いた表情を浮かべながらも、千秋は再び首を横に振った。 「何も……。事務的な話だけ。彼、もうすぐ再婚するつもりなの。いろいろと手続きが必要らしくて……。それだけのことだったんだけど」 そう言って彼女は、大きく息をついた。 「でも、自分でもどうにもならないの。声を聞いただけで、普通じゃいられなくなる。怖くて怖くて……もう何も怖がることなんてないはずなのに……情けないわ」 その言葉を聞いて、陸は悟った。あのときの彼女も、夫の影に、どうしようもなく怯えていたことを。どうして気付いてやれなかったんだろう。 あいつが千秋にやったことは、犯罪だ、そう、陸は思っていた。夫だからって、許されるものじゃない。いや、本当は夫だからこそ、彼女の一番の味方でなくてはならなかったはずなのだ。誰よりも信頼すべき相手から、あんなふうに傷つけられて、普通でいられるやつなんて、多分、いない。 「情けなくなんかない」 陸は、怒りを抑えた声で、静かに言った。これ以上彼女を怯えさせてはいけないことぐらい、わかっていたから。 「悪いのはあいつ……お前のダンナなんだ。何も千秋が自分を責めることなんか、ない」 そうして彼は、千秋の震える手を握った。彼女は反射的にその手を引き抜こうとしたが、強く握って離さなかった。なんとなく、そうしなくてはならないような気がしたから。本当はしっかりと抱きしめてあげたかったのだけれど、人目の多い駅のホームではそれもかなわなかった。 それでもしばらくそうしていると、触れ合った手から伝わってくる震えは、次第におさまってくる。陸はほっとして、千秋の横顔に目をやった。 だけど、うつむいたままのその表情は、驚くほど固いままで、彼は言葉をなくす。 「ごめん」 千秋は今度こそ、その手をきっぱりと引き抜いて、謝った。予想外のその反応に、何も言えないでいる陸を見て、薄く笑って言葉を重ねる。 「ほんと、情けないったら……」 その表情に深く影を射した自嘲の色に、胸を突かれた。「もう大丈夫だから」と頑なに言われ、急行電車に乗る彼女を見送りながら。 自分はもう、これ以上千秋の側に居てはいけないのかも知れない……。 なぜだか陸はふと、そう思ったのだった。 絶対に、泣いてはいけない……電車の扉のそばに立ち、千秋は必死で自分に言い聞かせる。目の前を流れてゆく光は、ともすればぼやけ、かすみそうになったけれど、どうにか持ちこたえていた。 これ以上、弱い人間になるわけには行かない。だって、陸はもうすぐいなくなるのだから。そして、あの男の子と別々の人生を歩むことを望んだのは、他の誰でもない、自分自身なのだから。 握られた手にそっと触れてみる。あのぬくもりに包まれただけで、あっという間に癒されてしまった自分が、心底情けなかった。 もっと強くならなくては。これ以上、自分のことで、彼の胸を痛ませるわけには行かない。 だけど、また1週間もたたないうちに、仕事で彼に会わねばならないことを考えると、その決意も揺らぎそうになる。正直、今のような状況で彼に会い続けることが、そろそろ辛くなってきていた。 |
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