L.N.S.B [ Story - 38]
 だけど結局、陸が千秋の側に居られたのはその時限りになった。数日後、千秋が産気づいて病院に運ばれたことを、彼は沙希からの電話で知ることになる。
「嘘だろ? だってまだそんな時期じゃ……」
 呆然として聞き返す陸に、沙希は冷静すぎるほど冷静な声で、言葉を返す。
「早産よ。もうかなり進んでるから止められないって。子供は未熟児で生まれることになると思う。心配することないわ。赤ちゃんは小さいんだから、お産自体は軽くすむし、しっかりした病院だから、赤ちゃんも大丈夫。無事、生まれたら電話する」
「ちょ……っ、沙希さん、待ってくれよ」
 陸は我に返り、話を切り上げようとする沙希をあわてて引き留めた。
「どこの病院? 俺、今からそっち行くから……」
 いてもたってもいられない、そんな気持で早口にたずねる。しかし返事はすぐに帰ってこなかった。
 どうしたんだろう……不審に思い、重ねて何か言おうとしてふと、電話の向こうに何か逡巡する空気を感じ取る。
 そっか……。悟るしかなかった。教えてはもらえないんだ。あいつ、俺に来て欲しくないと思ってる。
「ごめん、言えない」
 しばらくの沈黙の後、沙希は短く答えを返してきた。なるだけ感情を込めないようにと努力したような声。それだけですべて理解できた。胸が痛くなる。
「分かった……」
 そう、答えるしかなかった。
「あいつのこと、頼む」
 「まかせて」という返事と共に、慌ただしく電話は切れた。どうすればいいかわからず、立ち尽くす陸に、亮二が声をかける。
「どうしたんだよ。みんなそろったし、そろそろ行くぞ」
 とたん、雑踏のざわめきが耳に戻って来た。数ヶ月ぶりに同窓会でもやるかと、クラスの連中と待ち合わせていたところだったことを思い出す。だけど今となっては、それもどうでもよいことだった。
「俺、帰るわ」
 彼は、短く言って、立ち去ろうとした。そのただならぬ様子に驚いた亮二は、あわてて彼を引き止める。
「なに言ってんだよ、急に、何かあったのか?」
「千秋の子供が生まれそうなんだ。今すぐ帰る」
 完全に度を失っていた。「帰る……ったって」と、亮二は苦笑する。
「病院に行くわけじゃないんだろ?」
「行かね……っつーか、行けねえけど――」
「だったら帰ったってしょうがないじゃねーか」
「だからって、飲むような気分じゃねえんだ。じゃあな」
 そう言い捨ててそそくさと歩きだそうとする陸を見て、これは帰すわけには行かないと亮二は思った。独りでいたって、これじゃあよけいに常軌を逸するばかりだろう。放っておくわけには行かない。彼は陸のシャツをしっかりつかんだまま、大きな声で言った。
「おーい、陸が帰るって言ってるぞー」
「何? ほんとか?」
「冗談じゃねえ、何考えてんだ」
 そうして陸は、何人かの元クラスメートたちにがっしりと羽交い絞めにされ、飲み会の場所まで有無を言わさず引っ張って行かれるはめになったんだった。

 ジーンズのポケットで、携帯が震える。さっきからずっと上の空でいた陸は、あわててそれを開いて耳にあてた。ハンパじゃなく騒がしい2次会のカラオケボックス、相手の声が聞こえず、彼は小さく舌打ちをして、外へ出る。
「ごめん、今日は同窓会があって……。で、あいつ、大丈夫なのか?」
 電話の向こう、沙希が告げた言葉を聞き、陸は安堵のあまり、その場にへたりこんでしまった。
 深夜の駐車場、遠くから聞こえる騒がしい音楽を別世界のように感じながら、彼はしばらくそこから動けず、座り込んで月を見上げる。心の中で繰り返すのは、ただ、ひとつの言葉しかなくて。
 よかった。本当によかった、と……。
 神様に感謝したいって、こういうことだったんだなと思う。
 なるだけ何気ない風に、席に戻ったつもりだったけど、心配顔で待ち構えていた亮二につかまってしまった。
「どうした? なんか、あったのか?」
 陸は首を横に振り、笑って答えた。
「生まれたんだ。無事に。女の子だったって」
「そっかあ…」
 みるみるうちに全開の笑顔となった、友人の大げさな反応に、陸は夢見心地から醒める。少しばかり嫌な予感がした。と同時に、間髪を入れず、ばしっと背中を叩かれ、大きな声で祝福の言葉を投げかけられる。
「よかったなっ!! おめでとう」
 いや、その、自分のことのように心配してくれていたのはうれしいんだけど……。ふだんから声も態度もでかいこの友人の反応は、否応なく目立ってしまうわけで。
 尾崎豊を熱唱するクラスメイトをさしおいて、「なんだなんだ」とばかりに、陸の周りにわらわらと酔っ払い達が集まってくる。
「なんだよ、陸。なんかめでたいことでもあったのか?」
 陸は困って、騒ぎの元凶である亮二を見た。彼は得意げな笑顔で、みんなに説明しようとする。
「生まれたんだよ、無事に。陸の……、陸の……その――、なんだ?」
 今さら俺に聞かれたって、困るっていうの。言葉に詰まり、助けを求めてきた友人に、陸は冷たく「知るか」と答えた。「このアホ」と、心の中で付け足すのも忘れない。
 だけど、なんだか不思議な気持になってしまう。ほんと、俺の何なんだろう、生まれてきた赤ん坊は。亮二が困るのも当たり前、ほんとなら、なんの関係もない存在であるはずで。なのにこんなにうれしいのは、どうしてなんだろう。
 少しばかりしらけた空気の中、一瞬、亮二は途方に暮れたようだった。だけど、そこは勢いというやつで。
「と、とにかく生まれたんだよ。めでたいじゃねーか」
 破顔一笑、勢い良くそう言い切ってしまう。
 その勢いに引っ張られ、酔っ払いたちの間に、一気に祝福ムードが生まれる。
 あちこちから、ばしばしと頭やら背中やらを叩かれた。「おめでとう」「よかったじゃねーか」「これでお前も親父になんのか」なんて、わけのわからない言葉を、完全にわけわかんなくなってる悪友たちからいくつも投げかけられ、何度も乾杯を繰り返して、それまでは素面でいた陸も、だんだんわけがわからなくなってきた。
 だけど、心のどこかは、くっきりと澄んでいて。
 決して戻れないハードルを越えてしまった千秋と、そして自分のこれからを思う。そうすると、うれしいのだか悲しいのだかわからない涙がこぼれ落ちそうになって、彼はあわてた。

 そこから後の、あっという間に過ぎた数ヶ月のことを、陸はあまりよく覚えていない。
 ただひたすら、何も考えまいと走り続けた記憶があるだけ。やらなければならないことなら、いくらでもあった。留学に関する様々な手続き、英語の勉強、学費を稼ぐためのアルバイト。少しでもひまができれば、カメラを持って街へ飛び出していった。目につくものを、撮って撮って撮りまくった。
 たいていの仲間たちは、遊ぶことしか考えていない夏。その時節外れの勤勉さは、「半年遅れの受験生だな」と亮二や島崎にからかわれ、「せめて去年の今ごろ、こうなってくれれば」と親を嘆かせたのだけれど。
 千秋と会うことは、もう、かなわない。出産の数日後、留学のことで店を訪ねた彼を待っていたのは、千秋の仕事を引き継いだ沙希だった。
「千秋から、あんたに話しといてくれって言われたことがあるんだけれど……」
 そう、言いにくそうに切り出したまま、口ごもった彼女に、陸は自分でも驚くほど冷静に「わかってる……」と答えていたのだった。
「わかってる。あいつ、俺にはもう会いに来ないで欲しいって、言ってるんだろ?」
 予想できないはずもなかったのだ。最後に駅で別れた千秋の、あのなんとも言えず辛そうな表情。それがどういう意味を持つにしろ、自分が彼女の何かを挫いてしまう存在であることを、悟らないわけにはいかなかった。
 もういい、と思う。元気でいてくれるなら、それでいい。
 幸いなことに、沙希が会うたび律儀に千秋のことを話してくれたから、彼女がどうしているかを知ることはできた。「悠」と名づけられた彼女の娘が今日初めて笑った、ようやく夜泣きがおさまり、夜眠れるようになった、いつまでたっても沐浴が苦手でこわごわベビーバスを使っている、なんてことを。
 話題はどうしても赤ん坊のことが中心になるのだけれど、あの千秋が、どう考えたってガラじゃない「育児」というやつを懸命にこなしている姿を想像すると、なんだか笑えてきた。ともかく、普通に元気でいてくれることが、何よりもありがたかった。
 そんな風に思える自分が、なんだか不思議でならなかったけれど。
 今はただ、やるべきことを淡々とこなし続けるしかない。途方もない遠回りをしているような思いに、途中、何度も立ち止まりそうになったけれど、そのたび陸は考えることをやめた。そんな時、彼が胸の中で繰り返す言葉はただひとつ……。

 大人に、ならなくては。ずっと先にあるものを目指して、走り続けなくては。
 そう自分に言い聞かせながら日々を過ごす少年にとって、時の流れはあまりにも速い。
 そんなふうにして、驚くほどあっという間に、旅立ちの日はやってきたのだった。
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