L.N.S.B [ Story - 39]
 ぽんと肩を叩かれた、振り返ると千秋だった。
 よくわからないままにぼんやりと過ぎたあの頃の記憶の中で、その瞬間だけを、陸はずっと後になっても鮮やかに思い出すことができる。
 あの出発の日――エアポートの雑踏の中、懐かしい笑顔を見たその時から、何もかもが本来の色を取り戻し、いきいきと目に映るようになったのだから。それは多分、錯覚じゃなかったと思う。

「な……んで、そんなとこにいんだよ」
 呆然としたまま、やっとの思いで彼は口を開く。
「赤んぼはどうしたのさ。それに、沙希さんは? 彼女が来るって聞いてたんだけど」
 驚きのあまり、心とはうらはらに、ぶっきらぼうに疑問を並べ立てていた。でも、それでよかったのかも知れない。向かい合った千秋の顔に、ほっとしたような表情が浮かんだのだから。彼女は少し笑って、答えた。
「悠は沙希が見てくれてる。最後だから、千秋が行ってきなさいって。大きなお世話よね」
「そっ……か」
 バカみたいに、そうつぶやくしかなかった。「じゃあ、明日空港で待ってるわね。遅刻するんじゃないわよ」昨日別れ際にそう言った沙希の笑顔は、今にして思えばなんだか意味ありげじゃなかったか? くっそぉ、やられた、と思う。
 そんな陸の胸の内は知らず、千秋は意外なほど屈託のない笑顔を見せて、言葉を続けた。
「沙希じゃなくて、悪かったわね」
 いや、そういうことじゃなくって……と、焦って言い訳しようとした彼は、自分を見る冗談めいた瞳に出会い、赤くなって口をつぐんだ。完全に、からかわれてる。悔しくなって、負けず言葉を返そうとしたのだけれど。
「……ったく、びっくりさせんなよ」
 そう、小さく言い返すのが精一杯だった。その一言ですら、語尾が震えて陸はあわてた。本当に、自分でも信じられないことに、かなりじーんときているようなのだ。なんだか泣き出したくなるような衝動を、彼はぐっとこらえた。
 さて……と、千秋はかばんの中から航空券の束を取り出す。
「搭乗手続きに行こう。乗り換えのときはあんたがやるんだから、覚えとくのよ」

 ふう…どうにかここまでは乗り切れたみたい。陸の前をすたすたと歩きながら、千秋は胸の中でつぶやいている。だけど本当はずっと、足が震え出しそうなぐらい、どきどきしていた。
 「空港へは、絶対にあんたが行くべきよ」そう、きっぱりと沙希に言い渡されてから1週間、必死に陸を送り出す勇気を育ててきた。ただでさえまだまだ手のかかる娘の悠が、よりによって同じ時期に熱を出し、ろくろく眠れないような日々だったというのに。
「わたし、やっぱりだめかも……」
 疲れと睡眠不足のせいでよけいに弱気になり、前日の夜、力なく訴える彼女に、沙希はそれでも首を縦には振らなかった。仕事を休んで悠の面倒を見る手筈まで整えてくれているこの親友の手前、絶対に行かないと言い張るわけにもいかなくて…。
 でも、今、彼女は思っている。やっぱり、会えて良かった、と。
 幽霊でも見たようなさっきのあの顔、本当に可愛くて、今思い出しても笑えてしまう。だけど、真っ直ぐに向き合ったそのたたずまいは、もはや気軽に「可愛い」なんて言えるものではなくなっていた。
 しばらく見ない間に顔の線がシャープになり、身体つきもがっしりして、大人っぽくなった。色褪せたブルージーンズに、真っ白なTシャツというシンプルな格好が、眩しいほどよく似合って……。
 それに何よりも彼女をどきりとさせたのは、自分を真っ直ぐに見つめるその瞳が、内に秘めたものを隠し切れず自然と強い光を放つようになっていたこと。本当にこの男の子は、信じられないほど成長したんだわ。この短い間に。
 入院中、何度か彼女を見舞いに来た島崎が言ったことを、千秋は思い出していた。

「あいつ、憑かれたみたいに撮りまくってますよ」
 もう陸には会わないつもりでいることを千秋が告げたとき、島崎は少し驚き、やがて納得したようにうなずいて、そう言ったのだった。
「しかも撮るたびに、どんどん良くなってる。あいつにあんな才能があったなんて、ほんと、驚いてます。突然アメリカに行きたいなんて言い出したときは、何の冗談かと思ったけれど、気が付くと準備やら手続きやら自分でどんどん進めているし、朝から晩までテープを聴いて、英語もずいぶん上達したし、最近では学費の足しになればとか言って、工事現場のバイトまで始めました。正直、あいつがあそこまで何かに一生懸命になる姿を見るのは、叔父の俺ですら、いや、あいつの親ですら初めてのことで……」
 彼はいったん言葉を切って、まっすぐに千秋を見た。
「きっとそれは、椎葉さんのおかげだと思う。感謝してます」
「まさか!!」
 千秋は驚き、あわてて否定する。
「陸本人の力です。私は、仕事として留学の手助けをしただけだもの。島崎さんはたぶん、陸を過小評価してます」
「いえ、わかってますよ。彼の力は」
 千秋の反応が、あまりにも予想通りだったのだろう。苦笑しながら島崎は言った。
「あいつは本来、人並み以上の何かを持ってる。それは小さい頃から陸を見てきて思っていたことでした。でも、それだけに、その力を発揮できる機会に恵まれないことが、もどかしくもあった。本人はのん気というのか、自覚がないというのか、何かに夢中になったり、必死で努力することなんてほとんどなくて、いつも飄々としてましたけど。でも、きっと心のどこかで窮屈さを感じていたと思います。あいつはそういう奴なんです」
「それは……わかるような気がします」
 千秋は答えた。いつも、大きな身体を、のびやかすぎる心を、持て余している男の子。それが陸だった。彼の瞳にときおり浮かぶ、身体に合わない洋服を着せられたような、困ったような笑みを思い出す。だからこそ、私はあんなにも必死になったんだわ。彼にぴったりの洋服を見つけてあげることに。
 千秋の肯定に力を得たのか、島崎はにっこりと笑って、
「椎葉さんに出会うことがなければ、陸はずっとあのままだったんじゃないですか? あなたこそ自分を過小評価してますよ」
 きっぱりとそう言い、ますます千秋を困らせたのだった。

 今だってそれを、自分の力だなんて思っていない。だけど、まぶしいほどの決意を胸に秘めたこの男の子を目の前にして、千秋はなんだか誇らしいような気持になる。
 これで良かったのだ、と思う。彼の手をふりほどいたこと、こうやって彼を送り出す決心をしたことは、間違いじゃなかった。
 だからせめて自分は、少しでもたくさんの面影を、記憶の中にとどめておこう。これからの日々を乗り切るために……。そう思えるほどの強さを、千秋もいつのまにか、身に付けていたのかもしれなかった。

 カウンターの前に立ち、てきぱきと手続きを進める千秋をぼんやりと見ながら、まいったなあ、と、陸は思う。もう会えないと思っていた相手が、目の前にいる。その事実に、どうしても気持が追いつかなくて……。
 たった独りで旅立つつもりだった。親にも友達にも、見送りには来ないでくれ、ときっぱり言った。カッコつけてたわけじゃなくて、ぎりぎりになって取り乱してしまうかもしれない自分を、誰かに見られるのが怖かったから。
 意気揚々と旅立つわけじゃない。最後の最後まで未練たらたらな胸の内を、誰にも悟られたくはなかった。沙希が「仕事」として陸の出発に立ち会ってくれる予定だったのだけれど、彼女になら、別に格好悪いところを見られてもかまわなかった。あの鋭い千秋の女友達にだけは、自分の気持はとっくの昔にばれてしまっていたのだから。
 なのに、よりによって、本人が来てしまうとは。
 どうにか笑顔のまま、さりげなく、別れを告げなければならない。それはなんだか至難の技のように思えてくるのだけれど……。
 なんだかよくわからない感情でいっぱいになってしまった胸の内をもてあまし、彼は小さく息をついて、もう一度、彼女を見た。すっと背筋をのばしたその立ち姿、すっかり仕事モードになっててきぱきと手続きを進める凛とした横顔、さらさらと揺れる長い髪を。
 やっぱり会えてよかった、最後にその姿を見ることができてよかった。そう感じている自分が、なんだか情けなくもあった。

 手続きを終え、ボーディング・チケットを陸に手渡した後、千秋は急に無口になった。
 張りつめた糸が切れたみたいに。一瞬、ぎこちない沈黙が流れる。あれ? と陸は思う。こいつもひょっとして、緊張してた?
「出発までまだ、時間あったよな。カフェテリアかどっか、行く?」
 なんとなく、場を仕切る役目がこちらに回ってきたような気がして、そう尋ねてみる。千秋は、ほっとしたようにうなずいた。
 今度は陸が先に立って歩き出す。……ったく、なんでそう急に頼りなくなっちまうんだよ。
 だけど、そんな様子にすら胸が疼いた。こいつ、俺がいなくなっても大丈夫なのかな。

 カフェテリアは空いていた。滑走路に面した明るい窓際の席に着く。改めて間近に向かい合うと、千秋の表情の疲れた感じが、陸は妙に気になった。
 瞳が充血しているように、うっすらと赤い。ひょっとして、あんまり、寝てないんじゃないか?
「赤ん坊は……悠は、元気?」
 そう、尋ねてみた。千秋の娘の名前を口にするのは、考えてみれば初めてのことで、なんだか照れくさいような気持になる。
 千秋は一瞬、虚を突かれたような顔をしたが、うなずいて答えた。
「うん、ちょっと前まで熱出してたけど。やっと元気になった」
 彼女はそれ以上、何も語ろうとしなかった。でも、語ろうとしないことが、それだけにここしばらくの彼女の日々の厳しさを思わせ、陸はよけいに落ち着かない気持になる。いくら沙希さんがついているといっても、ひとりでやってくのはやっぱり大変なんじゃないか? 
 思わず気がかりな表情を浮かべてしまっていたのだろう。千秋は慌てた風に話題を変え、それきり、日々の苦労を思わせるようなことは、一言も言わなかったのだけれど。
 だけど、泣き出しそうにすら見えるその寝不足の瞳に、彼女が笑顔を浮べるのを見るたび、胸の疼きは大きくなった。もしかすると自分は、間違ったことをやろうとしているのかも知れない。本当はここにとどまるべきなのかも知れない。そんな後悔の思いに、早くも胸を押しつぶされそうな気がして……。
 口にこそ出さなかったけど、引止めてくれればいいのにと、何度も思った。
 「行かないで……」そうひとこと言ってくれれば、留学なんか放り出してしまうだろう。バックパックを投げ捨てて、千秋の手を引っ張って、飛行場を後にする。ハッピーエンドだ。だけど現実にそんなことは起こるはずもなく、搭乗のアナウンスが場内に流れた。
 「さ、行かなきゃ」 千秋は立ち上がる。
 もう、迷うことなど許されなかった。話し足りないこと、言い足りないことを山ほど胸に抱えながらも、陸は、何かを断ち切るようにきっぱりと歩き始めた千秋の後をあわてて追いかける。
 足早に前を歩く千秋の様子が、ちょっと覚束ないことに、陸は気づいた。さして混んできたわけでもないのに、エスカレーターにたどり着くまでに、何度も人にぶつかっている。
 どうしたんだろう、確かに普段からマイペースで、周りが見えているのかいないのかわからない奴だけど、今日はちょっとひどくないか? なんとなくはらはらしながら、どうにかエスカレーターのステップに立った彼女の後姿を見守っていたのだけれど。
「おい、千秋、もうてっぺんだって」
 あわてて声をかけたときには遅かった。エスカレーターが終わったことに気づかず、千秋はバランスを崩して転びそうになる。そんな事態をもう何十回となく経験している陸の手が、反射的にのびた。
「大丈夫か?」
 腕を支えたまま、顔をのぞきこんでたずねる。答えは……ない。うそだろ? 心臓がつぶれそうなぐらい、ドキンとする。
 千秋はうつむいたまま、ぽろぽろと涙をこぼしていた。

「千秋、どうしたんだよ」
 あわててエスカレーターの脇の、人の少ないところに彼女を連れて行き、もう一度、陸はたずねる。
 なんで? なんで泣くんだよ。千秋の涙を見たのは初めてってわけじゃないけど、自分の意志で沙希と新しい人生を歩き始めている彼女に、今、泣く理由なんて何もないはずだった。むしろ、取り乱してしまいそうなのは、こっちだったはずで……。なんでだよ。混乱する頭で、いくら考えても、思い当たる理由はひとつしかなくて。
「千秋……?」
 信じられない思いのまま、もう一度、名前を呼ぶ。
 ずっと彼は疑いもなく思っていた。千秋には11も年下の自分と本気で向き合う気持なんてない。俺みたいなガキなんて、なんとも思っていないだろう、って。
 それは、間違いだった? 心のどこか見えないところで、彼女が人知れず育てていたものは、何なのだろう。
 何度も呼ばれて、千秋はようやく、顔を上げる。
「ごめん……泣くつもりなんて、ぜんぜんなかったのに――」
 そう言って笑おうとする。だけどその表情はすぐに崩れて、新しい涙が浮かぶ。
 好きな相手にそんな顔をされて、冷静でいられるやつなんて、いない……。一瞬、眩暈のような思いにとらわれ、陸は思わず手をのばし、千秋の腕をつかんで、強く引き寄せた。
 バランスを失って、あっけなく倒れこんできたその身体の感触は、いつかのように、おどろくほど軽い。でも、あのときみたいに自分を抑えることなんて、もう、できない。溢れ出す思いのままに、深く強く、痛いほどに抱きしめた。ずっと、そうしたいと思っていたように。
「り……陸?」
 震える声が、自分の名前を呼ぶ。
 両頬をはさみ、上を向かせると、まだ涙でいっぱいの瞳が、ひどく驚いたような色を湛えて自分を見上げた。そんな風に見られるのが辛くて、その涙をどうにかしてあげたくて、瞼に、頬に、額に、キスの雨を降らせた。目なんか開けてられないぐらいに。
 この唇の暖かさが、彼女の涙を止めてあげられたらいい……なんて、勝手な言い分、わかっている。どうせ、すぐに行ってしまわなきゃいけないのに、こんなところでキレちまって、どうするんだよ。心のどこかで冷静な声が聞こえる。
 でも、彼女の胸の中にある真実を垣間見てしまった今、遅すぎるとわかっていても、こうせずにはいられない。
 そして……。
「陸――?」
 再び千秋が、かすれた声で自分を呼んだとき……。
 彼は、その唇を、自分の唇で塞いでいた。
 そのまま、長い髪に指を差し入れ、何度も何度も深く口づける。一瞬、抗うように彼の胸を押し返そうとした手から、あっという間に力が抜けた。
 もう、人目なんて気にしていられない。ロビーのざわめきが、すっと遠ざかってゆく。
 その唇の熱さ、柔らかさ――。何もかも忘れ、ただもう、愛しさで胸はいっぱいになった。これほど切実な思いで、誰かの唇を貪ったことなんて、初めてのことで……。
 絶対に、離したくない。このまま、どこかへ連れ去ってしまいたい――。
 長いキスが終わり、唇が離れた後も、彼はそのまま千秋を抱きしめて、いつまでも離すことができないでいた。
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