L.N.S.B [ Story - 40]
 陸の乗った飛行機が、空の彼方に消えるのを見送った後も、千秋はしばらく送迎用のテラスに立って、いくつもの飛行機が飛び立ったり帰ってきたりするのをぼんやりと眺めていた。
 昔から彼女はこの場所が大好きだった。つまらないことで落ち込んでしまったとき、ここに来て飛行機を眺めていると元気になれる。空の向こうには広い世界があり、自分さえその気になればいつだって出かけて行ける。毎日の暮らしに押しつぶされそうになっても、ここでそのことを確かめられれば、安心して楽に息ができるようになるのだった。
 そう、広い世界とどこかでつながってさえいれば、何が起こっても負けないでいられる。そのはずだったのだけれど……。
 さすがに今日は、どうしようもなく辛い。強い風が吹き付け、彼女は心にぽっかりと開いた穴を持て余している。
 陸を手放してしまった。何もかもを包み込んでしまえるような、おっきな身体とおっきなハート、見るだけで元気百倍になるような最強の笑顔を持つ、あの男の子を。
 彼が海の向こうで自分なりの生活を見つけ、いつかは本当に好きな女の子と出会い、手の届かないところへ行ってしまうことに耐えられるだろうか。これからの厳しい毎日を、彼の笑顔なしで本当に乗り切ることができるだろうか。
 できる……と、思っていた。ついさっきまでは――。でも、腕に、身体に、そして今も唇に残る、やけつくような熱さに耐えている今、とても、そう言い切れる自信はない。本当に、熱いと思った。あの無邪気な男の子の心が、身体が、これほどまでに熱くなれるなんて……。
 信じられない。あんなふうに抱きしめられ、キスされたこと。彼が押さえ込んでいた思いの深さ、そしてそれが本物であったことも。
 あの男の子が本気で自分を好きだなんて、何度言われても今まで一度も信じることができなかった千秋だったから。

 あれから、搭乗の最終時刻を告げるアナウンスに、先に我に返ったのは千秋の方。彼女は、いつまでもこうしていたいという自分自身の気持と戦い、そして、自分を離そうとしない腕の強い力と必死に戦って、どうにか身体を押し離し、陸と向かい合った。
 何時の間にか、涙は止まっていた。こんなときにすら、触れ合った身体は彼女を癒す力を持っていたのかも知れない。
「行かなきゃ――」
 まだ涙の残る瞳に、どうにか笑みを浮かべ、彼女は言った。本当は、謝りたかった。ごめん……って。
 ごめん、こんなときに泣いたりして。最後の最後に大人気なく取り乱してしまった自分が情けなくて、まともに陸の顔を見ることすらできなかった彼女だったから。いや、それは、まだ唇に残る生々しい記憶が、彼女の頬を熱くしているせいでもあったのだけれど。
 陸は何も言わず、彼女の手を取り、しっかりと握った。繋がれた手から伝わってくる温かさに、再び泣き出しそうになってしまったのも束の間、それでも動き出そうとしない彼の様子に、一瞬、葛藤を感じ、どきりとする。
 このまま、彼が自分をどこかに連れて行こうとしたなら、たぶん、逆らえない。そんな気がしたから。
 だけどそれは本当に一瞬のことで、陸は千秋の手を引いたまま、ゲートへ向かって歩き出した。
 もう、ふたりとも何も話さなかった。なにも、言うべきことなんてない。千秋はそう感じていたし、ひょっとすると、陸もそうだったかもしれない。
 ゲートの前、再び向かい合ったとき、謝ったのは陸の方だった。
「ごめんな……」
 その言葉の意味がわからず、思わず彼を見る。その時目にした表情を、千秋は一生忘れることができないかもしれない。
 痛みを押し隠した、泣き笑いのようなその表情。それは、彼女がそれまで知っていた、無邪気な男の子の顔なんかじゃなかった。まるで、知らない人を見てるみたい。どうしようもなく大人の「男」を感じさせるその表情に、胸が疼くほど強く惹きつけられ、千秋は言葉を失ってしまう。
 どうして、「ごめん」なの? 行ってしまうこと? それとも……。そう、聞きたかったのだけれど。
 制服を着た係員が駆け寄ってきて、慌てた風に陸の名前をたずね、搭乗を促す。陸はうなずき、少し困ったように千秋を見た。お互いになにも言えないまま……。
 小さな子供にするように、千秋の頭を軽くぽんと叩き、陸はそのままゲートの向こうへと消えた。

 ゆっくりと走り出し、加速度をつけた機体が、ふわり、と浮き上がり、どんどん小さくなって、目に染みるほど透明な空の彼方に、あっという間にすいこまれてゆく。
 そんな様子を何度も繰り返し見ているうちに、千秋の心の中には、ただひとつの言葉だけしか残らなくなってしまった。

 行かないで――。

 行かないで――。

 行かないで――。

 ただ、そんな言葉だけをこだまのように繰り返してる。飛行機が飛び立つたびに。
 重症だわ…そんな自分に気付き、千秋は笑い出したくなってしまう。だけど、そう繰り返すたびに、不思議と心は静かになってゆくんだった。
 ずっとずっと、何度も口にしようとしてできなかったその言葉、知らないうちに、彼女の心を押しつぶしてしまっていたその言葉が、次から次へと、飛行機と一緒に飛び立ってゆく。心はどんどん軽くなり、やがて空っぽになった。繰り返すべき言葉が何もなくなったとき、代わりにずっと彼女を支え続けてきた、呪文のような言葉が、我知らず唇からこぼれた。
 陸……。
 その名前から、どれほどの力をもらったか知れない。彼がいなくなってしまった今も、その名前を何度も呼びながら、千秋は待っている。動き出す力が心に湧いてくるのを。
 あの笑顔は、これからも自分の力になってくれるだろうか。わからない。
 ただ、わかっているのは、それでも歩き続けなければならないこと。そして、やはり、これから何年たとうと、自分はその名前を口にせずにはいられないであろうこと、それだけだった。



 夜中、ふと、瞳の奥に違和感を覚えて、陸は目覚めた。
 何が起こったのか、わからないでいるうちに、それはあっという間に温かいかたまりとなって、瞳から零れ落ちた。あわてて手のひらで目をこする。自分の手を濡らした涙を、他人のものでもあるかのように呆然と見つめたのも束の間、視界はあっという間に霞み、彼は再び手で目をを覆わざるをえなくなった。
 そのまま何度拭っても、手のひらを濡らし続ける涙に、顔を上げることができなくなり、陸は慌てる。
 深夜の機内、誰もが眠っているのはラッキーだったとはいえ、だからこそよけいに、でかいなりした男がひとりで泣いてるなんて、気持悪くないか? 
 だけどそうして、止まらない涙を相手に虚しい格闘を続けるうちに、彼の心にあきらめの気持が生まれた。いや、本当は初めからわかっていたのかもしれない。今はすべてを流し切ってしまうしかないことを。
 隣に座ったビジネスマン風の男が目を覚まし、彼に一瞥を向けると、見てはいけないものを見たかのように視線を逸らすのがわかった。かまうもんかと思った。
 この際だから、気の済むまで泣いてやろう。膝の上に組んだ両手に顔を埋め、彼は泣き続けた。ここへきて初めて、自分を抑える努力を棄てることができた…そんな思いに心地よい開放感すら感じて……。
 千秋……。
 気が付くと、胸の中で何度も名前を呼んでいた。抱きしめた身体の温かさ、重ねた唇の熱さ。そんな記憶ごと、すべてを流し出してしまおう。今の自分は、そうするしかないのだから。

 ようやく、心が空っぽになったと感じたのは、どのくらいそうした後だろう。だけど次の瞬間、何も考えられなくなるほどの強烈な眠気に襲われる。新しい朝は、すぐそこまで来ていた。
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