L.N.S.B [ Story - 41]
 朝はいつも、小さな手に揺り起こされる。

「お母さん、起きて。7時だよ」
 「う…ん…」と、掠れた声で返事をしながら薄目を開けると、かすんだ目に、娘の笑顔がぼんやりと映る。 
我ながら親として情けない表情を晒しているのだろうな、と、毎朝のことながら、思うのだけれど。
 夜中に家事を済ませ、さらにはその後の唯一の自由時間が惜しくて、パソコンや読書にと、つい夜も更けるのも忘れてしまうワーキングマザーは、毎晩8時に寝てしまう保育園児に、とうていかなわない。
 数分後、低血圧と戦ったあげく、ようやく人心地のついた千秋がリビングに行くと、すでに娘は登園用の体操服に着替え、脱いだパジャマをたたんでいる最中なんだった。

 親が頼りないと、子供はしっかり者に育つというのは本当だ。悠を見ていて千秋はしみじみ思う。
毎朝きっちり母を起こし、自分でタンスから服を出してさっさと着替え、そして今、ああでもないこうでもないと脱いだものを美しくたたみ上げるのに余念のない3歳児。軽いくせのある、細く柔らかい猫っ毛や、繊細な顔立ちなど、外見的にはどこかしら元夫の血を引いていると認めざるをえないのだけれど、悠の中身はといえば、まったく彼に似たところがなかった。人を作るのは遺伝子ではなく環境なんだわと、これも最近千秋がしみじみと思うこと。性格的に言えば娘は誰よりも、しっかり者の彼女の元同居人、沙希に似ている。
 彼女は今、芸術品のように美しくたたみ上がったパジャマを前に、満足そうな顔で、うんうんとうなずいている。微笑ましさに、目を細めて眺めていると。
 ふと、目が合い、「なに?」と悠は訝しげな顔をした。
 うーん、可愛い。思わずぎゅうーっと、抱きしめてしまう。
 あれから3年……。この小さな女の子が傍に居てくれることを、今まで何度奇跡だと思ったか知れない。
「お母さん、ご飯。食べる時間なくなっちゃうよ」
 クールな声が、母を現実に引き戻す。千秋はあわてて立ち上がった。
 大急ぎでキッチンに立ち、昨夜のお味噌汁を温めながら、おにぎりを作る。料理上手な朝型女の沙希がいた頃は、朝の食卓も、もう少し豊かだったのだけれど、仕方がない。ふたり暮らしを始めて半年近くになるのに、いまだにこの慌しさには慣れることができない。
 お気に入りのテレビ番組を見ている悠の前に朝食を並べておいて、千秋は洗面所へ急いだ。早朝にタイマーをかけてあったから、洗濯機はすでに仕事を終えている。洗濯物をひっぱり出して、カゴに移し、よいしょ、と持ち上げてベランダへ走る。
 サッシを開けると、外はおどろくほど良いお天気だった。うわ、まぶしい、と、千秋は思わず目を細める。 7階のベランダから見る、晴れ渡った青空は、どこまでも大きい。切なくなってしまうほどに。
 こんな風に晴れた日には、遠い遠い空の彼方に目をこらさずにはいられない。
 たとえそこに何も見えないことが、初めからわかっていたとしても。
 心ならずも、胸の奥がつんと痛くなった。気を取り直して、洗濯物を干し始める。
 半分ほど終えたとき、玄関のチャイムが鳴った。うそ、もうそんな時間? 千秋はあわててサッシを飛び越え、廊下へと向かう。
 悠はとっくに制服を着て仕度を済ませ、帽子をかぶりながら、玄関へと飛び出して行くところだった。
「おはよー!! 翔一」
 ドアの向こうで待っていたのは、陽だまりのような笑顔を浮かべた男の子。彼は飛びついてきた悠を、慣れた仕草で抱き上げた。
 そうして後から歩いてきた千秋の姿を認め、笑顔を見せる。
「おはよう、千秋さん」

 もう知り合ってから何年もたつというのに、彼を見るたび千秋はなんだか不思議な気持になる。これほど中身が外見を裏切っている男の子も、いないような気がするから。
 華奢な身体、いかにも女の子受けしそうな、甘く整った顔立ち。趣味のスノボやサーフィンで、年中日焼けした肌の色や、色あせたちょっと長めの髪のやんちゃな感じは、それなりに彼を「男の子」に見せてはいるものの、黙って立っていれば、彼が25歳の立派な社会人で、しかも世帯主である身だなんて、きっと誰も思わないだろう。
 今着ているグレーのズボンにお仕着せのネクタイという制服もまた、似合うはずがなく、これで仕事用の黒縁眼鏡に事務用の黒い腕バンドという姿で、窓口に出て来られた日には、いつも吹き出さずにはいられない。
 だけど千秋は知ってる。その穏やかなぬくもりを浮かべた瞳は、何があっても揺らいだりうろたえたりすることがなく、あの勝気で寂しがりやな女友達を、いつもしっかりと見守り続けてくれていることを。
 そして千秋たち親子も、その優しさのおこぼれに預かっている。彼は職場に行くついでだからと、毎日千秋の家に寄って、悠を保育園まで送り届けてくれるのだった。
「今日は千秋さんが遅番の日だったよね。悠はうちに連れて行くから。晩御飯作って待ってるからって、沙希さんが……」
「ありがと、いつも世話かけるわね」
「何言ってんですか」
 相も変わらず不器用な他人行儀さを捨てきれない千秋の言葉を、軽く受け流すかのように笑い、「じゃあ」と、彼は悠と共にドアの向こうに消えた。

 静かになった部屋の中、なんとも言えない温もりがそこかしこに残り、ふわふわと漂っているような気がする。彼が去った後はいつもそう。千秋は我知らず、微笑を浮かべた。
 彼、西原翔一は、半年前に再婚した沙希の夫だった。職業は、千秋たちの住む町の福祉課職員。女同士で一風変わった母子家庭を営むことになったふたりに降りかかった様々な難問奇問を、天性の仕事ぶりで次から次へと解決してくれた、言わば恩人、正義の味方、スーパーマンとも言える存在が彼だったのだ。
 とはいえ、これほどこのお堅い職業が似合わない男の子も珍しいものだわ、と、彼女はいつも可笑しくなってしまう。
 「春の陽だまりのような男の子――」いつか沙希が彼について言った言葉を思い出す。いつになく酔っぱらっていたときとはいえ、このうえなく現実的な思考をするあの親友が、自分の恋人のことをそんなスウィートな言葉で形容する日が来ようとは。長い付き合いの中でも予想もつかなかったことで、本当に驚いたものだけれど――。
 だいたい、初めの頃から沙希はやたらと、あの男の子に甘かったのだ。「福祉課に、すっごく可愛い男の子がいるの。かっこいいし、頼りになるし。あーもう市役所に行くのが楽しみになっちゃった」なんて、離婚して半年もたたないシングルマザーが普通、言う? ほんの数ヶ月前までは「もう男なんて信じない。千秋がいたら、それでいいわ」なんてこと言ってたくせに、「あんな男の子がいるなんて、世の中まだまだ捨てたものじゃないわね」って、これだもの。
 翔一の方は、この美人で勝気でそのくせ健気なシングルマザーに、初めから一目惚れであったらしい。「沙希さんが来るようになってから、すげえ仕事が楽しくなった」とは後の本人の言葉。「正義の味方」だって、たまには公私混同ぐらいする。
 そんなわけで、ふたりはほどなく付き合い始め、昨年、結婚した。そのことによって3年間に渡る沙希と千秋の同居生活は終わりを告げたわけだけれど、寂しさは感じない。新婚夫婦は千秋たち親子の部屋のすぐ近くに新居を購入し、いっしょに暮らしていたころ以上に、なにくれとなく彼女を気にかけてくれるようになったのだから。
 「あんたと悠がいつでも住めるように、一部屋空けて待ってるわよ」などと言われれば、姑か小姑にでもなったような気がしないでもないけれど、こうしていつまでも家族扱いしてもらえることが、千秋はしみじみとうれしかった。
 不思議だと思う。長いこと親友をやってきた沙希だけれど、一緒に暮らして子供を育てるという経験を共有してきた今、千秋にとって彼女は、「家族」としか言いようのない存在になってる。
 翔一もまた、そう、単なる「親友の夫」ではない。かといって恋愛じみた感情なんてこれっぽっちも抱きようがない。本当の弟のような、というのも少し違う。それでも大切な、やはり「家族」としか言いようのない存在。
 そして彼らもまた、同じように自分のことを考えてくれているのが、千秋にはわかる。彼女が悠と天馬を分け隔てしないのと同じように、彼らも悠を自分の子供同然に扱ってくれる。彼らが遊びに行くときは必ず千秋と悠を誘ってくれるし、ときには悠だけを連れて行って千秋を骨休みさせてくれる。もちろん千秋が子供たちを預かって夫婦に恋人同士の時間をプレゼントすることもある。彼らの誰かが風邪をひいたと聞けば、なんとなく気にかかって、薬局でよく効く薬を探したり、天馬が熱を出したのに誰も仕事の都合がつかないということでもあれば、免許取り立ての車に彼を乗せて、病院に走ったりもする。
 いつも気にかけ合い、いたわりあう。そうしたことが、ごく自然にできるのだった。少しばかり形は変わっていても、これはもう、家族以外のなにものでもない。
 本当に、不思議だと思うのだ。愛し合って結婚したはずの相手とは、どうしても築くことのできなかった関係を、まったくの他人であるはずの人たちの中で、手にしていること。
 「家族」っていったい、なんなのだろう。なんだか可笑しくなってしまう。



 こともあろうに、昔のダンナである智史と、偶然再会してしまったのは、そんな風にすっかり落ち着いた毎日を送っていた頃のことだった。仕事の帰り、雑踏の中に、まったく変わらないその姿を見つけてしまったとき、反射的に逃げ出したくなった。職場の場所も、住むところもぜんぜん違う。共通の友人なんてほとんどいなかったし、彼の行きそうなところへなど、絶対に足を向けないように気を付けていたのに、今ごろになって、会ってしまうとは……。
 逃げよう。とっさに踵を返そうとする。だけど向こうがこちらに気付いたのが一瞬早く、彼が信じられないほど愛想の良い笑顔を浮かべて「よう」と手を上げ、雑踏をかきわけてこちらへ向かって来たときには、千秋の足はすでにいうことをきかず、地面に張り付いてしまっていたのだった。
「久しぶりだな、元気か?」
 まるで人の良い親戚のおじさんのような顔をして、彼は言った。千秋は一瞬、自分と夫の間にかつてあったことが、すべて妄想であったかのような錯覚に陥る。殴られたこと、傷つけられたこと。でも、胸の奥底に巣食う恐怖が、何気ない笑顔を返そうとして引きつった顔の筋肉が、あれは現実に起こったことなのだと告げていた。平和な日々の中にいる今、あの頃よりもずっと心が柔になっているのを感じる。情けない話なのだけれど、怖かった。これほど彼を怖いと思ったことは、初めてかもしれなかった。
「せっかく会ったんだ。これから飲みにでも行かないか?」
 満面の笑みを浮かべたまま、智史はとんでもないことを言った。こちらが暇に違いないと思い込んでいるらしい口調が一瞬、癪に障る。断ったところで何をされるわけでもない。すぐさま、断ろう。そう思ったのだけれど。
 数分後、見知らぬ居酒屋の片隅で、彼女は沙希に電話をかけていた。
「いいんじゃないの? 昔のダンナと旧交を温めるっていうのも。悪くないわね」
 皮肉交じりの口調で親友にそう言われ、いったい何をやっているのだろうと、自分でも情けなくなる。だけど本当に、どうしても首を横に振ることができなかったのだ、ただもう怖くて……。もう何年もたったというのに、夫を恐れる気持が昔よりも根深く心に残っていることに、なによりもショックを覚える。
「悠のこと、絶対に話すんじゃないわよ」
 さらにそう釘を刺され。
 彼が悠の父親であることを、初めて思い出した自分は、救いようのないバカだと思った。

「最近、どうしてるの? 再婚してずい分になるんでしょう?」
 運ばれてきた生ジョッキを元夫に手渡しながら、千秋はたずねた。こちらの近況を突っ込まれれば、嘘の苦手な彼女は、何を言ってしまうかわからない。ともかく会話の主導権を握ってしまうに限る。精一杯のにこやかな笑顔は、一世一代の名演技だった。
 智史は、と言えば、急に愛想良くなった元妻の様子を疑問に思うこともなかったらしく、その言葉を待っていたかのように、ポケットの定期入れから、1枚の写真を出して、テーブルの上に置いた。何も言われなかったが、見ろということなのだなと思い、千秋はそれを手に取る。
 名刺大の大きさの中におさまった家族の写真。見覚えのある周りの風景は、かつて夫の実家があったところだろう。見慣れた日本家屋はそこになく、作りからして2世帯住宅らしい、鉄筋の大きな家が建っている。その前に並んでいるのは智史と彼の両親、1歳ぐらいの女の子、そしてお腹の大きな奥さん。
 千秋はなんの感慨もなく、写真を彼に返した。
「2番目は、こないだ生まれたんだ」
 千秋の無反応を気にする様子もなく、機嫌の良い声のまま、彼は言った。
「また、女の子だった。俺たちは別にそれでよかったんだけど。親父がなあ、次は絶対後継ぎを産んでくれ、なんて、今から言い出しちゃって、困ってるんだ。まあ、ヨメがあとひとりぐらい作ってもいいって言ってるから、頑張ろうかとは思ってるんだけど」
「いい奥さんね」
 嫌味に聞こえないよう気を使いながら、千秋は答える。
「ああ、ほんといい嫁だと思う。お前も知ってるだろうけど、あの気難しい俺のお袋に、よく合わせてくれてるもんだよ。この2世帯住宅は、言ってみれば俺からあいつへのささやかな感謝の気持だな」
 機嫌よくしゃべり続ける元夫を前に、千秋は軽い違和感に落ち着かない気持でいた。この人、こんなによくしゃべる人だったっけ。結婚していたころは、不機嫌に黙り込む姿や、切れて怒鳴り散らすところしか、見たことがなかった。付き合っていた頃も、常に話題に気を使っているという感じで、口数は決して多くなかったはず。
 こうして今、にこにこ笑いながら親父のような自慢話を繰り広げている彼は、千秋の知っていた彼とは別人だった。仕立ての良いスーツを隙なく着こなしたその外見だけは、昔と同じなものだから、なんだか笑えてきてしまう。ああ、と自然に悟られてくるものがあった。これが、彼の本来の姿なんだわ。
 ともかく、今の智史は幸せなのだ。そして……千秋は机の上に置かれたままの写真に目をやった。かつて何度も自分に無言電話をかけてきた、あの女の子も。その満ち足りた幸せそうな笑顔は、決して嘘ではないように思える。もちろんいろいろと苦労はあるだろうけど、とにかく幸せなんだわ。
 だけど決してそれは「私の」幸せではない。自分が人生に求めていたものと、智史のそれが、あまりにもかけ離れたものであったこと。この写真を見ていると、しみじみわかった。彼女は置かれたジョッキの下で広がったグラスの染みから写真を救い出し、智史に差し出す。
「置きっぱなしにしとくと、汚れるわよ」
 彼は素直にうなずいて、それを受け取り、定期入れの中にしまった。自分はいったい、何を恐れていたのだろう、なんだか可笑しくなった。
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