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沙希のところへ預けていた悠を引き取りに行ったときには、ずいぶんと遅い時間になっていた。もう食事もシャワーも済ませ、ぐっすりと眠りこけている悠を見て、いったい自分は娘を預けて遅くまで何をやっていたのだろうと、一瞬、情けない気持になる。 申し訳ない……と思いつつ、迷惑のだめ押しで、沙希と翔一に智史のことを愚痴らずにはいられなかったのだけれど。 あれから少しばかり、雲行きが変わった。酒が進むにつれ、智史は少しずつ愚痴モードになっていった。大手だった前の会社とはあらゆる点で勝手の違う今の職場のこと。少なくなったお給料のこと。手のかかる子供たちのこと、その孫たちを際限なく甘やかす両親や、そのことに不満を漏らす妻のこと。嫁と姑の間柄も、さっき彼自身が自慢していたほど、実際には良好なものでもないらしかった。 この人、こんな風に深酒をする人だったっけ。どんなに冷たい、自分勝手な夫であっても、かつての彼にはある種の折り目正しさはあったと思う。愚痴を言ったり、甘えたりすることもなかった…いや、そういう甘えを千秋が許さなかったとも言えるのだけれど。 今の生活の中で、智史は相当に甘やかされスポイルされた夫であり、そして息子であることが、なんとなく見てとれた。だからこそ、ちょっとしたことでも気に入らない。たぶん、彼が自分の人生や生活すべてに満足することなど、きっとありえないに違いない。 だからって、昔の妻を相手にえんえんと愚痴ることもないでしょうよ。千秋は半ば呆れて、ぼんやりとそれらの話を聞き流していた。わずかに太ってしまりのない感じになった、その横顔を眺めながら。 とはいえ、こちらから言い出す前にその場を切り上げてくれたのは助かったのだけれど。 店を出たとたん、別のところで飲みなおそうと、しつこく誘われたのには、さすがに参ってしまう。 いったい彼は、昔の女房に何を期待していたというのか……。「いい女になったよな。昔はもっと、ギスギスした感じだったけど」、なんて言われても、うれしくもなんともない。何時の間にか彼は相当酔っていたらしい。適当に振り切って逃げようとすると、いきなり、ものすごい力で手首をつかまれ、乱暴に引き寄せられる。 あまりのことに、頭に血が上り、怒りに全身が熱くなった。彼はいまだに、私のことをいいようにできると思っている。力ずくで、どうにでもなる相手だと思ってるんだわ。 気が付くと千秋は、思い切り手を振り上げ、相手の頬を、張り飛ばしていた。バチーンと、ものすごい音が、通り中に響く。 「幸せなんでしょう? どうしてそれを自分からぶち壊しにするようなこと、するの? 感謝してるんでしょ? 奥さんに。だったらさっさと帰って、子守のひとつでも、手伝ったらどうなの。いつまでもこんなところで、ふらふらしてるんじゃないわよ!!」 結局、自分を苛立たせるのは元夫のそんな「わけのわからなさ」なのだと、啖呵を切りながら思った。あらゆることが不満なくせに、自分自身はどうしたいのかわからない。欲しいもの全てを手に入れておきながら、次から次へと手に入らないものを欲しがる。この男はいったい、どうすれば自分の人生に満足することができるのだろうか。今さら知ったことではない。だけど、これ以上、巻き込まれるのはたまらない。 智史はしばらく、頬を押さえながら呆然と千秋を見ていた。昔のように、また逆切れされるかと身構えたが、人目を気にしたのか、怒鳴り返されることはなかった。その片頬に、悔し紛れのような苦笑が浮かぶ。 「相変わらず、ぜんぜんわかってないんだな、お前は。男ってのは、どんなに幸せでも、いい女房がいても、浮気をするもんなんだよ」 人を見下すかのような口調でそう言ったきり、彼は千秋に背を向け歩き出した。そんなこと誰が決めた?と、思わずその背中に怒鳴りつけてやりたくなったのだけれど。 心なしか肩を落として歩くその後姿は、ひどく力なく悄然として見え、なんとも言いようのない虚しさと疲労感に、千秋はぐったりとなる。できることならもう、二度と会いたくない。いや、会ったとしても、今日のようについて行くことはもう二度とないだろう。彼が恐れるに足る相手でないことは、とっくにわかっているのだから。 長いこと恐怖に縛られていた心が、ようやく今、解けてゆくのを感じる。 だけど、どうしたって「勝った」という気持にはなれなかった。 意外なことに、この顛末は沙希と翔一にものすごくうけた。ことに翔一は千秋の話をひどく面白がり、ぜんぶ笑い飛ばしてくれたものだから、なんだか気が楽になる。 「なんか、最高じゃん。千秋さんのダンナって。普通、いまどきいねえよな、そういうやつ。沙希さんの前のダンナも笑えるやつだったけど。千秋さんの方が勝つかも。あー、面白れー」 なんて言われ、涙が出るほど笑い転げられれば、いつまでも深刻な気持でなんかいられない。だけど千秋にはなんとなく、わかっていた。それが彼一流の思いやりなのだということを。 そんなやつ今時いない、と言った彼だけれど、職業柄、本当はその手の夫の話は嫌というほど聞いてきているはずだった。もっと悲惨な話、深刻な話も知っているに違いない。だからこそわかっている。泣くに泣けない、笑い飛ばさなければやってられない、当事者たちの気持を。だからこそ、人の気持を軽くするやり方を心得ている。彼が「家族」として自分たちの側にいることを、今日ほどありがたいと思ったことはなかった。 でも、その反面……。「ごめんね」と千秋は胸の中で翔一に謝る。これほど思いやりに満ちた空気の中にいながら、ふと、泣きたいほどにたまらなく懐かしくなってしまったのだ。 あの、怒りに燃えた瞳、感情を押し殺した静かな声を。 お前は悪くない。悪いのはあいつだ。そんなに、自分を責めんな。 驚くほど真っ直ぐに、彼女の心に届いた、あの言葉を。 「ともかく、悠のことはばれずにすんだわけね」 帰る時に沙希に聞かれ、千秋は、あ……と思った。悠のことどころではない、智史は延々と自分のことを話すばかりで、千秋の近況など一言もたずねはしなかったのだ。 彼女は思わず苦笑を浮べながら、うなずいた。彼がそういう男であったことを、今ばかりは感謝すべきなのかも知れない。 「もう、用もないのに昔のダンナにふらふらついて行くんじゃないわよ」 沙希は別れ際にしっかり、釘をさした。「もう、大丈夫」と千秋は笑って答える。 ともかくも、今の彼と向き合ってよかったのかもしれない。ここへきてようやく、そう思えた。 家に帰り、悠を布団に入れてしまうと、さすがにどっと疲れが来た。それでも、いや、だからこそ心を蘇らせてくれる「何か」を求めて、千秋は机の上のノートパソコンを開いた。 求めていたものが、メールボックスの中にあり、彼女は情けないほど救われた気持になる。 Riku Osawa。 ローマ字の名前が差出人となったそのメールは、このところ、週に1度は千秋の元に届くようになっていた。なのにそれでも落ち着かず、彼女が毎日のようにメールをチェックせずにいられないことを、あの男の子は知っているだろうか。自分の求めるものがいつも、そこにはないことがわかっていながら……。 あれから3年、自分は世界一ラッキーなシングルマザーだと、千秋はずっと思ってきた。やり甲斐のある仕事があり、理解のある仕事仲間がいる。辛いこと、悲しいこと、全てを分かち合ってくれる沙希という親友がいて、本当の家族以上に大切な存在となった、天馬や翔一もいる。そして、1日に何度も彼女に微笑みを思い出させてくれる最愛の娘、悠がいる。 悠は母親の千秋があたふたしている間にさっさと成長し、自立し、まだ3歳だというのに、既に頼もしい存在になってくれている。おかげで彼女は思っていた以上に早く、「母親」として以外の自分を取り戻すこともできた。沙希や翔一の協力もあって、数ヶ月前から島崎の店でのステージも再開していた。 自分でも驚くほど、順調にここまできた。世間一般に思われているような、母子家庭の苦労や孤独は、彼女には無縁の話だった。それは、彼女を愛し、サポートしてくれる人たちのおかげだったと思う。本当に幸運だった。感謝しなくてはならない。 なのに、ときおり思わずにはいられないのだ。自分の人生には、決定的に何かが欠けていると。 陸……。千秋はその名前を胸の中で呼ぶ。受け止めかねるほどの怒りを彼女の元夫に向け、悪いのはあいつだと、はっきり言ってくれた男の子。あれほど彼女の心に深く入り込み、寄り添ってくれる人は他にいない。 今日、何度も何度も、思い出していた。雑踏の中に智史の姿を見つけてしまったときも、うんざりするような愚痴や自慢話を延々と聞かされ続けていたときも、あの健やかな男の子と、どこか色褪せた目の前の元夫を、何度も比較せずにはいられなかった。沙希や翔一と笑い合っていたときですら、あのお陽さまのような笑顔が恋しくて仕方なかった。いや、もう認めるしかない。今日だけのことではなく、昨日も、一昨日も、その前も、あの飛行場での別れからずっと、陸のことを思い出さない日なんて、一日もなかったのだ。あれからもう何年もたったというのに。 何度追い払っても、忘れようとしても、気が付くと心のどこかに居る。 智史のことをとやかく言えない。自分だって、幸せな日々を送りながら、決して手に入らないものを欲しがっている。彼と違って、千秋の欲しいものはただひとつだけ。だけど、それがどうしたって手に入らないものであることには、変わりない。 彼女は陸からのメールを開く。その内容はいつも、あまりにもさりげなかった。思わずくすりと笑わずにはいられないような微笑ましさに満ちていて、読むとほんの少し、元気になれる。そう、彼が高校生の頃、1日に何度も彼女の携帯に送って寄越したメールのように、無邪気で他愛のないことばかりが綴られている。 だけど、彼が心の深いところで、本当は何を考え、何を感じて日々を暮らしているのか、そこからはまったく読み取ることができなかった。 1年ほど前、ずっと音信不通を通していた陸から、突然手紙が届いたとき、本当に驚き、心を乱され、何かが繋がったような思いに、胸がどきどきしたものだけれど。 少しずつ手紙の数は増え、千秋が沙希から譲り受けたパソコンを使うようになってからは、電子メールとなって当たり前のように週に1度、届くようになったその便りに、彼女は少しずつ違うものを感じ取るようになっている。 彼は吹っ切れたんだわ、きっと。こうした他愛もないことを平気で書いて寄越せるほど、自分のことを何とも思わなくなった。まったく音沙汰のなかった空白の数年間で、彼はどうにか過去を断ち切り、自分の気持に整理をつけ、以前のように「大親友」として、千秋と関わってゆく自信を取り戻したのだろう。 それでいい、とも思う。それこそがずっと、千秋が彼に望んでいたことだった。ただひたすら、前を向いて突き進んでいって欲しいと……。だから感情の温度も揺らぎも感じられない彼の便りを、寂しく思う云われなどなく、同じようにさりげなく他愛ない言葉に満ちたメールを返し、「大親友」として、こちらがもらった元気の分だけ、異国でひとり頑張るあの男の子に、エールを送ったりもするのだけれど。 メールボックスに彼の名を見つけると、いつも少しだけ舞い上がり、うれしくなる。だけど、読み進んでいくうちに、心のどこかが、かすかにちくちくと痛み始めるのを、千秋はどうにもできない。あんなに遠くに行ってしまった男の子に、今さら自分は何を望んでいるのか。彼がそう在ってくれることが、ずっと千秋の望みだったはずなのに。 その文面のそこかしこに見られる屈託のなさが、どうしようもなく胸を刺すのだ。 遠い空の下、陸がその便りとはうらはらの、深く重い屈託の日々を生きていることを、千秋は知らない。 |
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