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孤独と決意を胸に、海を渡った陸を待っていたのは、薄暗く長い迷路だった。 どこを歩いているのかもわからない、どこがゴールなのかも、たどりついた先に何が待っているのかもわからない、長く暗く、果てしない迷路。そんな道を、彼はただやみくもに歩き続けることになった。 とはいえ、世界最強の楽天主義者である彼が、その事実に気付くのは、何年もたってからのことなのだけれど。 たったひとりニューヨークの空港に降り立った彼が、まず最初に決意したのは、「千秋を忘れる」ということ。抱きしめた華奢な身体の感触も、触れ合った唇の熱さも、そのままの形と温度で、まだ腕の中に残っている。だからこそ、忘れなくてはと思った。 別れ際になって感情に流され、あんなことをしてしまった自分を、彼女がどう思ったかはわからない。あのまま、何も問わず、背を向けて来てしまったのだから。 同じように、あの涙の意味を問うこともできなかった。だからもう、彼女の真意を、その心の底にあるものがなんだったかを知る術はない。 だけど千秋の望んでいることなら、初めからイヤになるほどわかっているんだった。迷わないこと、振り返らないこと。ここまで来てしまった限りは、ただひたすら前を向いて突き進んで行くこと。俺は誰よりも早く大人になるために、ここへ来たんだから。そうだろ? 千秋。 彼はバックパックを背負って、雑踏の中を足早に歩いた。やるべきこと、行くべき場所は沙希に叩き込まれていたから、迷うことなんてなかった。 入国審査をくぐりぬけ、両替をし、バスに乗る。しかるべき場所でバスを降り、地下鉄に乗り換える。堂々としたものだった。彼がたった今、初めての異国に着いたばかりの留学生だなんて、誰が見ても思わなかったに違いない。 結局彼は、一度も迷ったり立ち止まったりすることなく、ニューヨーク郊外にある留学先の大学にたどりいた。上々だ……と、胸の中でつぶやく。この調子でどこまでも真っ直ぐ歩いて行こう。 何を目指して? そんな問いがふと、心のどこかでこだまのように響く。 その声を無視して、彼は大学の門を通り抜け、ごった返すキャンパスへと乗り込んで行った。 エキサイティングな日々が始まった。陸の暮らす大学内の寮から、電車で1時間もかからない場所に、彼が夢中になって読んだ本や写真集と同じ世界が広がっていた。 日本にいたころと同じように、ひまさえあればカメラを持って街に飛び出して行く日々。だけど彼を取り囲む世界のスケールの大きさは、以前の比ではなかった。撮りたいもの、撮るべきものなら無限にある。これならどうにかやっていける。その安堵にも似た思いは、確信に近いものだったはずなのだけれど。 次から次へと押し寄せる、やらねばならないことの波に、「撮りたい」という気持が飲み込まれてしまったのは、いつのことだっただろう。本人にまったく自覚はない。 留学を思い立って半年で渡米、しかも着いていきなり4年制大学に入学という、暴挙ともいえるスケジュールで留学を果たした彼は、他人の100倍以上も頑張らなくてはすぐについていけなくなるだろうということは、沙希や他のスタッフたちに嫌というほど聞かされていたことだから、覚悟は出来ていた。 実際、ひよっこの留学生である彼を待ち受けていたのは、うんざりするような基礎の繰り返しと、いくらやっても追いつかない英語の勉強。何も考えず、与えられた課題を、ただ黙々とこなす日々。だけど、自分がその過酷さを心地よく感じ始めていることに、彼は気付いていただろうか。とりわけ、何も考えずにすむことの気楽さを。 彼は張り切っていた。周りの連中に、「ヘンなやつだ」と訝しがられながら、普通の人間ならとっくに音を上げているであろう地味で過酷な勉強の日々を、楽しげに乗り越えていった。そしていつしか、撮りたいものを撮るためにカメラを持つことも、撮るべきものを探して電車に乗ることもなくなっていた。それは忙しく、時間がないからなのだと、本人は思っていたのだけれど。 ともあれ、留学生活最初の1年を、陸は優等生として終えた。だけど本当の試練は、そこから始まる。 最後のストロークが、かすかにざわめくホールに吸い込まれていく。千秋は目を閉じて、その音が完全に消えるのを待ってから、立ち上がって客席に一礼した。あたたかい拍手が彼女を包み込む。 数年ぶりに歌を再開してから、3度目のステージだった。3度目にして、ようやく歌に入り込めるようになったかもしれない、ほどよく埋まった客席を前に、半ば夢うつつのまま彼女は思う。心は半分歌の世界に残ったまま、熱をもっていた。とても懐かしい、その感じ。一瞬、現実を忘れ、無意識に視線が客席の真中あたりをさまよっていた。 当然、そこに居るべき人の姿を見つけられず、彼女は少し切ない気持になった。 楽屋で少し島崎と話し、そろそろ帰ろうとホールに出ると、見知った顔が客席で手を振っていた。あ、懐かしい。ちょっぴりうれしくなって、千秋は笑顔を返す。 陸の友人の、亮二だった。 「次のライヴの打ち合わせがあって、来てたんだ。千秋さんが復帰したって、前から話には聞いてたけど、まさか今日、歌が聴けるとは思ってなかったよ。すっげえ、ラッキー」 仕事帰りだという彼は、何年も前からそうであったかのようにスーツ姿も板につき、すっかり社会人の顔をしていた。就職先の弁護士事務所で忙しい日々を送りながら、以前と同じバンドで、息抜きのような形で時々ライヴをやっていると、前に島崎から聞いた話を思い出す。 とはいえ高校生の頃から、そうとは見えないほど大人びた風貌をしていた彼だったから、千秋の目にはあまり当時と変わらないようにも映る。まっすぐに人を見て、こちらが赤面してしまうようなことを照れもせず言うあたりも昔とおんなじで……。 「陸がきいたら、きっと悔しがるだろうな。こんどメールで自慢してやろ」 そんなことを言われ、千秋は赤くなった。 「先月、NYに行ってあいつと会ってきた。元気そうだったよ」 懐かしさに後押しされ、勧められるままにテーブルに座った千秋に、亮二は屈託なく笑って言った。話題がどうしたって共通の友人、陸のことになるのは当然の成り行きというもので……。もともとあちらに住んでいた彼は、今まで何度か陸に会いに行っているらしかった。 亮二より半年遅れで入学した陸は今、4年生。時おりやり取りするメールから察するに、卒業を控えて充実した日々を送っているようだ。ただ、彼自身はそのことに触れはしないが、かなりオーバーワーク気味なのも確かなようで、そのことを千秋は密かに心配していたのだけれど。 「何せめちゃくちゃ忙しいみたいだよ。勉強だの課題だの、最近ではボランティアまでやってるって言ってた。元気は元気なんだけど、なんか、会うたび痩せてってるような気がする」 亮二も同じだったようで、気がかりそうに表情を曇らせて言った。 「あいつ、結局向こうへ行ってから、いっぺんも日本へ帰ってきてないんだよ。親にもさんざん言われてるらしいし、同窓会やるからたまには戻って来いって俺たちが何度言っても、忙しいの一点張りで。……ったく、わざわざこちらから会いに行ってやんなきゃならないなんて、何様だろうね、あいつは」 「うそ、一度も帰ってないの?」 さすがに少し驚いて千秋は聞き返す。それは初耳だった。こちらが知らないだけで、盆や正月ぐらいは当然里帰りしているだろうと思っていた。わざわざここまで会いに来ないだけで……。 「これ、言っちゃっていいのかどうか、わかんないんだけど……」 そう言って亮二は少し思案する様子を見せた後、再び口を開いた。 「これってもしかしたら、千秋さんのことがあるからじゃないかな。あいつ、昔から、千秋さんに会ってしまえば留学も何もかも放り出しかねないとこあったから……。本人も自分でそれわかってて、よけい頑なになってるっていうかさ」 「まさ……か……」 まさかここで自分の名前が出てくるとは思わず、狼狽を隠して、どうにか千秋は答えた。不意に生まれた、胸がきゅっとしめつけられるような思いをもてあましながら。 「それでも、今はまだましなんだ。あいつ、最初の2年ぐらい、千秋さんに連絡すら取ろうとしなかったろ? あの頃は本当にやばかった。無理やりにでも日本に引っ張って帰ろうかって、俺、マジで思ったぐらいだから……」 その頃のことを思い出したのか、亮二は微かに苦笑を浮かべた。 何を撮ってもよい……そう言われたとき、陸は初めて、何を撮ってよいのかわからない自分に気付いた。2年生になったばかりの頃のことだ。 久しぶりに、カメラを抱えて街に出る。行きたい場所、見たいものなら数え切れないぐらいあったはずなのだ。なのに、何を見ても、どこへ行っても、新鮮な驚きや感動に出会うことはできなかった。何が何でも撮りたいと思えるものはなく、あらゆるものはファインダーをのぞいたとたん、あっという間に色褪せて見えた。 そんな風にして撮った写真が人の目をひきつけるものであるはずもなく……。 優等生であったはずの彼が撮ってくる、抜け殻のような写真を前に、担当教授は厳しい顔で何度も首を横に振った。 こんなはずじゃ、なかったのに。 1年間のガリ勉の日々のせいで、撮りたいという情熱など、いつの間にか潰えてしまったのか。あるいは、日本を飛び立った瞬間に、消えてしまっていたのか。 それとも、そんなもの、初めから自分にはなかったのか……。さすがの陸も焦った。大丈夫、そう自分に言い聞かせる。誰にだってそんな時期はある。スランプというやつだ。 だけど、本当は初めからわかっていたような気もするのだ。今も胸にとりついて離れないあの笑顔が、彼自身を、彼の周りの全てを輝かせていたのかも知れない、ということを。 日本にいたころに撮った写真を、ときおり引っ張り出して見てみる。それは、技術もへったくれもない荒削りなものだったけれど、確かに輝いていた。撮ることが楽しくて仕方がない、そんな思いが、切り取られた風景にあふれていた。 しょうがねえな、未練たらたらだ。どんなに忘れようと努力しても、いつも思い出してる。 あの身体を初めて力いっぱい抱きしめたときの、全身が痺れるような感動を、忘れられるはずもなかった。重ねた唇の熱さを思い出すたび、胸に電流が走った。どうしてあのとき……そう思わずにはいられない……どうして、一度は腕の中にあったあの身体を、手放してしまったんだろう。 あのまま、何もかも放り出して、どこかへ連れ去ってしまえばよかった。連れ去って、そして……。気がつくと、そんなことを考えてる。後悔が、彼をいつまでも過去に縛り付けていた。 撮れないのは、撮ることに情熱を感じることができないのは、そのせいなのだとわかっていた。 |
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