L.N.S.B [ Story - 44]
「陸――」
 名前を呼ばれ、振り返る。同じゼミの女の子が、全開の笑顔で走り寄って来た。
「次の授業、休講なんだって。時間空いちゃったから、一緒に映画行かない?」
 日系人の彼女は、お人形さんのような容姿に合わず、怖いもの知らずの突撃取材で、さまざまな「スクープ」を手にしてくることで有名な、好奇心のかたまりのような女の子だった。
 それはいいのだけれど、そのアグレッシブな性格を、時折何のためらいもなくこちらに向けてくるのは困ったことで……。
 ジャーナリズム科で勉強を始めて3年目の夏。大沢陸は、大学の仲間たちの間でもちょっと目立つ存在になっていた。残念ながら、作りだす作品のすごさ……ではなく、クールな優等生ぶりと、どこか超然とした雰囲気のおかげで。
 女の子には興味なし。かといってゲイでもない。人当たりがよく、人付き合いはそつなくこなすものの、いつも自分の周囲に対して上の空のような空気をまとっている。思うような作品が撮れないのも、理想が高すぎるからという噂もあって、その、どこか高次元で苦悩しているような印象が、女心にアピールするらしい。
 積極的なアプローチの末、すげなく拒絶されて玉砕する女子は数知れず。この女の子はその急先鋒……といったところで、会えばあの手この手で陸を口説きにかかるのがあいさつ代わりのようになっている。
 とはいえ陸の方も、もうあしらいは慣れたもので……。
「俺、その授業去年取ったし、どっちにしろ教授に呼ばれてるから無理」
 冷たく答えると、彼女は微塵もへこむことなく言い返してきた。
「いいじゃない、女の子とのデートを優先させなさいって教授も言うわよ。あなたはちょっと堅物すぎるんじゃないかって、いつも心配してるもの」
「時間があったら、映画ぐらい付き合うけど……」
 陸は苦笑して言った。
「でも、それ、デートじゃねえから」
 女の子は大げさにため息をつき、傷ついたようなそぶりを見せる。
「どうしてこんなにいい女が近くにいるのに、なびかないのよ。これもチアキって女のせいなのね」
「え……?」
 陸は思わず立ち止まった。身体中から、さっと血の気が引いてゆく。
「お前、なんでその名前……っていうか、まさか――?」
 先週末にあったクラスの飲み会で、いつになく深酒をしてしまった時のことを思い出す。
「何度も呼んでたよ、その名前。だからみんな知ってる」
「嘘だろ?」と陸は呆然としてつぶやいた。
 なんだかおかしいと思っていたのだ。月曜日に研究室に行くと、教授はやたら同情的な顔で、陸の肩をぽんと叩き、クラスの男たちは、何か問いたげな様子を隠していた。それまでなんだかんだと言い寄ってきた女の子たちも、何やら自分を遠巻きにしているような気がするし。
 何だかわからないけど、周りが静かになって助かった。そう、のんきに思っていたのだけれど。
 そういうことだったのか……いったん引いた血の気が、今度はあっと言う間に顔に集まってくる。
「り、陸、顔が真っ赤だよ。大丈夫?」
 クールな優等生で通っているこの留学生の、あんまりな反応に、女の子がひどく驚いたように叫んだ。彼女の顔を見ることができないまま、陸はたずねる。
「俺、何て言ってた?」
「何も……。あの時あなた、机に突っ伏して寝ちゃってたじゃない? 眠りながら、うわ言みたいに、何度もその名前ばかり呼んでた。だから事情はわからなかったけれど、でも、とにかくその人のこと本気なんだな、っていうのはみんなわかったよ。だから誰も、何も言えなかったの」
 ひどい脱力感に襲われ、陸は目を閉じた。重傷だ。酔いに任せてあいつの名前を連呼するなんて、最悪にもほどがある。
 眠れない夜が続いていたことは確かだった。だからさして飲みもしなかったのに、酔いつぶれてしまったのは仕方がないかも知れない。
 その頃、陸は相変わらず、抜け出せない袋小路の中にいた。
 あんなに辛い気持であいつに別れを告げて来たのに、俺、何やってんだ。日毎に深く心を蝕む悔恨の思いから目をそらそうと、ますます躍起になって街を歩き回ってみても、結果は出ない。撮るのが辛くなっていた。代わりに止めようもなくふくらむのは、会いたくても会えない相手への思い。胸の中であふれだし、爆発しそうになってた。
 後にして思えば、この頃が一番辛い時期だったかも知れない。
 頭を抱えたまま、何も言えなくなってしまった陸を見て、女の子は苦笑した。
「本当に、本気なんだね」
 確かめるように聞かれ、陸はうなずくしかなかった。その顔を見て、彼女はすっかり戦意を喪失してしまったらしい。
 その代わり、その瞳に輝き始めたのは、ジャーナリストの卵としての好奇心。陸は、やばい相手に本音を漏らしてしまったことを悟る。
「大沢陸をそんな風にしてしまうなんて、その人、すごい人よね。ねえねえ、どんな人? 写真とかあるの?」
「いや、ねーけど……」
「ねえ、日本じゃ、どんなところでデートしたの?」
「そんなの、したことねえし」
「で……でも、今も連絡ぐらい取ってるんでしょう?」
「手紙も、出したことない」
「じゃあ、帰国したらどうするのよ」
「ど、どうだろ。わかんねえ……」
 矢継ぎ早の質問にたじたじと答えながら、なんだか情けなくなってくる。彼女は、気をそがれたようにしばらく黙った後、小さくため息をつき、同情の色を瞳に浮かべて「片想いだったのね?」とたずねた。
 陸は答えにつまる。
 気持を確かめ合う言葉も、共有する思い出も、将来の約束も、何もないまま、こんなに離れた場所にいる。ふたりを結びつけるものといえば、空港での涙と熱いキスと抱擁の記憶だけ。
 だけど、今となってはどうしても思えないのだ。自分の気持が一方通行に過ぎないものだとは。
 ひとり追憶に沈み込んでしまった陸に、彼女はかける言葉を失ってしまったようだった。しかし、その静寂は長くは続かなかった。不意に背後から押し寄せて来たざわめきに物思いを断ち切られ、陸は顔を上げる。
「何……? 何か、あったの?」
 彼女も振り返り、ざわめきが聞えて来る食堂の方を不安そうに見やる。……と、カメラを胸に下げた学生が、こちらの方へ走って来るのが見えた。同じ研究室の同級生だ。
「大変なことが起こったぞ」
 彼は二人の前で立ち止まり、青ざめた顔で言った。
「○○ショッピングセンターで、爆破テロがあった。建物の半分が吹き飛ばされて、かなりの死傷者が出たらしい」
「嘘でしょ――?」と、彼女が震える声でつぶやく。陸も衝撃を受けた。
 ○○と言えば、この大学から地下鉄で2駅のところにある大きなショッピングセンターだった。学生たちが、買い物といえば必ず行く場所だったし、アルバイトをしている者も多いはず。陸自身、昨日カメラの部品を買いに行ったばかりだ。
 あの同時多発テロ事件以来、このNYでテロが繰り返されることなどありえないはず。なのに、こんなに近い場所でそれが起こってしまうなんて……。この街の過酷な現実を改めて思い知り、身体が震え出す。
 撮りに行ってくる、と走り去った同級生の後ろ姿を呆然と見つめていた彼女は、「私も、行かなきゃ」とつぶやき、カメラの入った大きなカバンを抱えなおした。
「あなたも、行くでしょ?」
 そうたずねられ、陸は反射的にかぶりを振った。
「どうして? まさか野次馬みたいで嫌だ、とか言うんじゃないでしょうね」
 彼女の瞳が険しくなる。
「こういうことを仕事にするために、ここに通ってるんだよ。今、撮りに行かなくてどうするの」
 厳しい言葉が、胸に突き刺さる。だけど彼はどうしても、その場から動くことができなかった。ただ、胸の中に広がるのは「撮りたくない」という強烈な思い。
「これは、俺の『仕事』じゃない……」
 陸は静かにそう答えた。そう答えるしかなかった。人の不幸や、無残な事件を撮るのは俺の仕事じゃない。理屈ではなく、ただそう思えてならなかったから。
 彼女が呆れたように肩をすくめ、行ってしまった後も、陸はただその場に立ち尽くし、行き交う学生たちの「何人が死んだ」「誰が死んだ」と、騒然と交し合う声を聞いていた。



 結局、陸がその場所に足を運ぶことができたのは、それから1ヶ月後のことだった。
 それも、自ら進んでのことじゃない。相変わらず満足な写真が撮れない陸に業を煮やした教授が、課題として、事件の跡地を撮ってくるように命じたのだ。
「君は一度、無残な現実をありのままに見て、写し取ることを覚えた方がいい」
 教授は断固とした口調で言った。少し抵抗を試みたものの、逆らい切れず、陸はしぶしぶ地下鉄に乗って、その光景と対峙したのだった。
 想像以上に大きな事件だった。休日のショッピングを楽しんでいた人々や従業員、不運にも偶然前を通りかかった人など、数十人もの命が失われた。被害者にはやはり少なからぬ数の、この大学の学生が含まれていたという。大学では大規模な追悼集会が開かれ、陸の周囲でも多くの学生が、事件の後処理や遺族の心のケアなどにボランティアとして関わっていた。
 陸はといえば、自分に何ができるだろうと思案する思いはあっても、どうしても動き出せないでいた。それだけ、彼の弱った心はありのままの現実を受け止める力を失っていた、ということなのかも知れない。
 だけど今、陸は目の前に広がる光景から目を離すことができなくなっていた。
 かつて華やかな街の一角を形作っていたガラス張りの建物は、すでに解体され、原型を留めていない。そこにあるのは、瓦礫や鉄骨に覆いつくされた荒地。張り巡らされたロープの内側には、たくさんの花束が捧げられている。
 目を逸らしたくなるのは、今も同じだった。自分が遠い日本から追い求めてきた、この街の輝いた部分とは真逆の光景。政治だの、宗教だの、難しいことはわからない。だけど、何より彼を打ちのめしたのは、この街では誰の身にも同じことが起こりうるという事実だった。
 もし、俺がその時この場所にいたなら……。
 もう二度と、千秋に会うこともできなかったのだ。そう思うと、足が震えてくる。
「大丈夫か?」
 座り込んでしまった陸に、不意に背後から声がかかった。振り向くと、見知らぬ黒人の男が、気がかりそうにこちらをのぞきこんでいる。陸はあわてて立ち上がり、うなずいたが、青ざめた表情を取り繕うことはできなかった。 
 男は何かを誤解したのだろう。彼を手で制して再び座らせ、自分もその隣に腰を降ろした。
「俺は、ここで、娘を亡くしたんだ…」
 男は唐突に、しかし自然な調子で話し出した。陸は少し驚いて彼を見る。疲れとあきらめの滲み出たその横顔は、最初の印象よりずっと歳を取って見えた。
「いろいろあって、ずっと疎遠になっていた。すぐ近くに住んでいたのに、もう何年も会ってなかった。本当はもうとっくにあの子を許していたのに、会おうと思えばいつでも会えると思いながら、長いこと連絡を取ることもせずにいたんだ。今さら後悔したって何にもならないが、毎日のように、ここへ来ずにはいられない。じっとしていられなくてな」
 そうして男は少し笑い、陸にたずねた。
「あんたも、ここで、大切な人を?」
「いえ……」陸はあわてて首を横に振る。
「俺は、そういう人を……亡くしたわけじゃない。ただ、ずっと会えないだけで――」
「そうか、だったら、手遅れになる前に、今すぐ会いに行きなさい……と、言いたいところだけどな……」
 男はそう言ってにやっと笑い、そして真顔に戻って言葉を続けた。
「人にはそれぞれ事情というものがある。あんたも何か、どうしても会えない理由があるから、そんなに苦しんでいるんだろう。でも、それでも感謝すべきだよ、その人が元気で生きてくれていることに。互いに元気でいればいつかは会える、なんて、ありきたりな言葉だけれど真実だ。必ず会えるよ。あんたが、自分の帰る場所はそこしかないと思うならね」
 自分の帰る場所はそこしかないと思うなら……陸は思わず、日本語でその言葉を繰り返していた。男は、少し訝しげな顔で陸を見たが、自分の言葉が相手の胸に届いたことはわかったのだろう、にっこり笑って、彼の肩をぽんと叩いた。
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