L.N.S.B [ Story - 45]
 あのとき、彼を呼び止めて話を聞き、写真を撮っておけば良かったと、陸は今でも思い出すたび後悔の思いにかられるのだ。
 呆然としてしまった陸を置いてそのまま立ち去ったあの男は、2度と彼の前に姿を現すことはなかった。「毎日のように来ている」と言っていたのに、何度あの場所を訪れ、探し回っても、見つけることはできなかった。
 よくわからないけれど、何かがあったのだろう。彼自身が言ったように、「人にはそれぞれ事情というものがある」のだ。
 通りすがりに現れて、ふっと消えてしまった見知らぬ男の言葉が、人生を変えることがあるなんて……考えてみれば、何だか可笑しい。だけどそれは、単なるきっかけに過ぎなかったような気もするのだ。
 本当に彼の目を開かせたのは言葉そのものではなくて、すぐ近くにありながら気付くことのなかった当たり前の真実だった。愛する人が、今も遠い空の下で元気に生きてくれているということ、そして、どんなに遠回りをしても、自分の帰る場所は彼女のところ以外にないのだということ。
 そんな事実に背中を押されるように、陸はそれから毎日この場所に通い、シャッターを切り続けた。愛する人に花束を捧げる遺族たち、立ち止まって十字を切る通行人、瓦礫の隙間から芽吹く若草、荒地にできた水溜りに反射する雨上がりの光……。この上なく悲惨な現実がそこにあるはずなのに、彼の撮る写真は人と人との絆と、再生への希望を感じさせた。
「私は信じていたよ。君は必ず、あの光景から何かを見つけ出してくれるとね」
 それらの写真を目にした教授は、満足そうにうなずいて、陸に言った。
「悲惨な現場そのものではなく、そこにある人々の思い、人生、希望……そういったものを映し出す力が君にはある。もう大丈夫だ。このままひたすら、撮り続けなさい」
 その言葉を聞いた時、身体中の力が抜けるほどの安堵が、陸の胸を満たした。もう、大丈夫。何があっても俺は、自分自身の写真を撮り続けることができる。
 だから彼は、それまで絶対にやるまいと決めていたことを、ひとつ、自分に許すことにした。



「あいつから、今もメール来るんだろ?」
 亮二にたずねられ、隠してもはじまらないから、千秋はうなずく。彼は笑って言葉を続けた。
「また1日に2度も3度もメールして来てんじゃないの? 高校のときみたいに」
「まさか、1週間に1度ぐらいよ。内容は、あの頃とあんまり変わってないみたいだけど」
「先生に怒られたとか、学食のメニューが変わったとか、今日の体育は寒くて辛かったとか?」
「まあ、同じようなものかも」
 不意にこみ上げた懐かしさと可笑しさに、思わず笑い出しながら、千秋は答えた。
「あいつ、ちょっとでもネタ見つけると、すぐにケータイひっぱり出すんだよな。授業中にやって、先生に怒られても、休み時間になったらけろっとして、すっげえうれしそうな顔で、メール打ってやんの。本人がなんと言おうと、これは恋だなって思ったよ。あそこまで人を好きになれるってことが、ほんとに羨ましかった」
 彼はしみじみと言った。切なさが、千秋の胸をわずかにしめつける。
「千秋さん……」
 亮二は不意に、改まった様子で千秋の方に向き直った。わけもなく、どきりとしながら、千秋はその視線を受け止める。
「今だから言えるけど、あいつ、あっちへ行ってしばらくの間は本当に別人みたいだった。すっげえ煮詰まって、悩んで、よくわかんないままやみくもに走ってるっていうかさ。それが落ち着いたの、千秋さんと連絡取るようになってからなんだ。やっぱり、あいつは、千秋さんがいないとだめなんだと思う。だから、千秋さんも忘れないでいてやってよ。待っていてやって欲しい、あいつのこと」
 千秋はただ、言葉もなく亮二を見つめた。あまりにも思いがけない事実を、どう受け止めて良いのかわからなくて……。ただ、心臓が痛いほどに波打っているのを、どうすることもできない。彼女はうつむき、小さく息をついて、胸に手を当てた。
 そんな千秋を見て、亮二は「やばい、言っちまった…」と、困ったように笑った。



 最初の2年間、陸が千秋に1通の手紙も出さなかったのは、彼女がそんなことを望まないのをわかっていたから。もはや千秋ののそばに居られない自分が、いつまでも後ろを振り返っていても意味がない。彼女の心を乱してしまうばかりだと思ったからだった。
 だけど本当言うと、それは彼にとって、相当な忍耐力を要することだった。
 今、ここに彼女と自分を結びつけるものは何もない、そのことはいつも、彼を寄る辺なく不安な気持にさせていた。このまま繋がりが断たれ、会えなくなってしまうのなら、今、自分がやっていることにはなんの意味もなくなってしまうような気がして……。
 自分が今、感じてること、考えてることをあいつに伝えたい。電話をかけて、声を聞きたい。いや、今すぐ飛行機に飛び乗って、あの笑顔に会いに行きたい。そんな衝動を、彼は何度、胸の中で握りつぶしてきたことだろう。結局日本に一度も帰らなかったのも、帰ってしまえば絶対に会いに行きたくなるに決まっているからだった。そして、会ってしまえば、何もかも放り出して日本に留まりたくなるに決まってる。だからってそんなにストイックになることないじゃないかと、亮二には言われたけれど。
 千秋の望まないことは、ぜったいにやらない。それが昔からの、彼が無意識に持ち続けてきたスタンスだった。何も聞かなくても、彼女の胸の内は嫌になるほどわかってしまうだけに、いつも彼はそうするしかないのだった。
 だからそれは陸にとって、彼女の気持よりも、自分の気持を優先させた最初の行動ということになる。留学3年目にして、初めて千秋に1通の手紙を出したこと……。
 とは言っても、そう大したことを書けたわけじゃない。心の奥底をぶちまける勇気なんて当然あるはずもかった。淡々と不器用に近況を綴っただけのその手紙を、千秋はどう思ったかはわからない。
 ほどなくして、彼女から同じように淡々とした返事が返ってきて。
 陸はほっとしたような、寂しいような気持になった。
 その1通の手紙が、どれほど千秋の心を激しく揺さぶったか、彼は知るよしもない。

 それでも、そうして千秋とどこかで繋がっていられるという思いは、陸に勇気をあたえた。その頃からまた少しずつ、以前のように撮ることが楽しくなり始めたのは、偶然ではないと思う。
 グリニッジ・ヴィレッジ、チャイナタウン、セントラル・パーク、そしてハーレム。自分が本当に撮りたいのは、観光名所や美しい風景ではなく、街でありコミュニティであり、そして人であることも、だんだんわかってきた。
 人が集まるそうした場所へ行くたび、思い出すのは、千秋と出会い、たくさんの時を過ごしたあの街のこと。ハトにえさをやりながら、時を忘れて話を続けた公園。ともすれば目的地を通り過ぎてしまいそうになるほど、ただふたりで歩くことが楽しかったストリート。いつまでも最終電車の時間が来ないで欲しいと、密かに願った駅前の広場。それぞれの場所に、忘れられない「思い」があった。
 街に集まる人々の「思い」を知り、形に残したい。路上で遊ぶ子供たち、屋台の売り子、ストリート・ミュージシャン、デモ行進をするゲイたち、道端に作品を並べるアーティスト。様々な人たちの話を聞き、写真を撮ることに、彼はいつしか夢中になっていた。どこへ行っても堂々とその場にとけこみ、どんな人の心の中にでもするりと入り込めてしまう彼は、不思議と危険な目にあうこともなく、どんなにうらぶれた感じのする街角からでも、なんの変哲もない平凡な人からでも、必ず宝石を見つけ出し、形にして持ち帰るのだった。
 そうして集めた写真やインタビューを、フォトノンフィクションにまとめ、卒業制作として提出して、高い評価を得たとき、この4年間が決して無駄にならなかったことを、彼は知った。



 金曜日の夜、その日すべきことを何もかも終えた陸は、いつものように、パソコンの前に座る。
 こうして千秋にメールを送るのは、これで何度目になるだろう。初めて手紙を出して以来、しばらくぽつりぽつりと手紙のやりとりは続いていたが、それがメールに変わってからは、前よりも千秋を身近に感じていられることがうれしくて、便りの回数はずいぶんと増えた。本当は毎日でも書きたいところを、どうにか1週間に1度に抑えている。
 とはいえ、彼なりのけじめはつけている。それは、彼女の心を乱してしまうようなことは、絶対に書かないってこと。
 ときには、心の奥底にあるものを洗いざらい打ち明けてしまいたい気持になることもあったけれど、そうすれば、その内容は、千秋への抑えきれない気持や、思うように撮れない苦しみといったことになってしまう。シングルマザーとしての日々を必死で生きているであろう彼女を、いたずらに心配させたところで何にもならない。だから彼は、できる限りあたりさわりのない日々のことしか書かないと決めていた。
 それが時として千秋に寂しい思いをさせているとは、夢にも思わない彼だったから。
 部屋の外は静かだった。試験も課題もすべて終わり、後は卒業を待つだけの日々。アパートをシェアしている2人の留学生仲間は、それぞれ帰国の準備に忙しい。
 陸は、あと半年間、この国にとどまるつもりでいた。
 卒業後は教授に紹介された雑誌社で働く予定だった。半年、と期間を区切っているのは、ビザの関係もあるのだけれど、その期間を、あくまで日本での生活のための修行の日々だと割り切っているから。彼の中では、組織の中で働くことも、生活の100%を仕事に費やすことも、これが最初で最後の機会だった。帰国後はフリーランサーとして一匹狼でやっていく決意を固めていたし、日本での生活が始まれば、仕事以上に大切にしたいものができるだろうという予感があったから。
 もちろんそれは、今すぐ飛んで帰りたい気持を必死で抑えての、苦渋の決断に違いなかった。
 今、彼は、そのことをどうやって千秋に伝えたものか、空白のメールの前で、長いこと悩んでいる。
 簡単なことだった。ただ、事実をそのまま伝えればいい。あと半年、こちらにいることになったと書くだけでいいのだ。
 千秋は自分の帰りを待ちわびているわけではない。彼女が仲間に囲まれ、大変ながらもそれなりに充足した日々を送っていることは、彼女のメールの内容から察せられていた。彼にしたって、自分の中では、帰るところは千秋の元しかないと決めてはいるものの、それを言葉にして彼女に伝えたことはない。
 ずっとこちらにいるわけじゃない。たかが半年、帰国の予定が延びたというだけのこと。あれこれ理由を書かなくても、「頑張れ」という返事が返ってくるだろう。
 陸自身にとって、それは長い長い半年になりそうだという予感があったとはいえ。
 つけっぱなしのラジオから、古いR&Bが流れ出した。オーティス・レディング、ウィルソン・ピケット、サム・クック、O・V・ライト。それらの音楽はすべて、千秋の部屋で過ごした思い出と結びついていて、陸をどうしようもなく感傷的な気持にさせた。
 どうにか、帰国のことと、その理由を、短い言葉で打ち終えたとき、アレサ・フランクリンの歌う『ナチュラル・ウーマン』が流れ出し……。
 胸が激しくしめつけられるような切なさに、もはや彼は、溢れ出す思いを制御することができなくなっていた。



 その短いメールを読み始めたとき、千秋は「え?」と思った。なんだか、いつもと違う。
 帰国が半年延びたというその知らせが、ショックでなかったといえば、嘘になる。だけど何よりも、いつもにも増して淡々と綴られた言葉に、なぜだか胸は乱れた。そこにある、必死に押さえ込まれた感情を、彼女は無意識に感じ取っていたのかもしれない。
 そして、最後に書かれた言葉を見たとき、千秋は自分の目を疑った。
 うそ……そう思う間もなく、激しい感情が、彼女の胸をいっぱいにし、画面の文字がかすむ。

 いつも、お前のことばかり考えてる。
 会いてえよ。千秋……。めちゃくちゃ、お前に会いたい。

 半年後、彼女は、帰国の便と、「空港まで迎えに来て欲しい」という言葉が書かれた、陸からのメールを受け取ることになる。
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