L.N.S.B [ Story - 46]
 雑踏の中を歩きながら、少しずつ足早になっている自分に、千秋は気付いていた。
 生まれて初めての空港。大きなガラス天井や、動く歩道に、娘の悠は興奮気味だ。ともすればつないだ手を振りほどいて、走り出そうとするのを、さっきから何度も上着やスカートを掴んで引き止めていた。
 とはいえ、千秋の心も同じように暴走しかねない状況だったけれど。
 約束の時間に遅れているわけじゃない。なのにどうしてこんなに気持が急くのだろう。恐ろしいことは、早く済ませてしまいたい、そんな心境だったかもしれない。
「ねえ、早く行こうよ。こっちでいいの?」
 と、娘はまたしてもあさっての方向に走り出し。
「もう!! お願いだから、まっすぐ歩いてよ!!」
 思わず千秋は、叫んでしまう。
 めったに聞けない母の怒鳴り声に、虚を突かれた悠は、一瞬、おとなしくなる。それも束の間、次の瞬間、千秋は階段を登り損ね、段の角に思いっきりむこうずねを打ち付けて、座り込んだ。
「お母さん!! どうしちゃったの?! だいじょうぶ?!」
 娘の大げさな反応に、周囲の視線が集まる。恥ずかしくなった千秋は、ほんの少し、冷静さをとり戻した。

 待ち合わせの到着口には、結局10分早く着き、さらに時間を過ぎて10分待った。そうそう時間通りに出て来られるものではないとわかっていても、ふたたび理不尽に募ってくる不安は抑えきれない。
 永遠のような時間が過ぎる、もはや本当はどのぐらい経ったかなんて、わからない。
 焦りと不安が最高潮に達したとき、待ち焦がれていた相手が、ようやく姿を見せた。
 あちこちに視線を迷わせながら、人波をぬって歩いてくる背の高い男の子の姿が、あっという間に千秋の視界の中で、くっきりと浮かび上がる。すぐに目が合い、彼の動きが一瞬、ストップモーションのように止まった。
 その、ひどく驚いたような表情と、見開かれた瞳を見て、「迎えに来てほしい」と頼まれたのは、ひょっとして何かの間違いだったのだろうかと、千秋は不安になる。
 とはいえ、彼女もまた、同じような顔をしていたかもしれない。
 驚いたことに、陸はスーツを着ていた。ダークグレーのゆったりとしたスーツに、薄手のベージュのコートを羽織ったその格好は、冗談のように、今の彼に良く似合っていた。
 髪はすっきりと短くなって、昔のようにくしゃくしゃした感じではなくなっている。色を抜くこともやめたらしく、そのまんまのような黒髪が、痩せてシャープになった顔立ちを、より男っぽく見せていて、遠目に見ても、彼女をどぎまぎさせるほどなのだ。
 この人ごみの中で、よく見つけられたものだわ。なんだか陸じゃないみたい。
 背は、あの頃よりもさらに伸びたかもしれない。間近で向かい合い、焦ってその顔を見上げる千秋に、陸はようやく笑顔を見せて、
「ただいま」
 と、言った。
 その笑顔は昔と同じ、優しさと無邪気さが入り混じった、千秋の大好きな表情だったけれど。
 まぶしいような思いにどきどきしながら、千秋はどうにか「お帰りなさい」と、答えた。そして、
「びっくりした。なんだか、可愛くなくなっちゃったのね」
 と、思わず正直に付け加えてしまう。だけど、陸も負けてはいない。
「千秋は、なんだか可愛くなっちゃったんだな」
 同じようにまぶしそうな顔で、そう言葉を返してきた。

 平静を装いながら、陸の心の中も実のところ嵐だった。到着口を遠巻きにして待つ人々の中に、娘の手をひいて立つその姿が、確かに千秋であることに気付いたとき、あまりの驚きに固まってしまった。
 これって、ほんとに千秋だよな。何度も心の中で自問する。雑踏の中、偶然目が合うことがなければ、もしかすると通り過ぎてしまっていたかもしれない。
 あの、ぽきんと折れそうに細かった身体は、全体的に少しふっくらした感じになっていた。頬にも少し肉がついて、優しい顔をするようになった。それに、花柄のふんわりしたワンピースなんて、昔絶対に着なかったろ? そして何よりも彼を驚かせたのは、トレードマークだった長い髪がなくなっていたこと。
 彼とは逆に茶色っぽく染めた髪を、あごのところでそろえてくるんとカールさせ、まったく、可愛いいったらありゃしないのだ。そのくせ、以前よりもずっと柔らかく穏やかな笑顔を浮かべたその表情は、どこかしら大人の色気のようなものを感じさせ……。
 再会の感激よりも何よりも、ただもう魂を抜かれてしまったような心地になる。

 それきりお互いに言葉をなくし、どのぐらいの間、そのまま向かい合っていたのだろう。
 娘に何度もスカートを引っ張られ、千秋はようやく我に返った。
「そ…そうだ。お疲れのところ悪いけど、彼女にもあいさつしてやって。…ほら、悠」
 さっきからずっと、この「知らないお兄ちゃん」に話しかけたくてうずうずしていたらしい悠は、千秋に言われるなり前に出てくる。陸は何だかほっとしながら、母親と同じようなワンピを着てしゃれのめしている女の子の前に屈み込んだ。
 ふわふわとした茶色い髪に、線の細い顔立ち。一見、「おとなしげな美少女」という感じ。だけど陸がその顔を覗き込んだとたん、力のあるやんちゃそうな瞳が、まっすぐにこちらを見返してきた。
 まったく…そっくりじゃねーか。陸は一目でこの子を気に入ってしまった。にっと笑顔を見せて、あいさつがわりに「うっす!!」と、やったら、打てば響くように「うっす!!」と、返してくる。
 その瞬間、初対面であったはずの彼らは、あっという間に親友どうしになってしまったらしい。
「ほんと、お前の子供って感じだな」
 陸はそう言って笑い、悠を抱き上げた。

 その光景がなんだか奇跡のように思え、千秋は思わず、胸がいっぱいになる。こんな風に陸を空港に迎えに行く日が来るとは、ほんとはずっと、思ってもいなかった。同じ場所で彼を見送ったあの日から、二人は別々の人生を歩いていくものだと思っていたから。
 変な感傷にとらわれてしまった……千秋はあわててそんな思いを振り払い、すっかり意気投合してなんだかんだとふざけあっているふたりに声をかけた。
「行こう、家まで車で送ってくわ」
「車?」
 陸は不安そうに聞き返す。
「千秋、免許なんて持ってたっけ」
「悠が生まれてから取ったの。今じゃどこに行くにも乗ってるから、心配しなくても大丈夫よ」
 ガラじゃないと思うんだけどな。陸は力なくうなずき、悠の手を引いて千秋の後から歩き出す。悠の言葉が彼の不安に追いうちをかけた。
「お母さんの運転って、すっごく楽しいんだよ。ほんと遊園地みたいなんだから」



 千秋の運転に、また別の意味で魂を抜かれてしまったまま、実家についた陸は、待ち構えていた両親と島崎一家に嵐のような歓迎を受ける。
 しかしむしろ大歓迎されていたのは、5年ぶりに帰ってきた息子より、彼を送って思いがけず姿を見せた千秋たち親子であったような気がしたのは、気のせいだっただろうか。
 遠慮してすぐに帰ろうとする千秋を彼らはむりやり引き止め、そのまま大宴会が始まった。息子のアメリカでの話などそっちのけで千秋を質問攻めにし、悠を可愛がる両親の姿に、なんとなく釈然としない思いにかられながらも、その場面がうれしくないはずもなく、なんだかわけがわからないままに、陸は胸がいっぱいになった。どうしよう、俺、泣いてしまうかもしれない。
「良かったな」
 もう何杯目になるかしれないビールをつぎながら、叔父の言った短い言葉が、彼の感情に追いうちをかける。彼は、手洗いに立つふりをして、そのまま部屋を出なくてはならなかった。

「ごめんな、なんかえらいことに巻き込んじまって」
 眠ってしまった悠を抱いて、千秋を駐車場まで送りながら、陸は謝った。さっきまでのにぎやかさが嘘のように、夜は静けさの中に沈みこんでいる。思いがけず遅い時間まで、彼女を引き止めることになってしまった。
「ほんと、なんかえらいことに巻き込まれてしまったような……」
 興奮冷めやらぬといった顔で、千秋は笑って答えた。
「家の前で陸を落として、そのまま帰るつもりだったのよ。まさかお父さんやお母さんに会うことになるなんて……。日記のことやら家出のことやら思い出しちゃって、もう大変だったんだから」
「え?」と陸は驚く。「まだ覚えてたのか? あんな話」
「忘れるわけないじゃないの。あんなに面白い話」
 はるか昔にした、あんなくだらない話を、覚えていてくれるなんて。陸は不覚にも少し感動してしまう。
 千秋にしてみれば、あの頃、どうしようもなく沈んだ心の救いになってくれた陸との会話は、どんな些細なことでも忘れられるはずもなかった。それを素直に口に出せるような彼女ではなかったのだけれど。
 陸の感動をよそに、千秋はうれしそうに言葉をつなげる。
「それにしても、あんなに歓迎してもらえたなんて、嘘みたい。陸のお父さんやお母さんにしてみたら、私なんて、どう考えても得体の知れない女じゃない? どうしてあんな風に接することができるんだろう」
「うちの親って、天然っていうか、ニュートラルだから」
 それだけは、胸を張って言えた。いや、胸を張って言えることでもないのかもしれないけれど。でも、彼らは彼らなりに、千秋が陸にとって大切な存在であること、息子の飛躍的な成長の陰には彼女がいたことを、理解している。いくつ歳が離れていようと、恋人といえる存在であろうとなかろうと……。そういう人たちであった。
 自分自身にとって彼女がどんな存在であるのか……というより、彼女にとってこれから自分がどんな存在になれるのかが未知数なのは、辛いところだけれど。でも、今はそんなことまで考えられない。4年半の月日を飛び越えて、千秋がこうして目の前に居てくれること自体、いまだ信じられないような気持でいる陸なのだから。
 大切なこわれものを扱うように、陸は抱きかかえていた悠をそっとジュニアシートに座らせ、シートベルトをしめた。あのやんちゃな女の子も、眠ってしまえばお姫様のように可愛い。この動作を、これから先何度でも繰り返すことができればいいのに、なんて思いながら、ドアを閉め、振り返ると、その様子をずっと後ろから見ていたらしい千秋と目が合った。彼女はちょっぴり泣き出しそうにすらみえる、なんともいえない瞳に笑顔を浮かべて、「ありがとう」と、言った。
 月明かりに浮かぶ、その柔らかく涼やかな笑顔に、くらくらする。思わず手を伸ばして抱きしめたい衝動を、陸は必死で堪えた。
 どうして必死で堪えなくちゃならなかったんだろう。
 今さらのようにそんな疑問が胸に浮かんだのは、走り去る車を見送った後。
 会えない間、夢の中で何度その身体を抱きしめたかしれない。長い長い月日を経て、ようやく側にいられるようになったというのに……。何をためらっているんだろう。習い性となったストイックさは、そう簡単に消せないものであるらしかった。
 千秋を目の前にすると、心は簡単に、高校生の頃に戻ってしまう。
 ま、いっか、と、思う。時差ぼけの頭は、何も考えられないぐらい、ぼんやりとしていた。
 そんな風にして、長い長い陸の帰国後第1日目は終わった。こんなはずじゃ、なかったんだけどな。苦笑いと共に、彼は胸の中でつぶやく。
 飛行機の中で彼は、ずっとがちがちに緊張していた。再会したらすぐに抱きしめてプロポーズしようとまでに、思いを募らせていた。その時自分の中にあったこれからの展開は、ロマンチックなラブストーリーであったはずなのに、どこでどう間違ったのか、これじゃホームドラマだ。あまりの肩すかしに、笑うしかない。
 だけど今となってはそれが逆にうれしかった。あまりにもさりげなく、自然に、彼女が自分の人生に舞い戻って来てくれたこと。
 すべてはこれからだ。陸は夜空を見上げる。彼の本当の人生が、新しい戦いが、明日から始まろうとしていた。
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