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帰国後はどの組織にも属さずに、フリーのフォトジャーナリストとしてやっていくという陸の決意は、決して揺らぐことはなかった。いや、そのために半年間、着々と準備を進めてきたと言ってもいい。 アメリカの雑誌社で働いていた半年間、彼は自らワーカホリックに徹していた。遊ぶひまも、寝るひまも惜しんで技術を叩き込み、仕事の手順を覚え、帰国後の仕事につながるブレーンを作り上げていったのだ。短い期間にやり遂げねばならないという気迫があったからこそ、できることだったかもしれない。 さらには、思いがけないことが、彼の追い風となってくれた。卒業制作として作ったフォト・ノンフィクションが、何かの縁で、ある日本の編集者の目に止まって、新しいタイプのニューヨーク案内として日本語で出版されることになった。そして、その本が業界内でちょっとした話題になり、あるノンフィクションの新人賞を受賞したのである。 小さな一歩ではあるが、彼にとっては輝かしい第一歩に違いなかった。千秋の待つ空港へ降り立ったときの彼は、前途洋々の新進フォトジャーナリストと言えなくもない存在だったのだ。 もちろん、それだけでやっていけるほど、人生甘くもなかったのだけれど……。 帰国後しばらくの陸の日々は、あらゆるつてを駆使して、あちこちの会社を回り、きちんと生活してゆけるだけの仕事を取ってくることに費やされた。人当たりが良く、なにごとにつけ器用で、写真家、フリーライター、翻訳家の三役をこなせる彼は、それなりに重宝されたけれど、それは、ジャーナリストというよりも、便利屋としての扱いだったかもしれない。 そのことを彼はじゅうぶんに自覚していたのだけれど、今はそれでもいいと思っていた。 とにかく自立すること、生活してゆくことが先。やりたいことをやるのは、ずっと後でいい。 同じ理由で、彼はあちこちで持ち出される、正社員や契約社員として働いてはどうかという勧めも、すべて断っていた。自分の好きな仕事を、組織の中で続けてゆくというのは、ある意味滅私奉公を意味する。働いているうちに誰もが、純粋な仕事と「やりたい事」の区別がつかなくなり、労働条件もへったくれもない状況になってくるからだ。そして、雇うほうも当然、そこにつけこんでくる。 本来、陸のような年齢の人間であれば、それはまたとない成長の機会とも言えた。だけど今の彼には、自分の生活の100%を仕事につぎ込むことのできない理由があった。 朝から晩まで仕事に追われる日々を送っていては、千秋と悠の力になることもできない。 ただ単に、愛だ恋だの気持だけじゃない、これからの人生をあのふたりと共に生きていきたいという思いは、無意識のうちながらも、彼の中で強く固いものに育っていたのかもしれなかった。 だからこそ彼は、あえて帰国を延ばし、誰になんと言われようと、仕事、仕事の半年間を送ってきたのだった。おかげで日本で独り立ちする下地もできたし、自信もついた。 もちろん、フリーランサーとしての日々も厳しい。だけど、強靭な意志さえあれば、自分で自分の生活をコントロールできるものと彼は信じていたし、なんとしてでもコントロールしてみせる決意は、とっくの昔にできていたのだった。 とはいえ、陸のそこまでの思いを、当の千秋がどれほどわかっているのか、甚だ疑問ではあったのだけれど。 天気のいい日曜日、芝生に敷いたシートに座り、千秋はボール遊びをする陸と悠を、ぼんやりと見ていた。家族連れでごった返す海辺の大きな公園。遠くには、きらきらと光る波がわずかに見える。 陸が帰って来てから、ひと月が過ぎようとしていた。 あれから陸は、驚くほどすんなりと、あっという間に千秋や悠の人生の中に入り込んできた。まるでずっと前からそうであったと、千秋に錯覚を起こさせるほどに……。忙しい毎日の合間に、彼はたびたび千秋の部屋を訪れるようになり、留守がちなのを申し訳なく思った彼女が合鍵を渡すと、ノートパソコンを持ち込んで仕事をしながら、帰りを待っているようになった。 そして時には悠を保育園まで迎えに行き、夕食まで作ってくれる。その回数が、負担に思わせない頻度であるのもまた、心憎かった。 できるだけ、さりげなく自然に……。自分にそう感じさせるように、陸が内心どれほど心を砕いているか、千秋は知らない。あまりにもさりげなく目論見通りに事が進んだものだから、その穏やかな時間の心地良さと、事態に進展が望めなくなってしまった焦りの狭間で、ときおり彼が板挟みのような気持を味わっていることも……。 今度3人で遠出をしようと誘ったのは陸の方。「悠は、どんなところが好きなんだろ」と聞かれ、戸惑いながらも千秋が、遊園地も好きだけれど、彼女にはもっとのびのびと遊べるところがいいと思う、と答えると、あれこれ調べてこの場所を見つけてくれたのだった。 本当言えば陸の胸の内は、「これが初めてのデートだ」と、ずい分な張り切りようだったのだけれど、例によって千秋には、そんな彼の気持など想像もつかない。 考えて見ればこんなに人の集まるところへ、3人で来るのは初めてのことで、最初はただひたすら、緊張していた。あとのふたりは初めからずっと、はしゃぎっぱなしだったけれど……。 だけど、浜辺を歩いてきれいな石や貝を拾い、水族館に入ってイルカショーの水しぶきを浴び、悠にせがまれてアイスクリームを買い、大きな芝生の広場に出てお弁当を広げ、「とにかく飲め」と陸に無理矢理渡された缶ビールを飲み……なんてことをやっているうちに、緊張と共に不思議と現実感も薄れてゆく。あれ? なんだかおかしい。私たち、ここに集まる人たちの中に、きちんと溶け込んでる。 これってまるで、本当の「家族」みたいじゃないの。 ごく普通の家族連れが集まるこんな場所に陸と行けば、さぞ、浮いてしまうのだろうと思っていた。千秋は今でも覚えている。高校生だった頃の彼と歩くと、ときおり、「このふたりはなんなのだろう」と言いたげな視線を向けられることがあった。いかに彼が大きな身体と大人びた風貌をしていても、11の年齢差はどうしても表面に出てしまっていたわけで……。何よりもあの頃は千秋自身、彼といることがどんなに楽しくても、やはり心のどこかで違和感や居心地の悪さを感じずにはいられなかったのだ。 このふたりはなんなのだろう……他ならぬ千秋自身が、ずっとそんな疑問を心に抱いていたからなのかもしれなかったけれど。 今だって、陸はずいぶんと目立つ男の子だ。すっきりと痩せた身体は、それでも逞しさを失うことがなく、遠目に見ても格好が良い。少し伸びた黒髪は、ひきしまってちょっぴり思慮深い感じになった、その整った顔立ちによく似合っていて、これだけは昔と同じ、あの太陽のような力強い笑顔とのコントラストが、くらくらするほど鮮やかで、情けなくも千秋はときおりぼーっと見とれてしまう自分に気がついてる。 そんな彼が小さな女の子といっしょにいる図はさすがに人目をひかないわけにはいかず、やはり今でも彼らの横を歩いてゆく人々が、ちらちらとふたりに視線を送っているのが、遠くで見ている千秋にはよくわかる。だけどそれは決して、このふたりの関係がよくわからないという好奇の視線ではなかった。 驚いたことに、こうして千秋の目から見ても、彼らは親子に見えなくもないのだった。それだけの落ち着きと貫禄を、いつの間にやら彼は身につけていた、ということになる。 ましてや千秋との組み合わせにおいては、珍しそうな視線を送る者など誰もいなくなっていた。今や自分と彼は、ごく普通の対等な関係に見えるらしい。子供を連れていても不自然でないということは、ヘタをすると夫婦に見られてもおかしくないふたりであるらしい。 3人で雑踏の中を移動するうちに、そのことに気付いた千秋は、ほっとすると同時に、本当に驚いてしまった。陸と同じだけ自分も歳をとっているのは当たり前のことで、その年齢差は何年経とうと埋まるはずもないのに。 そして何よりも千秋自身、この男の子と肩を並べることに、不思議と何の違和感も抵抗も感じなくなっている。これって、どういうことなんだろう。考えずとも、千秋にはなんとなく、わかっていた。 彼は、大人になったんだわ。誰よりも早く。 彼女がそのことに気付いたのは、いつだろう。再会した瞬間なのか、それともその後の日々の中でなのか。 いや、それ以前、彼と交わしたメールのやり取りの中で、千秋は少しずつ、陸が変ってゆくことを実感していたのかもしれなかった。 特に、「会いたい」と書かれてあったあのメールから、彼はそれまで書くことのなかった自分の真情を、少しずつ千秋に打ち明けるようになっていた。あのときほどのフライングをすることはなかったというものの。 撮りたいもの、書きたいこと、将来の夢、帰国後の予定、そうしたことが綴られた便りを読むたびに、千秋の中で、陸が自分とはまったく違う世界を生きる男の子なのだという思いは少しずつ消えて行った。あの無邪気な笑顔が目の前にないだけに、メールの中の彼は不思議と大人びて、自分に近い存在に感じられた。 帰国前のあの半年間、はっきり意識することはないながらも、千秋は完全に、彼を自分と対等のひとりの男として見ていたかもしれない。彼女もいつしか、自分の心にあるものを素直に書き綴るようになっていた。 悠を育てていく上での小さな苦労や悩み、智史に出くわしてしまったときのこと(案の定、返事の中で陸は怒り狂っていた)、そして、穏やかな日々の中でときおり感じる虚しさや寂しさのこと。そんなことを書きながら、千秋はともすれば、彼が11も年下の男の子だということを、忘れてしまっていたかもしれない。 彼が返してくれる言葉は、千秋のそうした日々の思いを、いつも大きく包み込んで癒してくれたから。 いつの間にか陸は、同世代の男の子たちよりも、いや、その辺にいる「大人」と言われる人種の人たちよりも、ずっと大人になっていた。再び彼と共に居るようになったこの1ヶ月、千秋はただもう、そのことを実感するしかなかった。否定しようもなく……。 ボールを片手に、息を弾ませながら、陸が早足で戻ってくる。 「悠のやつ、ほんとタフだよな。俺、ついて行けねー」 彼はそう言って笑い、遊具の方へと走っていく悠を指さした。そして、少しぼんやりとしてしまっている千秋を見て、気がかりそうにたずねる。 「どうした? ひょっとして、もう酔ってる?」 千秋は笑って首を横に振った。 陸は「あー、疲れたー」と、シートの上にばたんと仰向けに倒れた。そして、ひとことふたこと、千秋と言葉を交わしていたのだけれど。 返事が返って来なくなったのを不審に思い、覗き込むと、彼は眠ってしまっていた。 元気そうに見えても、本当はよほど疲れていたらしい。この1ヶ月間、日本での基盤を作り上げる日々は、相当なハードスケジュールの連続だったのだろう。彼がこんな風に眠り込むところなど、見るのは初めてで。 少しばかり胸の痛みを覚えながら、千秋はいつまでもその寝顔を見つめていた。 こうして眠っているとやっぱり、「男の子」だわ、なんだかふと、可笑しくなる。 無防備な寝顔、彼のこんな表情を見たのは久しぶりのような気がする。 ということは、彼の日々は、いつも言いようのない緊張と共にあるのだ。帰国以来、いや、そのずっと前から、陸が走り続けていることを、千秋は知ってる。ねえ、どうしてそんなに無理するの? 静かな寝顔に、そう語りかけてみる。どうしてそんなに急ぐの? あなたは、どこへ行こうとしてるの? ふと、本棚の奥に大切にしまわれた一冊の本のことを千秋は思う。陸が初めて出した、ニューヨークの写真集。帰国する少し前、うれしさに弾むような言葉が並ぶ短い手紙と共に送られてきたその本は、何よりも大切な彼女の宝物だった。 だけど、ページのあちこちに溢れ出す輝きを初めて目にしたとき、彼女は内心、密かに覚悟を決めもしたのだ。彼はもう、帰って来ないかも知れないと。 予想に反して、彼は今、千秋のそばにいる。だけど、あの時生まれた彼女の覚悟は変わらない。陸は、いつまでもここにいる男の子じゃないわ。いつかまた、さらなる輝きを求めて、広い世界へ飛び出して行ってしまうに違いない。そして、それが、あの才能にあふれた男の子のあるべき姿なのだとも思うのだけれど……。 もしかするとその日はそう、遠くないのかもしれない。疲れきって眠るその顔を見ていると、そんな風にも思えてきて、胸がしめつけられる。まだ、彼がそこにいるのを確かめるかのように、千秋は無意識に手を伸ばした。 あたたかい頬に、瞼に触れる。不意に、愛しさがこみあげてくる。いつかまた、この男の子が、自分の人生からいなくなることがあれば、私はどうなってしまうんだろう。ふと、そんな思いにとらわれ、千秋はどうにも切なくなって、慌てた。慌てる間もなく、涙がこぼれた。 どうしよう……彼女はその時初めて、悟ったのだった。もう、ごまかせない。もう後戻りできないほど、陸を好きになってる。 長いこと張りつめていた何かが、ぷつりと切れたように、ずっと寂しいのを我慢していた子供のように、千秋は、次から次へとこぼれ出る涙を、どうすることもできなかった。甘く胸を浸すその感情が、決して不快なものではなかっただけに、どうにもならなかったのだ。陸がふと目を開け、ただならぬ様子に気付いて飛び起きた時も、もう、取りつくろうことなどできなくなっていた。 「千秋、どうしたんだよ!」 ひどく驚いた声が降ってくる。同じ言葉を、遠い記憶の中で聞いたような気がする。考えてみれば、彼女がこの男の子の前で泣くのはこれが初めてではないのだった。ひとりなら絶対に泣かない、他の人の前でも泣かない。なのに、どうしてなのだろう。陸を前にすると、どうして心は、こんなにも脆くなってしまうのだろう。 ためらいがちな手が、彼女を引き寄せた。もう顔を見ることも出来ず、押し付けられたTシャツの胸が、こぼれ出る涙を吸い取った。そのぬくもりの心地よさが、よけいに彼女を泣かせる。 失ってもかまわない、そう覚悟を決めていたはずなのに、もうそのあたたかい胸が、おおきな腕が、髪を撫でる優しい手が、消えてしまうことを考えただけで、怖くて仕方なくなる。まるで、子供みたいだ。こうはならないように、今まで独りでがんばってきたのに、しっかりと自分の足で歩いてきたつもりだったのに。 「陸……」 だけどそれ以上何も考えることはできず、心細さのままに千秋は彼の名前を呼んだ。 「もう……どこへも行かないで。絶対に、遠くへなんて、行かないで…」 ためらいがちに髪を撫で続けていた陸の手が、止まった。次の瞬間、抱きしめる腕に、痛いほどの力がこもった。かすかに震える声で、彼は、千秋の欲しかった答えを返してくれた。 「行くわけねーだろ? ずっと……お前のそばにいるから。絶対に…どこへも行かないから、だから、泣くな……」 |
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