L.N.S.B [ Story - 48]
「……で、いったいどうなってるのよ。あんたたち」
 とうとう沙希が、業を煮やしたように陸に尋ねたのは、帰国後2ヶ月も経ったころだろうか。
 週末ごとにお互いの家を行き来するという、このふたつの家族の習慣に、陸が加わるようになってずいぶんになる。その間、どう見ても渡米前の振り出しに戻ったとしか思えないふたりを、じりじりしながらずっと見守っていた彼女だったのだけれど。
「どう……って……」
 陸は口ごもりながら、悠や天馬とトランプ遊びをしている千秋をちらっと見る。実のところ、彼女が傍にいることを、いまだ夢のように感じている、情けない彼なのだ。
「空港にまで迎えに来させといて、何してるの? とっくにその場でプロポーズしてるもんだと思ってたわ」
 沙希は少しばかり呆れた顔で、あながち冗談でもない風に、そう言った。まさか本当にそのつもりだったなんて言えるわけもなくて、陸はますます返答に困る。
「沙希さん、そんなに苛めない」
 見かねた翔一が、助け舟を出した。
「会うなりプロポーズなんかしたら、よけいに心配じゃん。こいつにはこいつの考えがあるんだろ? な、陸」
 そう言ってにっこり笑う沙希の夫に、陸は曖昧な笑顔を返した。「考え」って、ほんとにあるんだろうか。それすらも自分でわからなくなっている。
「それは、そうだけど……」
 沙希は口ごもる。陸に対してはナイフのように切れ味鋭い彼女も、この年下の夫には弱いらしい。意外に可愛いところがあったんだな、なんて感心したのも束の間、彼女は口調をがらりと変えて陸に言い放った。
「でも、ああ見えて千秋はもてるのよ。子持ちだからって安心してないで、さっさとつかまえとかないと、誰かに持ってかれるわよ。また、妊娠した、なんてことにもなりかねないかもね」
「沙希さん!!」
 翔一が慌ててたしなめる。
 はるか昔のトラウマを思い出し、陸はいっぺんに青ざめた。

「ほんとに、どういうつもりなんだろ。あのふたり」
 3人が帰った後、食器を片付けながら、ためいきをついて沙希は言った。じりじりしても仕方がないのは、わかっている。でも、かれこれ5年以上も前から、ふたりを見守り続けている彼女なのだ。ようやく、晴れて一緒に居られるようになったというのに、やきもきさせるのもいいかげんにして欲しいと、思う。
「リハビリ、なんじゃないの?」
 テーブルを拭きながら、翔一が答える。
「歩けるようになったからって、すぐに走り出すのは誰だって無理だろ? どんなに好き合ってても、久しぶりに会っていきなり愛だ恋だになるのは、あのふたりにはきついんじゃないかな」
「リハビリ…ねえ」
 沙希は繰り返しつぶやいた。
 確かに、あのふたりの間にある、やたら穏やかな空気は、「リハビリ」といえなくもない。さすが翔一、うまいこと言うわ、と一瞬、感心したのだけれど。
「でも、もう2ヶ月になるのよ。とっくにふたりとも走れるようになってるわよ」
 そう言い返さずにはいられない。翔一は苦笑してうなずいた。
「たしかに、陸が見かけによらずヘタレな奴だってことは、認めるけど」
 本当に、翔一とて不思議に思わずにはいられないのだ。仕事においても人生においても独立心旺盛で、どんどん前に進んでいくことを常とする彼が、なぜ千秋を前にするとああなってしまうのか……。
 恋は男を強くもすればヘタレにもする。それは翔一自身にも覚えのあることだから、彼の気持、わからないでもないのだけれど。
「まあ、俺たちも、できる範囲で協力してやった方がいいのかもな」
 翔一は笑って言った。あの、情けないけど愛すべき男に、いつの間にやら深い共感を覚え始めている彼なのだった。



「陸、おやすみ」
 陸に手をひかれ、時々立ち止まりそうになりながら、ようやく家にたどりついた悠は、靴を脱いだとたん、もう限界とばかりに目をこすりつつ、寝室へと引っ込んでしまった。
 よろよろと歩いてゆく後ろ姿が可愛い。陸が目を細めつつ見送っていると、千秋が苦笑して言う。
「8時過ぎるとああなのよね。ほんと健康的で、助かってる」
「さっきもはしゃいでたもんな。あいつ、天馬と一緒だとパワー倍増って感じにならねえ?」
「うん、だからよけいに疲れちゃうのかも……」
 話は途切れ、薄暗い玄関に、沈黙が降りる。
 どうしたんだろう。最近、二人きりになると、千秋はなんだか困ったような顔をする。
「じゃ……。俺、明日早いから――」
 そう告げると、千秋はわずかにほっとしたような笑みを浮かべた。ちくちくと胸の内側を食む、小さな不安の痛みを感じながら、陸はマンションの階段を下りる。
 一体、どうしてこんなことになってしまったんだろう。わけがわからない。
 3人で海に行った1ヶ月前のあの日、千秋は確かに「行かないで」と涙をこぼしたのだった。久しぶりに抱きしめた身体の懐かしい温もりも、涙がシャツを濡らす熱い感触も、そりゃもう、はっきりと覚えている。痛いほど胸の中に膨れ上がった愛しさと共に。
 なのに、遊ぶのに飽きたらしい悠が、
「おかーさーん、喉渇いちゃった。お茶ちょうだい」
 と無邪気に駆け戻って来たとたん、すべては白紙に戻ってしまった。……いや、そのこと自体は構わないのだ。悠がいなければ、あれから自分はどうしていたかわからない、というほど、陸の心も危ない状況だったから。
 娘の声を聞いたとたん、あわてたように立ち上がって、何も言わずどこかへ走り去ってしまった千秋の行動も、まあ、理解できないでもない。
 だけど十数分後、何事もなかったような顔で戻ってきた彼女が、1ヶ月後の今に至るまで、何事もなかったように振る舞い続けているのは、どうしたわけなんだろう。
 それだけじゃない。あれ以来ふたりの間には、微妙な「距離」ができてしまったような気がしている。千秋の態度がはっきりと変わったわけじゃないから、沙希や翔一は気づいてないだろう。だけど、陸と向かい合う時、明らかに千秋は居心地が悪そうだ。別に嫌がるでもない、疎んじるでもない、ただ「困った」としか言いようのない様子を見せる。
 その居心地の悪さは陸にも伝染し、あの日以来彼は、どうにも2人の距離をつめることができないでいるのだった。
 やっぱ、待ち過ぎたのかなあ、俺。
 車に乗り込んでもすぐに走り出す気にはなれず、フロントガラスの向こうに広がる夜空を眺めながら、陸はため息をつく。
 帰って来てからずっと、千秋が傍にいるということに慣れるだけで精いっぱいだった。その笑顔を近くで見て、言葉を交わすことができる。ただそれだけのことが嬉しくて仕方がなく、それ以上のことなんて、とても考えられなかったのだ。
 そして、今度は遅すぎたのではないかという思いに怯え、陸はやはり、一歩を踏み出せずにいる。本当は、簡単なことなのだ。ひとり悶々としていないで、あの日のことを千秋に問いただせばいい。
 だけどそれをやってしまえば、もう、後には戻れない。そこで拒否されてしまえば、今度こそ自分は永遠に千秋を失うことになるのだ。いちかばちかの体当たりで玉砕してしまうには、彼は長いこと千秋に心を傾け過ぎていた。
 本当に、千秋はどうしてしまったんだろう。あれは、もしかして夢だった? 不甲斐ない自分の願望が見せたマボロシだったのだろうか。現実の千秋は煮え切らない俺に、とっくに愛想を尽かしてる? もしかして本当に、他に好きな男がいるなんてこと……。
――ああ見えて千秋はもてるのよ。子持ちだからって安心してないで、さっさとつかまえとかないと、誰かに持ってかれるわよ……。
 沙希の、あの容赦のないひとことがまたしても心臓にぐさりと突き刺さったような気がして、陸は思わず胸を押さえてハンドルに突っ伏した。
 必死の思いで、やっとここまで来たのに、何やってんだ、俺……。
 なんだか情けなくなって、陸は目を上げ、再びぼんやりと空を見る。都会の空にささやかに瞬く小さな星は、じっと眼をこらしていないと、すぐに夜空に溶け、姿を消してしまいそうだ。
 だけど、確かにそこに星はあるんだよな。
 陸は、自分の運命を信じたかった。自分がここにたどり着いたこと、長い時を経てなお、彼女がこうして傍にいてくれることの意味を……。
 無理に動き出さなくても、何かのきっかけが、運命の扉を開いてくれる時がいつか来るはず。焦らずその日を待ち続けよう……そう、自分に言い聞かせた。

 しかし、そんな彼の他力本願な姿勢に、罰があたったのかもしれない。
 「きっかけ」は、あまりありがたくない形で、やって来ることになる。
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