L.N.S.B [ Story - 49]
 その夜は、陸にとって何度目かの千秋のライヴだった。彼女の歌を聴きたくても聴けなかった長い月日を取り戻すかのように、彼はステージのたびに、きっちりこの懐かしいライヴハウスに通いつめている。
 帰国後最初のライヴのときは、沙希や翔一に悠や天馬までもがいっしょに来て、えらく賑やかだったのだけれど、今日は陸ひとり。沙希は残業、翔一は悠と天馬の世話。これも仕事のひとつと言い訳しつつ、彼女のライヴには必ず顔を出す島崎ですら、新店の開店準備とかで忙しく、姿が見えない。
 薄情なやつらだよ……なんて思いつつ、実はちょっぴり、嬉しかったりする。
 誰にもはばかることなく、その声を、姿を、表情を、しっかりと心で受け止めることができるから。

 スポットライトに浮かび上がる横顔は、その姿を見ることにようやく慣れ始めたはずの彼を、どうしようもなくどきどきさせた。短くなった髪が柔らかく頬を包み込み、赤い唇と、とがったあごを、はっとするほど色っぽく見せている。
 さらに困ったことに、彼女は以前のようなジーンズにシャツといった、普段着のような服装ではなく、きちんとしたステージ衣装を着るようになっていたのだった。今日はベルベットのような素材でできた、深い紫のドレス。白い肌がくっきりと引き立ち、身体の線が柔らかに浮き出るなまめかしさに、陸は内心「うわ…」と思わずにはいられない。正直言って、こんな姿、他のやつには見せたくねえ。
 もちろんそんな衣装を千秋が自分の意志で身に着けるはずはなく、これは、デザイナーである島崎の妻が、自分で作って彼女にプレゼントしたものなのだった。一度夫に付き合ってライヴを見て以来、すっかり千秋のファンになってしまった彼女は、お気に入りの着せ替え人形を見つけたかのごとく、あれこれドレスを作っては半ば無理矢理、彼女に着せているらしい。
 「ほんといい素材なのに、もったいないわよ」とは彼女の弁。そしてそれらのドレスは、本当におどろくほど、すべて千秋にぴったりなのだった。
 考えて見れば、千秋は彼女の夫の憧れの人であるわけで、微妙な立場なんじゃないかと思うのだけれど、「それがなんなの?」と言わんばかりに可愛がられているあたり、千秋の「人徳」と言うべきか……実際、陸は少しばかり驚いているのだ。。
 今の千秋がさまざまな人に愛され、しっかりと自分の世界を作り上げていることに。

 予想はしていたのだけれど、予想以上にそれは陸を戸惑わせたことだった。沙希、翔一、島崎、職場の仲間や、陸の親友の亮二やそのバンド仲間にいたるまで、彼女の周りにいる誰もが、彼女のために心を傾け、助けとなるための労を厭わない。もちろん千秋が、同じだけのものを彼らに返すべく努力をしているせいもあるのだろうけれど、やはり誰にとっても、彼女は放っておけない存在であるらしくて……。
 それに、こうしてライヴに足を運ぶとよく分かるのだが、「椎葉千秋」のファンは、数年前より確実に増えていた。折に触れて花束やプレゼントを贈る者は少なくなく、悠の存在にもめげず、「付き合って欲しいと」申し入れてくる者もいるらしい。
 「ああ見えて千秋はもてるのよ」――あの沙希の言葉は、はったりでもなんでもないのだった。千秋の方は、智史とのことで懲りているせいもあって、自分の歌のファンと付き合う気などさらさらないらしいのが救いだったけれど。
 もちろん、千秋がそんな風に誰からも愛される存在であり、幸せに日々を生きていることは、陸にとっても、心からうれしいと思えることだった。なのに、どうしてだろう。今、こうしてステージの上にいる彼女を見ていると、なぜだかわずかに胸が痛む。
 今の彼女の人生に、俺が入り込む資格なんて、あるのかな。いつになく弱気になって、そんなことを考えてしまうのは、このところの彼女の態度が、やはり、相当こたえていたからかもしれない。

 人知れずためいきをついて、胸の痛みをやり過ごそうとしたとき……。
 静かに流れ出した次の、そして最後の曲のメロディーは、それまでの彼の様々な屈託を、あっという間に流し去ってしまうものだった。

 『ナチュラル・ウーマン』だ…。陸は驚いて、千秋を見る。完全に歌に入り込んでしまっているその表情に、彼の求めている答は、映し出されてはいない。
 再びライヴをやるようになってから、2年近く、彼女は一度もこの歌を歌っていないのだと、島崎が言っていた。誰に頼まれようと、頑として歌わないのだという。最後は必ずこの曲でステージを締めくくっていた昔を思えば、その頑なさは不自然なほどで……。
 陸自身、帰国後最初のライヴのときに、心待ちにしていたこの歌を聴けなかった落胆もあって、「どうしてなんだよ」と、少しばかりしつこく千秋を問いつめたのだけれど、彼女は笑って答えなかった。
 その歌を、今、彼女が歌っている。
 どうして? なんで? 今になって…なんて疑問よりも何よりも、そのメロディー、その声、静かで熱いピアノの響きは、理屈抜きで彼の心を引っ掴み、過去へと引き戻してしまう。
 高校生の頃、胸が痺れるようなこの気持を、何よりも恐れたこと。ようやく意識し始めた、千秋を好きだという思いを、密かに胸で握りつぶしたときのどうしようもない痛み。そして、隠し通してきた真情を、思わずメールに綴ってしまったあの卒業前の夜。そう、この曲は、いつも彼に理性をなくさせてしまうのだ。
 こんなときに歌うなんて、これってフェイントだよな。あんなにも聴きたいと思っていた歌なのに、少しばかり彼女を恨みたい気持になってる。心はどうしようもなく、熱を持ってしまって……。
 こんな気持で千秋と顔を合わせるわけには行かない。歌が終わり、ステージを降りた彼女が、すぐに自分のところへ来ることはわかっていたのだけれど、陸は立ち上がり、店の外へと出て行った。
 少し頭を冷やさなくては……。
 そのとき同じ会場の中に、自分の他にもうひとり、千秋のステージが終わるのを待っている男がいたことを、まさか陸は知るはずもなかった。



 拍手の中、心が少しずつ歌の世界から戻ってくる。千秋は、半ば無意識に客席を探す。求めるものが、そこにあろうとなかろうと、それはずっと彼女が繰り返してきたこと。
 だけど、今夜は確かに居るべきはずのその相手を、見つけることができなかったとき、深い落胆と、軽いパニックが彼女を襲った。陸……、陸は、どこへ行ってしまったんだろう。
 冷静な顔で客席に頭を下げ、ステージを降りることができたのが、不思議なほどだった。自分でも情けないぐらい、切実に、彼の姿を求めている。幼い子供みたいに。
 ――絶対に…どこへも行かないから……。
 自分を安心させるように囁いた陸の深い声に、たった今歌った歌のメロディーが胸の中で重なり、よけいに千秋を混乱させる。ああ、そうなんだと悟る。こんな気持になってしまうから、私はずっとあの歌を歌えなかったんだわ。
 『ナチュラル・ウーマン』……かつて何度も陸の前で歌ったこの歌を、千秋はずっと歌えないでいた。
 別に歌うことを拒否していたわけじゃない。陸が行ってしまってからも、何度かは歌おうとした。なのに弾き慣れたイントロを指が奏でようとした瞬間、心がぱっと蓋を閉じたように、どう弾けばよいのかわからなくなってしまうのだった。あわてて別の曲にすり替えるということを何度か繰り返し、千秋はこの曲を封印せざるを得なくなったのだ。それは、陸が帰って来てからも同じことだった。
 なのに、どうしたわけだろう。ラストの曲を歌い出す前、薄暗い客席の中に陸の姿を認めたとたん、不意に、心のたがが外れた。愛しさが胸にあふれ、気がつけば、キーの上に置かれた指が、あの懐かしいイントロを奏で始めていた。
 メロディーと共に蘇る、様々な思い出が千秋の胸を熱くする。カフェで初めて出会った時のこと。時間を忘れて話し続けたレコード屋の帰り。それ以来、あの笑顔が、言葉が、幾度となく自分を救い続けてくれたこと。
 あれからたくさんの悲しい出来事もあったけれど、すべてを乗り越えて、あの男の子は帰って来てくれた。1人の大人の男として。そうして……、
 ――ずっと……お前のそばにいるから……。
 そう言って、しっかりと千秋を抱きしめてくれたのだ。
 あの日のことを思い出すと、どうしようもなく心が乱れ、鍵盤を叩く指に我知らず力がこもる。
 遠くへなんか、行かないで……そんな言葉を口にしてしまった自分の不甲斐なさを思うたび、千秋はあの日起こったすべてを消しゴムでごしごしと消してしまいたくなるのだった。まして、あの男の子の胸の中で臆面もなく泣いてしまったなんて……思い出すたび、顔から火が出そうになる。
 陸を縛りつけること、自分の思いを押しつけてしまうこと、何もかもが、千秋にすれば、あってはならないことだった。好きという思いは、もはやどうすることもできないにしろ、絶対に知られず、ただ「大親友」として穏やかに彼の傍にいたかった。だって、彼の輝かしい未来を妨げるような存在にだけはなりたくなかったから。
 なのに自分は感情に流され、すべてを台無しにしてしまった。陸はどう思っただろう。どこへも行かない……そう言って彼は抱きしめてくれたけれど、あの男の子なら当然、そうする。本当は、あんなことをさせてはいけなかったのだ。
 あの日以来、彼女は陸と会うたび、いたたまれない気持になり、どう接すればよいのかわからなくなってしまうのだった。だから、子供じみたことだと分かっていながらも、あの時のことは無理やりにでも「なかったこと」にして、ぎこちない態度を取り続けるしかなかったのだけれど……。
 だけど、陸との思い出につながるこの懐かしい曲を歌い切った今、彼女を覆っていたすべてのものがはがれ落ち、ただ、彼を恋しいと思うありのままの自分が居た。
 それが歓迎すべきことなのか、あるいは危険なことなのか分からない。ただ、陸に会いたい。あの笑顔が見たい。どうして彼はここにいないんだろう。



 すっかり冷静さを失い、陸を探すために歩き出そうとした千秋の肩を、誰かがぽん、と叩く。
 陸かと思って振り返った千秋はしかし、すっと心が冷えるのを感じた。
 そこには、彼女が一番会いたくないと思っていた相手が、懐かしそうな笑顔を浮かべて、立っていた。
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