L.N.S.B [ Story - 50]
「久しぶりだな」
 千秋をじっと見つめて、智史は言った。
 最後に会ったのが1年以上も前、しかも頬をひっぱたいたのが別れであったことを考えると、信じられないほどの満面の笑顔。しかも、その瞳には感動の色さえ浮かんでいて……。
 以前とは違う意味の恐ろしさを感じて、千秋は立ちすくんだ。思わず助けを求めて、きょろきょろと客席に視線をさまよわせるのだけれど、やはり、陸の姿はない。
「ど……どうして、ここに?」
 我知らず、声が上ずってしまうのを情けなく思いながら、千秋はようやく、問いを口にした。彼女の硬直した態度にも、懐かしそうな笑みを崩すことなく、元夫は屈託のない様子で答える。
「お前がこの店で、また歌っていることを、昔の知り合いから聞いて、久しぶりにステージを見たくなったんだ。上手くなったな、それに、前よりずっと、色っぽくなった。あまりに懐かしくて、声をかけずにいられなくなったってわけだ」
 どうしてこの男は、何事もなかったような顔をして、こんなことが言えるのだろう。彼にはどうやら、都合の悪いことはすべて忘れてしまえる特技があるらしい。
「ちょっと、聞きたいこともあるんだ。これから別の店で飲みなおさないか」
「聞きたいこと?」
 後の言葉より、前の言葉に、思わず敏感に反応してしまう。不安に思ったが、ここでペースを乱されてはいけない。
「こっちには話すことなんて、何もないと思うわ。悪いけど、付き合えない。早く帰らないといけないし」
 そう、冷淡に言い捨てて背を向けようとしたとき、
「聞いたんだ。お前が長いこと、友達じゃなくて、子供と2人で暮らしているって」
 そう言われて、思わず動きが止まる。

 少しばかり外を歩き、ようやく冷静さを取り戻して、陸は店に戻った。千秋は待っているだろうか。焦りと共に扉を開けた彼は、千秋がステージの脇で見知らぬ男と話をしているのを見て、少しばかり気が抜けてしまう。
 この店の常連だろうか。それにしては見かけない顔だった。やけに馴れ馴れしい態度が気に障る。昔からの知り合いなんだろうか。入っていって良いものかどうか――。
 千秋の様子をうかがってみる。え? と思うほど、色を失い硬直した表情。その瞬間、ぴんときた。
 あいつは……千秋の前のダンナだ。
 もう、あれこれ考える暇もなく、頭に血が上り、陸は彼らの方に歩き出していた。

「なあ、お前が育てているのは、俺の子供じゃないのか?」
 最後の切り札を見せつけるかのように、智史はゆっくりと言い放った。千秋の心臓が凍りつく。
 やっぱり、この男は知っていたのだ。
 絶対に、話すんじゃないわよ……沙希に言われたことを思い出す。ここは、なんとしてでも隠し通すべきなのはわかっている。だけど、それを知ったからといって彼はどうしようというのか。
 その口調、その態度に滲み出る無責任さを、千秋は敏感に感じ取らずにいられない。彼が今さらそんなことを口にするのは、ただ単に今、彼女の気を引くために過ぎないことは、明らかだった。
 あなたが悠に何をできるっていうの? あんたみたいな男に、悠のことをどうこう言う資格なんて、ない!!
 面倒なことになるに違いないのも忘れ、口を開こうとしたとき、後ろから大きな手が両肩に置かれる。
「千秋が一緒に暮らしてるのは、俺の子供です」
 低いけれどよく通る、震えてはいるけれどはっきりとした声が聞こえた。驚いて振り向くと、怒りに燃える静かな瞳が、まっすぐ、彼女の元夫を見据えていた。
 そうして陸は、千秋を智史から引き離すかのように、ゆっくりと自分の元に引き寄せた。大きな胸の温かさを背中に感じ、それどころではないというのに、千秋は思わず泣きたくなる。この男の子は……どうして?
 ただ呆然とするしか、なかった。

「あんたの子供じゃない、俺の子供です。事情があって、しばらく離れてたけど、これからはふたりで彼女を育てていくつもりなんです。だから……」
 嘘じゃない……ゆっくりと言葉を選びながら、陸は自分にそう言い聞かせていた。嘘じゃない。誰がなんと言おうと、悠は俺の子供だ。千秋の秘密を知り、「俺が父親になる」と彼女に言ったあの遠い日から、ずっと心のどこかで、そう決めていた。血のつながりなんて、くそくらえだ。
 どうにか冷静を装っていたが、本当は、怒りに全身が沸騰しそうだった。千秋の肩に置いた両手に、思わず力がこもり、彼はあわてて手を離し、ひそかにこぶしを握り締める。
 これ以上、千秋の周りをうろちょろするんじゃねえ!! 本当はそう、怒鳴りつけてパンチのひとつもくらわせてやりたかったのだけれど。
「千秋のことはもう、俺に任せてもらえませんか? そちらにも幸せな家庭があるんでしょう?」
 ありったけの自制心を働かせ、最後の言葉に皮肉をきかせて、静かな声で、そう告げる。
 相手の男は、といえば、不測の事態にひるみっぱなしであるのが、その引きつった表情を見ればよくわかった。思わず力が抜ける。

「お前が…家を出たのはこいつのためってわけか。よく今まで隠し通せたもんだな」
 長い沈黙のあと、智史はようやく千秋を見て、そう言った。
 どうやら陸と直接対決する勇気はなかったらしい。千秋から見ても可哀想なぐらい、彼は完全に、15以上も年下のはずのこの男の子に、迫力負けしていた。だいたい、甘やかされ、大人になることを忘れたまま歳をとってきたこの男が、自分自身の力で道を切り開いて大人になった、陸のような男の子に勝てるはずがないのだ。
 だからといって元妻に矛先を向けるあたり、この人はやっぱり変わらない。なんだか笑いたくなる。
 次の言葉を聞いたときは、さすがに青ざめてしまったけれど。
「要するに、お前も若い男と浮気してたってわけじゃないか。いつも被害者ぶって、自分が正しいって顔ばかりしやがって、たいした女だよ。少々殴ったぐらいじゃ、効かなかったってことか?」
 はっきりと顔色を変えて、智史に掴みかかろうとする陸を、千秋はあわてて止めた。彼女とて、このままでは済まされない気持だったが、この男のこうした物言いには慣れている分、多少冷静になれた。これ以上、こんな男を陸に向かい合わせているわけにはいかない。
「もうこれ以上、あんたの顔なんて、見たくもないわ。帰ってくれない?」
 怒りを押し殺した声で、そうはっきりと告げた。智史は悔し紛れの笑みを浮かべる。
「この話は、聞かなかったことにしてやるよ」
 そんな捨て台詞を残して、彼は背を向け、店を出て行った。
 その言葉をどこかで聞いたことがある、千秋はぼんやりと思い出す。そう、家を出た後、初めて話し合いのために顔を合わせたとき、彼はいきなり「なかったことにしてやる」と、恩着せがましく言ったのだった。
 これほど進歩のない男もめずらしいわ。笑えてきた。だけどその棘は、そんな男と一度でも結婚していた自分自身にも刺さって、千秋はなんだか、笑いたいのか泣きたいのか、わからなくなった。



 店を後にして、千秋の家へと車を走らせながら、陸は助手席に座った彼女の手をずっと握りしめていた。ハンドルを切るために手を離すたび、故もない不安や焦燥が胸の中に膨らみ、やはりすぐに手を伸ばして、再びその手を握りしめずにはいられないのだった。
 千秋はただ、黙ってされるがままになっていた。店を出てから、一言も口を聞いていない。
 胸に燃え残るやり場のない怒りがふつふつと心をたぎらせるたび、陸がつい、繋がり合った手にぎゅっと力を込めてしまうことに、彼女は気づいているだろうか。
 絶対に許せねえ、あの男。用もないのに図々しく千秋の前に出てきて、興味本位で悠のことを口にした挙句、ひどい言葉を吐きやがった。彼女を暴力で傷つけたことすら、何とも思っていないらしい口ぶりを思い出すたび、頭の中が怒りで沸騰しそうになる。
 やっぱり、一発殴ってやるべきだった。いや、一発じゃ足りない。二度と千秋に近付くことなんてできなくなるぐらい、ボコボコにしてやればよかったんだ。1人の人間に対して、これほどまでの憎しみを抱いたのは初めてのことだった。あの時、千秋が止めてくれなければ、陸は危うく犯罪者になっていたかも知れない。
 だけど、こいつはずっと冷静だったんだよな……。陸は、あの男に殴りかかろうとした自分を、さっと手で制した千秋の様子を思い出した。
 あの男と向かい合っている間、千秋は驚くほど冷静だった。一度も感情をあらわにすることがなかった。でも、それは、傷ついてなかったからじゃない。あきらめていたのだ。この男には、何を言ってもしょうがない。そんな絶望が、彼女を静かにしていた。
 そして今も彼女は、冷たいあきらめの中にいるのだろうか。陸はやはり心の内側を見せることなく黙って自分の隣にいる千秋の横顔を見る。その表情は終始硬いままで、言葉をかけることすら、ためらわれてしまう。
 あの時と同じだ、と、彼は思う。悠が生まれる直前、最後に彼女と共に過ごしたあの夕方のこと。
 思いがけない元夫からの電話に怯えきっていた彼女は、それでも、陸に癒されることを最後まで拒否しようとした。あの時握った手も、今と同じように、冷たく震えていた。あの青ざめた横顔を思い出すと、今でも胸が痛い。
 彼女があの時、最後まで表情を和らげることがなかったのは、陸が遠からず自分の人生から消えてしまう人間であることを、わかっていたからだ。ふたりは、別々の道を行こうとしていた。だから彼は、何も言えず、何もできなかった。
 今もそうなのだろうか。なあ、千秋……お前はまだ、俺がどこかへ行ってしまうと思っている?
 絶対に、どこへも行かない……千秋を抱きしめながら告げた言葉は、これ以上ないほどの陸の真情だったのに、どうやら悲しいことに彼女の胸にはきちんと届いていないらしい。
 どうしてだろう。何度言葉にすれば、彼女は分かってくれるんだろう。陸は今までになくもどかしい気持になった。今こそ、分かって欲しいと思う。自分が決して千秋から離れたりしないってこと。
 正直、ずっと自信を失いかけていた。幸せな満ち足りた日々を送る今の千秋の人生に、自分の入り込む隙などないと。でも、人生にはいろいろなことがある。あの男はおそらく、これからも気まぐれに千秋の前に現れ、彼女を悩ませ続けることになるだろう。彼女が自分の「元妻」である限り……。それだけじゃない。今は順調でも、彼女の行く先には、どんな落とし穴が待ち構えているかわからない。
 こんなところで、二の足を踏んでる場合じゃないのだ。これから先、例え彼女に何があろうと、ずっとそばにいて、守り続ける。そんな覚悟で、俺は海の向こうから帰ってきたんじゃないのか?
 何度でも、何度でも言わなくちゃならないんだ。お前を守りたい、ずっとそばにいる……って。
 信号が青に変わり、アクセルを踏む。それを合図に覚悟を決め、陸は千秋の名前を呼ぼうとした。だけど。
「陸――」
 と、自分を呼ぶ千秋の硬い声に、先を越される。
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