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「陸……」 話を切り出す勇気が持てず、千秋はもう一度陸を呼ぶ。こうして目の前にいる彼の名前を口にするのも、これが最後かも知れないと思うと、声が震えた。 「ねえ、陸……、あなたはもう、私とは会わない方がいい」 不意に、急ブレーキがかかり、車がガクンと止まった。千秋は驚いて後ろを見たが、幸い後続車はなく、目の前の信号も赤に変わったばかりだった。ほっとして隣りの陸を見やる。彼は、はっきりとわかるほど顔色を失い、ハンドルを握りしめていた。 「ご……ごめん――」 ようやく我に返ったように千秋を見て、彼は詫びる。 「でも……どういういうことなんだよ」 声にならないようなかすれ声で問われ、早くも千秋の胸は激しく痛み始めた。だけど、もう後戻りすることはできない。きちんと、言わなくちゃ……。千秋は小さく息をつき、再び口を開く。 「私も……悠も、それほど大変な生活をしてるわけじゃないの。誰かの助けがないと生きていけないわけじゃない。もし……もし、陸が私たちに対して何か責任みたいなのを感じてるとしたら、そんな必要、全然ないから……」 これは、一時の感情なんかじゃない……千秋は自分にそう言い聞かせていた。私は、ずっと苦しかったんだわ。陸がそばに居るようになって、幸せなのと同じだけ、苦しかった。 コントロールの効かない心が、止めようもなく深く惹かれてゆく自分自身が、怖くて仕方なかった。だって、私が陸にあげられるものなんて何もない。そして、例え一緒にいても自分が陸に迷惑をかける存在にしかなれないことを、さっきの出来事で思い知らされてしまった。 智史を前にどうすることもできず、陸に悠は自分の子供だなんて嘘までつかせてしまった自分の不甲斐なさを、まったく陸らしくもなく衝動的に智史に殴りかかろうとした陸の、怒りに満ちた表情を思い出す。あの真っ直ぐで穏やかな男の子に、これ以上あんなことをさせてはいけない。覚悟を決める時が来たのだ。 気づくことができてよかった……と思う。さっきは危ないところだった。あの歌を歌い終えた後、ただ陸を愛しいと思っていた自分、必死に彼を探し求めていた自分を、本当の自分自身のように感じていたけれど、そうじゃなかった。 陸に迷惑をかけることしかできない、陸を縛り付け、足枷になることしかできない、それが、本当の私なんだわ。皮肉なことだけれど、今度ばかりはそれに気づかせてくれた智史に感謝するべきなのかも知れない。 「……そんな責任のためにあなたが仕事に打ち込めないとしたら、逆に辛い。正直……迷惑なの……。もう、私なんかに縛られてないで、自由になって欲しい――」 溢れ出す感情を抑えて話し続けていると、不思議と最初の動揺は消え、心は静かに凪いできた。何よりも大切なものを今、手放そうとしているのに、本当に不思議なことだけれど、これでいい、と思えてくる。 初めは陸も傷つき、悲しむだろうけれど、すぐに何もかも忘れて仕事に打ち込むようになるだろう。そしていつか、本当に相応しい相手を見つけて、広い世界に旅立って……。 また、胸が小さく痛んだ。両肩に置かれた大きな手の熱さが蘇り、不意に切なくなる。いつまでもあんな風に守られていたいと思わずにいられない弱い自分を抑え込み、千秋はどうにか言葉を切って、隣りの陸を窺う。 陸は何も言わず、ゆっくりとアクセルを踏んで車をスタートさせた。その横顔からは、何の感情も読み取ることができない。怖いぐらいの静けさに、千秋は逆に落ち着かない気持になった。 どうしよう……やっと穏やかになった心が、また、泡立ち始めている。 「千秋……それ、本気なのか?」 運転のために顔を真っ直ぐ前に向けたまま、陸は言った。震える声は、ほとんどため息のようだった。 「俺は……、お前が俺にそばにいて欲しいと思ってくれてるって……そう、思ってた」 どきりとする。やはり彼は、いつか自分が口にした「行かないで」という言葉に縛られていたのだ。あの時のこと、どう説明すればいい? どう言えばあの言葉をなかったことにできるだろう。いっぺんに冷静さを失い、千秋は目まぐるしく考えを巡らせる。 どうして、こんなことになってしまったんだろう。陸にはわけがわからなかった。 本当ならば自分は今、勇気をふりしぼって千秋に気持を伝えるところだったのだ。なのにまるで悪い冗談か何かのようなタイミングで、必死の決意はぺちゃんこにつぶされてしまった。 千秋の言葉のひとつひとつが、いまだに深く胸に突き刺さっている。要するに、今の彼女に自分は必要ないってこと? まさか会うことすら拒否されてしまうなんて……。動揺のあまり、陸は、彼女が海で口にした言葉の真意を問わずにはいられなかった。 そして、千秋がその問いに答えられず、黙ってうつむいてしまったのを見て、深い深い後悔にかられる。 もしかして俺は、決して聞いちゃいけないことを、聞いてしまったんだろうか。 たっぷりと長い沈黙の後、千秋が返した言葉は、不安にぶち切れそうな陸の心を驚愕に陥れるに充分なものだった。 「ごめん、あの時のことは、ずっと謝らなきゃって思ってた。なんて言うか……あれは――間違えたの」 「間違えた……?」 あるまじき言葉に、陸は思わず声を高くする。ブレーキを踏むのが遅れ、もう少しで前の車にぶつかるところだった。どうやら前方で事故でもあったらしい。もう夜も更けたというのに、ありえないぐらい、道が混み始めている。 千秋は困ったようにうつむき、しどろもどろに言葉をつないだ。 「ほ……ほら――あの、誰だって、どうしようもなく寂しくなっちゃうことって、あるじゃない。あの時私、いろいろあって疲れてて、久しぶりにあんなところでのんびり過ごしたものだから、気が緩んじゃって……。たまたまその時に陸がいた……っていうか――。だから、深い意味はないの。陸は何も、気にしなくていい……」 たまたま、俺がいただけ? 深い意味はない? 気にしなくていい? 千秋が口にした信じられない言葉に、陸は呆然としながら、その横顔を見つめた。完全に、運転がお留守になってる。後ろからクラクションを鳴らされ、彼はあわててアクセルを踏んだ。 そのままゆっくりと車を走らせることも、ともすれば危うくなってしまうぐらい、動揺していた。あの時のことは間違いだった……嘘だろ? 自分はもう、千秋を守ることさえできなくなってしまうのか。何年も何年も捨て切れず胸の中で育ててきたこの恋を、とうとう失うことになるのだろうか。 ことの重大さに、身体中の血の気が引いてゆくような心地がする。 「り、陸……?」 実際、相当に色を失った顔をしていたのだろう。千秋が慌てたように陸の名を呼んだ。 「陸、ごめん、そんな顔しないで。あの時、寂しかったのは、本当なの」 早口でそう言った時、千秋の膝からハンカチが滑り落ちた。ぎこちない仕草で拾い上げ、再び膝の上でぎゅっと握りしめる。青いバンダナ風の生地が、くしゃくしゃになっていることに陸は気づいた。 え……? 陸はほんの少し、冷静さを取り戻す。千秋の様子がおかしい。もしかして、彼女も混乱している? ようやく車の流れが止まり、ブレーキを踏んで、陸は再びその横顔に目をやった。薄暗い中でもはっきりわかるほど、頬が赤くなっている。 陸の視線に気づく様子もなく、視線を落としたまま、千秋は再び口を開いた。 「でも……でも、本当に、気にしなくていい。陸は私や悠のこと、放っておけなくなってるだけなのよね。あなたはそういう人だもの。いろんなこと我慢してここに居てくれてるってことも、わかってる。でも、私には陸に返せるものなんて何もないの。せいぜい、智史みたいなくだらない男につきまとわれて、迷惑をかけることぐらいしかできない。あなたに行かないで欲しい、そばにいて欲しいなんて、とても言えないから……」 そう言いかけて千秋ははっとしたように口をつぐみ、黙り込んだ。陸は言葉をなくし、ただ呆然とその横顔を見つめる。 そばにいて欲しいなんて、とても言えない……今、千秋はそう言った? 混乱する頭の中でも、どうやら本気で拒否されているわけではないことだけはわかり、身体中の力が抜けた。でも、解せない気持が胸の中に広がる。 俺が、一体何を我慢してるって言うんだ。返せるものがないなんて、どうしてそんなこと……。俺は、千秋のそばにいるだけで、計り知れないほど大きな何かを得てきたような気がしてるのに。 その笑顔が、言葉が、陸を成長させ、ここまで歩かせてきた。そしてこれからも、千秋なしに歩いて行くことなんてとても出来ない。そこまで考え、はっと気づいた。 千秋を守るためなんかじゃない。俺が、遠いアメリカから帰って来て、ここに留まり続けているのは……。 俺自身が千秋のそばにいたいからじゃないか……。 さっき千秋から自分は必要ないと言われた時のショックを陸は思い出す。息が出来ないほど辛かった。もうこれ以上、生きて行けないと思った。例え彼女に自分が必要なくても、何としてでもそばに居続けたいと、格好悪いけれど思わずにいられなかった。 その気持を、今、伝えるべきなんじゃないのか? 「千秋――」 どうしようもなく気が急いてきて、陸は上体ごと千秋の方を向き、彼女の名前を呼ぶ。だけどそのとたん、後ろでクラクションが鳴り響いて、気が削がれた。苛立ちを抑えながらのろのろと車を走らせ、ブレーキを踏む。「千秋――俺は……」再び言葉を続けようとすると、また後ろで、苛立った風にクラクションが鳴った。 くそぉ、これじゃ、まともに話もできやしない。ちょうど、交差点が見えてきたところで、陸はいきなりウィンカーを左に出し、脇道へと曲がった。千秋が驚いた風に自分を見たが、構わなかった。 とにかく、きちんと話がしたい。しばらく走って、人気のない公園の脇に車を止め、エンジンを切る。千秋は、シートに背を張り付かせたまま、驚きのあまり呆然と彼を見ていたが、そんな彼女を気づかう余裕など、もはやなかった。 彼は身を乗り出し、千秋の手を引っ張って、自分の方を向かせる。そして、思いを伝えたい一心で、思わずその手を包み込んで痛いほど握りしめ、真剣な瞳でまっすぐに彼女の目を見つめ、言った。 「千秋、俺は、お前がいないとダメなんだ」 握りしめられた手が、火傷しそうに熱い。 「何、昔のダンナのことなんて気にしてんだよ。お前と一緒にいられるんなら、あんな男、何度でも追っ払ってやる。お前のためとかじゃなくて、俺がそうしたいんだ。そういうの、迷惑って言わねーんだよ。俺は……俺は、お前が好きなんだから――」 「陸――?」 千秋はただ呆然と陸を見つめ、その名前を呼ぶしかなかった。心臓が壊れそうだ。だって、彼は誰? いつもの穏やかな笑みを捨て、必死の表情で熱い思いを真っ直ぐにぶつけてくるこの男の子は、本当に陸なのだろうか。 こんな彼を見るのは、初めてのことで……。 「お前が、ずっと好きだった。気がついたら、お前なしじゃ生きていけないほど好きになってた。俺が、何のためにアメリカまで行ったと思ってるんだよ。大人になるため、お前に追いつくためだろ? やっとの思いでここまで帰って来たっていうのに、お前を追い越してまたどこかへ行くなんて、絶対、ありえねえ。俺は、ずっとお前と一緒にいたいんだ」 陸の言葉のひとつひとつが、痛いほどの真実となって千秋の胸の奥へと届く。固く鎧われた心が溶け出しそうな予感に本能的な怖さを感じ、千秋は思わず言葉を返した。 「でも……陸は、アメリカで大きなものを残したじゃない。すごい本を出して、賞も取った。今の陸には、それだけの力があるのに、何だって撮れるし、どこへだって行けるのに……。どうして――?」 「あの写真を俺に撮らせたのは、お前だよ」 千秋の言葉にかぶせるようにして、陸は言った。 「お前と離れてた間、ろくなものが撮れなかった。長いこと焦って、苦しんで、結局、俺は、千秋がいなくちゃ何もできないってことに気づいたんだ。嘘みたいに撮れるようになたのは、絶対にいつかお前のところへ帰るって覚悟を決めてからだ。お前がいなきゃ、あの本だって作れなかったし、賞も取れなかった」 まさか……と千秋はつぶやく。陸がそんなに苦しんでいたなんて。 いつか亮二が言ってた。アメリカに行ってしばらくの間、陸は別人のようだったと。自分と連絡と取るようになってから落ち着いたのだというその言葉を、千秋は実のところ信じられずにいた。でも、それは本当だったのだ。遠いアメリカで、陸もまた自分と同じように、離れた相手を思って苦しんでいた。 信じていいのだろうか、自分は陸のそばに居てもいいのだと……。この男の子は、それを求めてくれているのだと。 「今も同じなんだ。写真なんて、どこでも撮れる。でも、お前のいないところじゃ、俺は何もできない。もし、お前が嫌じゃないなら、少しでも俺を好きなら、そばにいて欲しい。なあ千秋……お前は、俺のこと……」 そう言って陸は、まるで重大なことを口にしてしまったかのように、唐突に言葉を切った。 とうとう……聞いてしまった。勢い込んで口にしてしまった言葉を、陸は一瞬、もう一度胸の中に戻してしまいたい衝動にかられる。 ずっと、口にすることができなかった、千秋の心に在るものを問うその言葉。否定されてしまえば、今度こそ本当に彼女を失うのだとわかっていたから。こんな風に、ただ何気なくそばにいることすらできなくなるかも知れない。そう思うと、不安に目の前が暗くなる。 だけど、もう後戻りはできなかった。それに、聞く勇気を持てるのは、今しかないような気がしていた。ようやくこれまでの思いすべてを言葉に出来た、今、この瞬間しか……。陸は大きく息をつき、言葉を繋ぐ。 「何も言えないなら、うなずいてくれるだけでいい。もし、うぬぼれだと思ったら、笑ってくれてもいい。なあ、千秋――」 そう呼びかける声は、情けないほど震えていた。陸は、空気が足りないかのように、もう一度大きく息をついて、彼女にたずねた。 「俺を……好きなんだよな」 どうしよう……胸が苦しいほどに一杯で、すぐには言葉を返すことができず、千秋はただ、陸をじっと見つめる。 今まで見たこともないほど、まっすぐで、今にも泣き出しそうなほど真剣な瞳に、どうしようもなく胸を突かれた。自分の運命を信じていいのだと、そのとき、彼女は初めて思った。もうこれ以上、嘘はつけない。 白状するしかない。この男の子に出会って以来、ずっと密かに熱を持ち続けてきた思いを。 千秋は、黙って、しっかりとうなずく。 「よかった」 安心したような、ため息混じりの声と共に、 深く、柔らかく、抱きしめられた。 |
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