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その夜、千秋は何度、陸の名前を呼んだか知れない。 あれから、ふたりの間に言葉はいらなかった。渋滞のなくなった道路を、陸の運転する車はちょっと怖いぐらいのスピードでひた走り、あっという間に千秋の部屋に着いてしまった。そうして千秋はためらう暇も与えられず、痛いほどの力で抱きしめられ、溺れるようなキスをされて……。あとはもう、嵐だった。 夢見ることもかなわなかったこの男の子の大きな腕、広い胸にすっぽりと抱きしめられると、泣きたいほどの温かさに包まれるのだけれど、彼の熱い唇やてのひらはそれ以上の、持て余すような熱を与えてくるものだから、困ってしまう。千秋は自分の身体が、硬い殻に覆われた心ごと柔らかく融けてゆくように感じていた。それは、どちらかといえば頼りなく心細い感覚で……。 気がつけば千秋は、声にならない声で、何度も何度もこの愛しい男の子の名前を呼んでいた。 それは、確かに、今に始まったことじゃない。出会った頃も、会えなくなってからも、そして再び会えるようになってからも、彼女は何百回となく彼を呼び続けてきた。それがずっと彼女の勇気の素になっていたのだけれど、彼女がそうするのはあくまで自分の心の中でだけのことだった。 だから何度呼んでも、それを受け止めてくれる人は、いつも目の前にいない。だけどその夜は違ったのだ。彼女が呼ぶたび、陸は言葉や仕草で答えてくれる。そのことが、涙が出るほどうれしくて、千秋は何度も何度も陸の名前を口にした。 少し落ち着いた気持になった今だってそう。一緒にいるとき、なんの脈絡もなく彼を呼んで何度も振り向かせ、「変なやつ」とあきれられたりしてる。 陸は小さな苦笑を浮かべ、振り向いたまま、少し後ろを歩いていた千秋が自分に追いつくのを待った。参ったなあ……と思う。この意地っ張りのおねえさんは、思いが通じ合ったからといってそう簡単に大人の態度を変えないくせに、ふと唐突に、甘えるように名前を呼んだりして、陸に眩暈を起こさせるのだ。 あの夜以来、彼は情けなくも骨抜きになってしまった自分を自覚している。 急ぎ過ぎてはいけないと思っていたのに、気がつけばただ欲しいという気持で胸はいっぱいになり、いつもの自分にはありえないようなスピードで車を飛ばしていた。2人きりの部屋で、何度も夢に見たように強く強くその身体を抱きしめると、痺れるような感動に全身が満たされ、後はただもう、愛しい気持が走り出すのを止めることができなかった。 それからの自分は、なんだか自分じゃなかったような気がしている。長年の思いが暴走しないよう、そして彼女を壊してしまわないよう、何度心にブレーキをかけなければならなかったことか。なのに、そんな彼の性急な仕草を、彼女の身体は柔らかく受け止めて、きちんと蕩けてくれたものだから、陸はますますどうにもならない気持になってしまったのだった。 何度も自分の名前を呼ぶ、甘く掠れた声が、今も耳に残っている。 「陸――?」 再び名前を呼ばれ、我に返った。千秋が不思議そうな顔で陸を見上げている。間近に見るその表情に、またしても眩暈を感じ、陸は思わず手を伸ばして千秋の肩を抱き寄せた。 「行こう、悠と沙希さんが待ってる」 どうしよう。俺、お前に、溺れたかもしれない……。そんなことを言えば、彼女はどんな顔をするだろう。 でも、それでいいんだ、そう思えた。どうせ溺れるなら、ずっとずっと溺れていたい。ずっとそばにいて、こうしてその温もりを感じて、彼女の人生に、全身で浸り続けていたい。 それこそ、俺が望んでいたことだったんだから……。そう思うと陸はなんだかやたらと幸せな気持になり、 「り……陸――。ちょっと待って……」 往来の真中、人目も気にせず千秋をぎゅっと抱きしめてしまったのだった。 「だからって、何も急にそこまでラブラブになっちゃうことはないんじゃないの?」 沙希はあきれて言った。 なんでそこまで、といいたくなるぐらい、自分の気持を押さえ込んでいたふたりを、沙希はずっと見守り続けてきた。ときにはもどかしくて、後ろから蹴り飛ばしてやりたい気持に何度もなったことも事実。だけど、いや、だからこそ、こうも一転して人目もはばからず仲睦まじくしている二人の姿を見てると、その違和感に戸惑ってしまい、文句のひとつも言いたくなる。 「ちょっとは人目ってものを気にしなさいよ。ずうーっと先からでも、ベタベタしてんのがわかったわよ。ほんと恥ずかしい」 「そ……そうかなあ」 千秋は赤くなって、つないだ手をはずそうとする。陸はその手をぎゅっと握って引き止め、口をとがらせて言った。 「いいじゃん、今までできなかった分、取り返してるんだから」 まったく、相変わらず無邪気なやつ。沙希はほほえましい気持になったが、そんな彼をますますいじめてみたくなるのが、彼女の性分というものである。もしかすると、千秋をしっかり自分のものにしてしまった彼に対するやきもちも、少しはあるのかもしれないけれど。 「悠、どうする? お母さんとられちゃったじゃない」 沙希は部屋のすみで天馬と遊んでいる悠に声をかけた。だけど彼女は気にする様子もなく、にっこり笑ってこう答える。 「いいの、だって、陸も大好きだもん」 「聞いた? 『大好き』だぜ、『大好き』。悠、もっぺん言ってみな」 「陸、大好き!!」 「くーっ、たまんねー。 もっぺん言って」 悠の言葉にまたまた盛り上がってしまった陸に、半ばあきれて、沙希はそれ以上、なにも言わなかった。ほんとに、幸せな子だわ。ふと千秋を見ると、彼女はただにこにこと、本当にうれしそうに笑っている。 長いこと付き合ってきたけれど、こんなに穏やかで満ち足りた千秋の笑顔を見るのは、初めてだった。 沙希は、同じ職場で働き始めた頃の千秋のことを思い出していた。改札の向こう側に消えていった、力のない後姿。自らの無気力という壁に阻まれ、日々の生活だけは必死でこなしながらも、どうにも動けずにいた彼女のことを。 沙希だって同じようなものだった。千秋よりは力があり、なんだかんだともがいてはいたけれど、結局現実から抜けられないという点では同じだった。2人とも、今みたいな日々がやってくるとは、当時は夢にも思ってなかった。 人生って、そう悪いものじゃないんだわ。ビールの酔いと、幸せそうな千秋の笑顔に、めちゃくちゃ楽観的な気持になりながら、沙希は思う。 1歩を踏み出す、ほんの少しの勇気があれば、何度でもやり直しがきくものなのだ。もちろん運命の後押しも少しは必要だけれど。 「あっ、なんかすでに、盛り上がってる」 急ぎの仕事を終えて帰ってきた翔一は、ドアのところで目をぱちくりさせて立っている。その姿を見つけた陸は、相変わらずすばやい動作で立ち上がり、彼に缶ビールを手渡しに行った。 「翔一さん、ひでえなあ。俺たちの婚約パーティーに仕事だって?」 「えっ? そうだったの?」 背広姿のまま、ビールを受け取ってソファに座りながら、翔一は驚いて沙希を見る。今日のパーティーに、確かこれといって名目はなかったはず。沙希は肩をすくめ、首を振った。 「聞いてないわよ、わたしもそんなこと。初耳だわ」 「だって初めて言うんだもーん。っていうか、今決めたんだ。俺、千秋と結婚する」 「陸、お前、酔ってる?」 翔一は恐る恐る聞く。 「ぜんぜん、だって今日は千秋の家に車置いてるから」 彼が手にしたウーロン茶のコップを見て、翔一は納得する。…ってことはナチュラル・ハイなわけだ。 そこに至って、肝心の千秋がまだ一言も発していないことに気づき、彼と沙希は同時に千秋の顔を見た。 「えっ? なに?」 千秋は夢から醒めたような顔でふたりに聞く。 「なに…って、千秋さん。今、陸が千秋さんと結婚するって…」 翔一の言葉に動じることなく、千秋はにっこりと笑った。 「いいんじゃない? 私はぜんぜん、かまわないわ」 あーあ、こっちはすっかり、出来上がってる。ふたりはため息をついて、顔を見合わせる。普段の千秋がこんなときに、落ち着いていられるはずはないのだ。事態をまったく理解していないに違いなくて……。 「千秋さんって、あんなに酒、弱かったっけ?」 「昔はあんな風に酔っ払ってるとこ、しょっちゅう見たけど……」 小声で言い交わすふたりの会話を聞いているのかいないのか、どこまで冗談なのか本気なのか、陸はひとりで「やったー!!」と盛り上がっている。 そういえば、こういう陸を見るのも、なんだか久しぶりだわ、と、沙希はふと思った。まるで高校生の頃に戻ったように、無邪気にはしゃいでいる。胸のつぶれるような、様々な辛い体験と、限界を超えて走りつづけてきた長い時間が、彼から今日のような笑顔を奪い去ってしまっていたことに、沙希は今さらのように気付いた。人はそれを「大人になった」と言ったりするけれど。 ま、いいか、と彼女は思う。あの笑顔を、本来ののびやかさを、長い長い戦いの果てに、彼はようやく取り戻したのだから。この呆れるばかりのはしゃぎようも、今日ぐらいは、許してあげようじゃないの。 とはいえ、彼が悠をつかまえて、こんなことを言い出したときには、さすがに焦ってしまったけれど。 「悠、今日から俺のこと、『お父さん』って呼んでいいからな」 「ちょ、ちょっと陸、それは早すぎ……」 沙希はあわててフォローしようとしたのだけれど、それよりも早く、悠は顔をぱっと輝かせて「ほんとにいいの?」と、聞き返したものだから、驚いてしまう。 この女の子は、とっくに陸のことをそんな風に思っていたんだわ。 「おう、何度でも呼んでくれ。ためしにいっぺん、言ってみな」 「おとーうさん」 「くーっ、たまんねー。もっぺん言って」 またやってるよ。沙希は今度こそ脱力してしまって、翔一の肩にもたれた。 「ま、いいんじゃないの?」 翔一が笑って言う。 明日、目覚めた千秋が今日のことを知れば、きっと大騒ぎになるに違いない。でも、結局すべてはなるようになるだろう。長い道のりの果てに、ふたりはようやく、ここまで来たのだから。 長い旅だった、ふたりを見守り続けてきた自分自身にとっても……。沙希はなんだか感傷的な気持になって、苦楽を共にしてきた親友を見た。千秋はやはり、にこにこと笑いながら、何も言わず、大好きな男の子を優しい瞳で見ているだけなのだった。 悠を背負った大きな背中を見ながら、千秋はしんと静まり返った夜道を歩く。 陸はときおり足を止めて振り返り、彼女が追いつくのを待ってくれた。にもかかわらず、気が付くと2、3歩遅れて歩いているのは、本当は自分がそうしたかったから。 「陸――」 千秋はそう、呼びかける。なんの意味もなく呼んでいるとわかっているはずなのに、この大きな男の子は、律儀に振り向いてくれる。 それが無性にうれしかった。名前を呼べば、きちんと振り向いてくれる相手がいることが。 「なーんだよ。よっぱらい」 陸は、そう答えて笑った。こうして何度も名前を呼ばれているのに、何度呼ばれても、嬉しい気持は変わらなかった。振り返ればいつも、ぱっと輝く笑顔が、彼の心に灯をともすから。こんな気持を遠い昔に、味わったことがある。そう、泣き疲れて眠った彼女が、眠りの中で「陸」と自分の名を口にするのを、初めて聞いたとき。 ひょっとすると、彼女の心のどこかには自分がいるのかもしれない。あの時初めてそう思った。その直感を信じていれば、こんなに遠回りすることもなかったのだろうか。 過去を悔いても仕方がないけれど。 今だって彼は、信じられないでいるのだ。だからいつも不安でしょうがない。沙希にいくら文句を言われようとも、常に千秋に触れていないと気がすまないのはそのためだ。いつも手を繋いでいないと、消えてしまいそうな気がして……子供じみているのは、わかっているけど。 今もそう。呼ばれずとも、何度も振り返り、確かめてしまう。愛しい人がそこにいるのを。 本当は肩を抱いて、その身体を腕の中にすっぽり包み込んだまま、歩きたいところだった。背中に感じる温かさと重みは、また違った意味で彼を安心させてくれるから、どうにかがまんしているけれど。 ふと、後ろで足音が乱れた。陸は思わず足を止める。 「大丈夫か? だから車、取りに帰ってやるって言ったのに」 少しばかり飲みすぎた千秋を歩かせるのは、ほんと言えば気がかりだったのだ。だけど彼女は笑って首を横に振った。そして、こんな言葉で彼をいっぺんに天国へ連れて行く。 「だって、陸と歩きたかったんだもの」 まっすぐに自分を見る瞳にくらっときて、陸は一瞬、歩き出せなくなる。 そして、思わずこう、答えを返していた。 「俺も、お前と歩きたい。これからも、ずっと…」 この言葉に込められた意味を、この酔っ払いのおねーさんは、分かってるだろうか。 にっこり笑ってうなずいた千秋を見て、少しばかり不安な気持になる。でも、ま、いいや、と思い、陸は再び歩き出す。 これから先、何度でも言えばいい。そう、思ったから。 本当はそれほど、酔ってはいなかった。だから千秋は、今彼が口にした言葉の意味も、きちんとわかっていたのだ。 沙希の家で、「結婚」だなんてとんでもないことを陸が突然言い出したときも、彼女の頭はクリアだった。なりゆきのように、冗談のように彼が口にした「本気」を、その場の誰よりもわかっていたのは彼女だった。 そんな言葉を口に出してプロポーズなんかしなくても、陸のこれからの人生に、千秋と悠がしっかりと組み込まれていることは、そばに居るだけでいつも痛いほど伝わってきたから。 あまりにも幸せ過ぎて、酔ったふりをするしかなかった。こんな幸せには慣れてないから、どうすればいいのかわからない。わけのわからないふりをして、やり過ごすしかなかった。沙希にはいらぬ心配をかけてしまったみたいだけれど。 何度目だかわからない、涙ぐみそうな気持をかみしめながら、千秋はふたたび、陸の後ろを歩き始める。 こうして静かな夜道を歩いていると、初めてこの男の子と一緒に歩いた日のことを、思い出さずにいられない。ティーンエイジャーのように爆発しそうな心臓を抱えて、まだ馴染みのない憧れの男の子と、思いがけず肩を並べたあの日のことを。 あのとき初めて、彼の名を知った。ただ立っているだけで、すべてを包み込むような大きさを感じさせるこのこの男の子には、笑ってしまうぐらいぴったりな名前だと思った。軽快な歩き方に若さを感じて、切なくなった。思い出は尽きない。 今、こうして悠を背負って歩いていても、その、力のある楽しげな歩き方は、変わらない。この長い間に、様々なものを背負わせてしまった。にも関わらず、彼が変わらないでいてくれることが、涙が出るほどありがたい。いつか、同じように彼の重荷を引き受けてあげることが出来れば、と、思う。 楽しいことも、辛いことも、すべてを分け合って、歩いて行こう。それが、いっしょに生きて行く、ということなのだから…。 この素敵な男の子が、その相手だなんて、長い間信じることのできなかった千秋だけれど。 彼の気持を、その運命を、今なら信じられるから。 「陸……」 もう一度、千秋は、「元気の素」の名前を呼ぶ。 - END - |
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