L.N.S.B [ Story - 5]
「なあ、塩がないんだけど」
 苛立った声に何度も呼ばれ、根負けした千秋は、ブラシを片手にあわただしく洗面所を出た。
 智史はずいぶん前に用意した朝食にいまだ手もつけず、不機嫌な顔をしている。
 狭いダイニングだ。塩の瓶は、彼のすぐ横の棚、手を伸ばせば簡単に届くところに見えている。出勤の時間はせまっていて、1秒を争う気持ちで準備していたところだった。慣れたとはいえ、やはりむっとする。むっとしながらも、黙って瓶をとり、テーブルの上に置く。
 こんなときの彼は意固地だった。おそらく無視すれば、朝食に手をつけず出ていくのだろう。もしかしたら以前何度かやったように、コップのひとつやふたつ、叩き壊して行くかも知れない。せっかく作った朝食を無駄にされ、割れた破片を片付けるために遅刻するぐらいなら、言う通りにした方がいい。たかが塩1本なのだ。
 とはいえ、たとえ塩一本のことでも、共働きの忙しい毎日に際限なく重なれば、相当なストレスとなることに変わりはない。
 結局智史は、何が気に入らなかったのか、テーブルに置かれた塩の瓶に触りもせず、気のない様子で朝食の皿をつつき、黙って出て行ってしまった。半分以上残った中身をゴミ箱に捨てながら、千秋はため息をつく。彼女自身には朝食を食べる時間も、食べようという意欲も残されていなかった。
 私はいったい、いつまでここにいるつもりなんだろう。ふと、そんな疑問が胸に湧く。今からでもいい、仕事に出かけてそのままここに戻らなければ、こんなことを繰り返さずにすむのだ。当分はホテルにでも泊まって、住むところを探して……。
 だけどそんなことを考え始めると、決まって頭の芯がかすむ。現実的なことをあれこれ考えるのを、心が拒否してしまうのだ。気がつけば、足が萎え、立ち上がりたくなくなっている。仕事にすら行きたくないと感じている自分に気付き、千秋は身震いした。
 閉じた瞳の中にふと、あのお陽さまのような笑顔が浮かんだ。思わず無意識に、覚えたばかりのその名前を心で何度も繰り返す。少し胸の中があたたかくなり、元気が出た。千秋はほっとして、汚れた皿はそのままに身支度をすませ、家を出て職場へと向かった。



「ちょっと、またケチャップついてるよ。陸ってばほんと、しょうがないんだから」
 向かいの席から紙ナプキンを持った手が伸び、口を拭われる。
 気にせず大きなハンバーガーにかぶりつくと、再びケチャップがつく。もう一度手をのばしてそれをふき取り、小さなため息をつきながら、それでも彼女はなんだかうれしそうだ。
 くるくるしたボーイッシュなショートの髪がよく似合う、あごのとがった細い輪郭の顔。でも、睫の長いぱっちりとした瞳と、ふっくらした赤い唇がちょっと色っぽい感じで。
 志村麻優里のファンだという男は、学年の上下を問わず少なくなかった。陸もそのひとりだったわけで……。だから、去年の冬に、彼女に「付き合ってほしい」と言われたときは、そりゃあもう驚いた。付き合い始めて4ヶ月、かなりハッピーな状況なのは確か……ではある。
 でも、やたら姉さんぶるのだけはやめてくれないかなーと、正直なところ思ってる。もうすぐ誕生日を迎える彼女は、3月生まれの陸に比べると、同じ学年といっても1年近い開きがあるわけで、彼女の方がしっかりしてることは、認めるけど。
 逆に陸はその無邪気で天然な言動のせいか、大きなガタイのわりには周りから子ども扱いされることが多い。麻優里はどうやら、彼の庇護欲をそそるというか、母性本能をくすぐるところに惹かれたのであるらしい。いや、なんのことはない、今まで付き合った女の子たちだって、みんな同じパターンだったりするのだけれど。
 そうかと思えば、11も年上のくせに、やたら頼りないやつもいるしなあ。と、陸は千秋のことをつい、思い出してしまう。 
 彼女と親しく話すようになって半月、早番の時はいっしょに帰ったりもするのだけれど、何度手を貸してやらなければならない場面に遭遇したことか。財布を落とす、小銭を落とす、定期入れを落とすなんてことはざらだし、何もないところでつまずく、歩道を踏み外す、ひどいときには赤信号を平気で渡ろうとする。目がかなり悪いらしいのだけれど、「眼鏡もコンタクトもあまり好きじゃない」って、そんなこと言ってる場合か。あいつは絶対、早死にするタイプだ。
 いつしか陸は、彼女のことを「千秋」と呼び捨てにし、「お前」と呼ばわって憚らなくなっていた。あまりの頼りなさに、「ツレ」扱いせずにはいられなくなったのである。「おい千秋、お前そこの看板見えてないだろ。そのまま歩いてるとぶつかるぞ。ほんとにお前はしょーがねえなあ」って具合。でも、いつも子ども扱いされてる自分が、年上の女の人の保護者気分でいられるというのも、内心悪くない気分だったりするのだけれど。
「陸、どうしたの? ぼーっとしちゃって」
 不審気に声をかけられて我に返る。真向かいから、なにやら疑惑の目でじっと見られて狼狽した。
「なに、考えてたの? 黙っちゃって」
 彼女の勘の鋭さには、ときどき参ってしまう。彼はあわてて言い訳を考えた。
「えーと、もうすぐ麻優里の誕生日だなあって思って。プレゼント、何にしようかなあとか、考えてた」
 とがった唇が、にっこりと緩む。
 やっぱり、可愛いなあと、思った。



「まさか、そんなことが遅刻の原因だったなんて……」
 今朝始業の時間に五分ほど遅れた理由を、たずねられるままに千秋が話すと、沙希はため息混じりにそう言ったきり、絶句した。
 その様子に、千秋は自分と智史の関係が普通ではないことを改めて実感してしまう。
 昼休み、職場近くの公園に3人で来ていた。いびつな三角形のような形をした、そう大きくはないその公園は、都会の真中にあるせいか、いつも賑わっていた。
 浅いすり鉢型の階段に座り、近くのチェーン店で買ってきたコーヒーを飲みながら話をしていると、まわりのざわめきが嫌でも耳に飛び込んでくる。深刻な話をするのに、逆にこれほど都合のいい場所はないのかもしれなかった。
「いつもそんな調子なの? あんたのダンナは」
 そうたずねられ、千秋はさして考えることもなくうなずいて答える。
「もう慣れたわ。どうってことない」
「ずっとこのままでいいと思ってるの?」
 重ねて聞かれ、答につまった。
「わからない……」
 正直に答えるしかなかった。千秋はうつむき、繰り返す。
「本当に、わからないの」
 わかっているのは、例えこのままでいいなどと思っていないとしても、何かを変える力など自分には残っていないということ。
 初めから、間違っていたのだ。智史を変えようと躍起になったり、不毛な言い争いを繰り返したり、彼の身を案じて夜も眠れないほど心配したり、そんなことに気力を使い果たすぐらいなら、自由になること、彼から離れることに必要なパワーを残しておくべきだった。だけどもう遅い。
 そもそも、智史に対する接し方自体が間違っていたのかも知れない。もう少し違う方向から努力を重ねていれば、彼は変わってくれたのかも知れない、そんな風にも思えてくる。
「私のせいよ。たぶん、こうなったのも」
 いくぶん投げやりな気持になり、千秋は言った。
「嫌なことは嫌、納得いかないことは納得いかない。それをはっきり伝えるのが一番いい方法だと思ってた。でも考えてみたらこの3年間、ケンカばかり。私、ちょっと感情的になり過ぎてたのかもしれない。いつもヒステリックで、相手を責めることしかできなくて。智史が意固地になるのも当然なのかも」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
 沙希はあわてて言った。あまりにも予想外の千秋の言葉に、思わず声が高くなるのを自分でも感じる。
 千秋のせいじゃない。どう考えても、おかしいのはダンナの方だ。彼女が忙しいことをわかっていて、目の前にある塩の瓶を取ることを強要し、それを使いもせず、食事すら残して出て行くなんて、常軌を逸している。わざと相手の気力を萎えさせるためにそうしているとしか思えない。
 いろいろと問題の多いダンナだとは聞いていたけれど、ここまでとは思わなかった。何とか千秋に目を覚まして欲しくて、沙希は必死に言葉を重ねる。
「誰だって押しつぶされそうになったら、悲鳴を上げたくなるわよ。ヒステリックになるのも当然なのよ。問題は、あんたのダンナがずっとその悲鳴を無視し続けてるってことなんじゃないの。自分を責めるのは間違いなんじゃないの?」
 でも、そんな言葉も千秋の胸には届かなかったみたいだった。表情のないその横顔を見て、なんだかとても心が弱ってると感じる。暴力を受け続けている女性は、プライドをなくし、最後にはすべてを自分のせいにしてしまうようになるのだと、聞いたことがある。目に見える暴力は受けていないにしろ、彼女も今はそれに近い状況にあるのかもしれないと思った。
「とにかくもういいの。なるようにしかならないわ」
 最後に彼女はそう言って、話は終わりだった。捨て鉢になっているのか、それともまだ夫が変わることを信じているのか、その表情からはうかがえない。わかっているのは、これ以上自分が何を言ってもしょうがないということだけ、沙希はため息をつき、話題を変えた。
「そう言えば最近、仕事が減って残業が少なくなったって社長が言ってたけど、まっすぐ家に帰ってるの?」
 うろたえ気味にうなずく女友達の顔が、ほんの少し赤くなったような気がして、沙希は一瞬、「え?」と思った。
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