L.N.S.B [ Story - 4]
 数日後、バイトを終えて帰るとき、陸は欲しいCDがあったことを思い出した。カフェの向かい側には、アメリカ資本の大きなCD屋があるから、こんなときは便利。えーと、誰のアルバムだったっけ……そうだ、レッドホット・チリ・ペッパーズのニューアルバム。「レッチリ、レッチリ」と口の中でつぶやきながらゲートをくぐると、見覚えのある姿が目に入った。
 そういえば彼女、今日は店に来てなかったんだっけ。ちょっと寂しいなと思ってたから、思いがけず姿を見ることができたのは、なんだかうれしい。
 ブラックミュージックのコーナーに「千秋さん」はいた。すでに5、6枚のCDを抱え、なおも熱心にぱたぱたと棚をのぞいている。シンプルなデニムのワンピースを着た彼女は、いつもより少し子供っぽく見えた。
 いつもの長い髪を今日は無造作に束ね、大きな革のバレッタでとめている。茶色い縁の眼鏡がなんだか可愛い。そういえば、眼鏡をしているところなんて、初めて見た。
 彼女の前のレコード棚には、陸の知らない名前が並ぶ。
 ふーん、なんだかわかんないけど、ああいう音楽が好きなんだ。
 彼は、無心にCDを探す彼女の真剣な表情に好感を持ち始めていた。自分でも気づかないうちに、長い間見とれてしまっていたようだ。さすがになにやら視線を感じたらしい彼女が、ふと顔を上げてこちらに視線を移した。
 どうしよう、と思った時には遅かった。二人はばったりと視線を合わせてしまったのである。

 千秋は思わず「あっ」と叫びそうになるのを辛うじて抑えた。最近無意識のうちに何度となく思い浮かべる顔が、目の前にある。
 このところ、あの店は彼女の貴重な居場所になっていた。憂鬱な心を抱えて駅へと向かう途中、つい引き寄せられるようにふらふらと入ってしまう。ほんの数十分でもここでひとり時間を過ごすと、エネルギー不足の心が元気になれるような気がするのだった。
 だから、決してあの男の子が目当てでってわけじゃない。でも、やっぱりあの笑顔を目にすると元気百倍って気持になれたし、オーダーを取りに来てもらえたりすると、なんだか得をしたような気持もになる今日この頃だったわけで……。
 その彼がどうしてこんなところに? やばい、と思うより先に、自分がすでに思い切り動揺を顔に出してしまっていることに気づく。だけど結局、その動揺が気まずさを救った。次の瞬間、彼女は持っていたCDをばらばらと床に落としてしまったのだ。拾おうとあわててかがみ込むよりも先に、彼が飛んできた。
「大丈夫?」
 膝をついた姿勢のまま頭はパニック状態の千秋をよそに、彼はさっさとCDを拾い上げる。そして一枚一枚裏返して点検したあと、まとめて彼女に差し出しながら、にっこり笑った。
「よかった、ぜんぜん割れてない」
 その笑顔に、まぶしいような気持になりながらも、彼女はどうにか礼を言ってCDを受け取った。
 陸はといえば、なんだかぎこちない彼女の表情に、少し不安な気持になる。もしかして俺のこと、わかっていないんじゃないだろうか。彼はおもむろに窓の向こうを指さして言った。
「俺、あそこで働いているもんですけど、ひょっとして覚えてない?」
 千秋は反射的に指された方向を見た。そこには通い慣れたカフェの門が、やわらかなオレンジ色に光っている。
「あーっ、そうか…そうだったわね」
 千秋は大げさに驚いてみせた。とっさに知らないふりをしたのは、あっぱれ、年の功の成せる技である。だけど相手は少しばかり傷ついた顔をしたので、良心が痛み、彼女はあわてて付け足した。
「ごめん、いつもとぜんぜん違う格好してるから、わからなかった」
 これは本当だった。だぼだぼのアーミーパンツに、迷彩色のパーカー、後ろ向きにかぶった同柄の帽子がめちゃくちゃ可愛い。考えてみれば、ギャルソン風の制服姿以外の彼を見るのは初めてだ。
「でも、本当にありがとね。最近私、ちょっとぼーっとしてるみたいで」
 ようやく調子を取り戻し、千秋はもう一度礼を言った。
「そういえば、前にも小銭ばらまいてるのを見たような」
 彼は笑って答えた。千秋は少し赤くなる。
「そうか、なんか、変なとこばかり見られてるのね」
「バリバリのキャリアウーマンって聞いてたけど、とても見えねえな」
 千秋は「えっ?」と驚いて彼を見た。彼はまずった、という顔をして付け加える。
「えーと、うちのチーフから聞いたんだよ。ほら、誘われたことあるだろ?」
 千秋は少し前までやたらとくっついてきてた軽薄そうな男を思い出した。「結婚してるから」と言うと、あっさり離れていったけれど。
「だからうちの店じゃ、けっこう有名なんだよ。千秋さんて」
「名前まで、知ってんのね」
 もう今さら驚く気にもなれず、千秋が指摘すると、彼は再び、「げっ、やべー」という顔をした。その表情がおかしくて、思わず笑い出してしまう。そうか、わたしのこと、知ってたのね。なんだかくすぐったい気がする。
 店の中には、いつのまにか静かな音楽が流れはじめていた。閉店の音楽だ。
「早く買ってきたほうがいいんじゃないの?」彼が言う。
「う、うん……」千秋はあいまいに答えながら彼とレジカウンターを交互に見た。すでに店内に人影はほとんどなく、レジには行列ができている。しょうがないか。彼女は「じゃあ」と言って、後ろ髪をひかれる思いでレジに向かった。
 お金を払いながら、なんとなく出口のところを見る。彼はちょうど出て行くところだった。そりゃあまあ、待ってもらえるわけもないんだけれど……。

 支払をすませ、なんとなくあわてて外に出ると、ちょっと離れたショーウィンドウのところに彼が立っていたので、千秋は驚いた。どこを見るともなくぼんやりしている彼は、彼女が出てきたことにも気づいてないらしい。
 色とりどりのネオンが彫りの深い端正な横顔を照らし出し、暗くなったショーウィンドウにもたれて立つその姿は、まるで映画のワンシーンのように絵になる。ライトに透けるくしゃくしゃの茶色い髪が不良少年のようで可愛い。
 再び彼を目にすることができたうれしさと、夜の風景に完全に溶け込んだその姿に、千秋はどうしようもなく胸がどきどきしてしまう。まるで恋をしてるみたいじゃないの。先走りする気持に、彼女はちょっとあわてた。深呼吸して気持を落ち着け、何気ない風に声をかけてみる。
 「どうしたの?」
 こちらを向いた彼の、さっきまでのちょっと厳しい表情がふっと溶けた。その笑顔に、やっと静めた気持が再びあわ立つものだから困ってしまう。
 そんな彼女の気持を知るはずもなく、彼はのんびりと答える。
「えーと、ひまだったから、ちょっと待ってようかなと……」
 待っててくれたんだ。うれしい気持の反面、その本心を量りかねて、千秋は答えにつまる。そのとき、店の中から包みを抱えて店員が飛び出してきた。
「お客さーん、おつりと商品忘れてます」
 千秋は自分が手ぶらで出てきてしまったことに、初めて気づいたのだった。



 その後、ひとしきり爆笑したその男の子といっしょに、千秋は夜の街を歩き出した。めったにやらないようなへまのおかげで二人の間の緊張は解けてしまい、なんとなく自然に、千秋の乗る電車の駅まで彼が送っていくということになったのだった。
「そういえば名前、聞いてなかったよね。なんていうの?」
「大沢 陸。字は大陸の陸」
 陸……千秋は胸の中で繰り返す。なんだか、笑ってしまうぐらいぴったりな名前。この名前を自分がこの先何度も心の中で口にすることになるのを、彼女は知らない。
 そこからしばらくは沈黙が続いた。まだまだ夜はこれからという感じのストリートを少しずれると、そこには静かなオフィス街が現れる。その唐突な動と静のコントラストが千秋は好きで、この辺にくるといつも落ち着いた気持になる。どぎまぎする心を抱えて、よく知らない男の子といっしょに歩いている今は、静けさを楽しむ余裕などないのだけれど。
 陸の方はというと、憎らしいぐらい落ち着いた顔で、少し離れた彼女の隣をすたすたと歩いていた。沈黙を気にするたちではないらしい。フットワークが軽いというのか、彼の歩き方はまるでリズムを取っているかのように軽快で楽しげだった。
 千秋が少し遅れ気味に歩いてくるのに気づいて、陸は歩調をゆるめた。ふと、彼女の持ったCDの包みに目をとめ、口を開く。
「すんごいたくさん、買ったんだな。いっぺんにそれだけ買う人って、なんかただものじゃないって感じがする」
 千秋はちょっと赤くなって、答えた。
「お給料日だったから……たまたま欲しいのもいっぱいあったし」
 実のところは、朝から智史のことでむしゃくしゃしていた末の、やけ買いだったのだけれど、それは言えなかった。長いことCDなんて買ってなかった上に、久しぶりに入ったあの店には好みのCDが山ほどあり、ふところが暖かかかったことも手伝って、つい逆上して買いまくってしまったのだ。そんな心理状態のところを彼に会ってしまったものだから、よけいに動転したのかもしれなかった。
「今日はどんなの買ったの?」
「えーと、カーラ・トーマス、エラ・フィッツジェラルド、ダニー・ハサウェイに、アレサ・フランクリンのゴスペル・ライヴとか、いろいろ」
「うわー、ぜんぜんわかんねえ」
「あなたは? 何か買うつもりだったんじゃないの?」
「レッドホット・チリペッパーズの新作。売り切れだったみたい」
「うわー今度はこっちが名前しかわかんないわ」
「レッチリ聴いたことないの? あんなにいろいろ聴いてんのに」
 ここ数年に流行った曲がなんであるかを、彼女は全然知らない。ずっと、音楽なんて聴きたくもない、聴く余裕もない日々を送ってきたから。でも、そんな深刻な事情を彼に話す気などさらさらなく、彼女は問いを重ねる。
「今の洋楽って、どんなのがいいの? 古い曲ばかり聴いてるから、わかんないのよね」
「うーん、俺もあんまし詳しくないんだ。バンドやってる友達がいろいろ教えてくれるけど。オアシス、コールドプレイ、シェリル・クロウなんかがいいんじゃないの?」
 何時の間にか、年齢の差なんてものはするりと飛び越えて、二人の会話は調子よくすべりだしていた。

 陸は、千秋が相手ならいろんなことを率直に話せることに自分でも驚いていた。実は、店の外で彼女を待っていたのは、いっしょに帰ったことを店長やバイト仲間に自慢してやろうという軽い気持から。なのに、そんなことはすぐに忘れてしまったぐらい、彼女と話すのは楽しかった。なんていうか、よけいなことをあれこれ考えないですむのだ。
 同年代の女の子だとこうはいかない。こんな話をしてもきっとわかんないだろうとか、つまんないだろうとか、いちいち頭の中で考え、「翻訳」しながらしゃべってる。彼は思ったことをそのまんま口に出せる心地よさ、自分の言葉で話せる自由さを味わっていた。相手はほとんど初対面の、しかもずいぶん年上の女の人なのに。なんだか男のツレ、しかもとびっきりの親友と話してるみたいに楽しい。
 なんでこうなるのかはわからないけれど……。一生懸命話を聞いてくれる千秋の相槌につりこまれるように、陸は少しずつ早口になっていった。だって駅まで少ししかないというのに、話したいことは次から次へと出てくるのだ。やだな、もっとクールに決めたいとこなんだけどな。だけど短い道のりであるからして、あっという間に駅についてしまったとき、彼は心底がっかりしてしまうんだった。



 千秋は心地よい疲れを感じながら、部屋に戻った。智史は今夜も帰っていなくて、今日ほどそのことをありがたく思えたことはなかった。久しぶりに気持良く眠れそうな気がする。今日はシャワーぐらい浴びなきゃ。時計を見ると、一時をまわっていた。眠いはずだわ。
 結局、終電までの一時間あまり、二人は駅前のベンチに座って話を続けたのだった。
 春の夜はまだ少し肌寒く、彼は缶コーヒーをおごってくれた。「えーい、俺のおごりだ。なんでも好きなもん言ってみな」あの得意そうな顔、思い出すたび笑ってしまう。いつもは好まない缶コーヒーの甘さと中途半端な暖かさが、なぜだかおいしく思えた。
 あんなふうにただひたすら喋りつづけたことなんて、何年ぶりだろう。食事をするわけでも、お酒を飲むわけでもなく。寒いとか退屈だなんてちっとも思わなかった。
 最初はとにかく彼の話にうなずいていた。好きな音楽のこと、映画のこと、バイト仲間のこと。彼の言葉は、その動作と同じようにテンポが良く、時おり口にするジョークが新鮮で可愛い。ほんの少し舌ったらずで、抑揚を抑えた声は耳に心地よく、いくらでも聞いていられるような気がする。だいたい、くるくるとよく変わる表情や、言葉に合わせてリズムを取るようなちょっとした仕草を見ているだけでも飽きないのだ。
 それでも後半は千秋もよくしゃべった。おすすめの音楽や好きなミュージシャン、最近(と言っても彼女の場合ほんとはずっと昔なのだけれど)読んだ本や見た映画の話。
 そうこうしてるうちに終電の時間がせまり、ぎりぎりまで座っていた彼は、名残惜しそうな顔をしながら、それでもダッシュで帰って行ったんだった。
「じゃあなー、またいっしょに帰ろうぜー」
 走りながらそう言って思いっきり手を振る彼に、改札の向こうから、余裕の笑顔を返す。
 そんな彼女の心の中は、実はちょっとした嵐だったのだけれど……。
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