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付き合い始めてから、結婚するまでの2年間、森川智史はかなり理想的な恋人だったと思う。 いつも穏やかで優しく、常に大人で、声を荒げたことなど一度もなかった。そして、誰から見ても千秋に夢中で、そこまでしなくてもいいのに、と思ってしまうぐらい、彼女のことを大切に扱ってくれた。端正な顔立ちに落ち着いた物腰。「ほんとにいい彼氏よね」と、周りから何度言われたか知れない。 でも、それって本当の自分を出してなかったってことじゃないかと、今は思うのだ。滑らかで破綻のない性格、誰もが好感を抱かずにいられないような人当たりの良さ。でも時々何を考えているのか、わからないようなところがあって、微かな不安を感じることもあった。 そんな彼に本当の違和感を覚えはじめたのは、婚約が決まった頃だと思う。結婚の準備を進めて行く中で微妙に意見が食い違い、千秋が「こうしたい」と思うことをはっきり口にするたび、微かに苛立ちのようなものを見せるようになったこと。あれこれ口を出してくる彼の両親に対して終始従順を貫き、決して千秋の側には立ってくれなかったこと。「君は森川家の人間になるのだから」と何度となく言われたこと。「あれ?」と思うことはいくつかあった。 でも、そんな小さな疑問はふだんの優しさと慌しい日々の中に埋もれ、気が付いたら、変わってしまった夫を前に、途方に暮れていたというわけ。 そう、結婚を境に、智史ははっきりと変わった。 千秋が仕事を続けることはもちろん、女友達と出かけることすら、露骨に嫌がるようになった。自分が居るときに少しでも彼女の帰りが遅くなると、苛立った声でところ構わず電話をかけまくるものだから、周りは大騒ぎになる。彼の母親にもそのたび大げさに嫌味を言われた。千秋はいつしか萎縮してしまい、外に出かけることすら面倒だと思うようになっていった。 家の中のこともそう。共働きとは言え、仕事で忙しい智史に家事の分担など初めから期待していなかった千秋だけれど、それでも、一人の男の面倒をみることがこれほど大変なことだとは思わなかった。 普通大人の男なら自分でやるだろうと思えるような細々した身の回りのことすら、智史は絶対にやらない。そんなことをするのは沽券にかかわる、とでもいうのだろうか。目の前にあるものを取らない、脱いだものは放りっぱなし、使ったものはその場に置いたままだし、彼女が忙しくしているときに限ってお茶だのビールだの用事を言いつける。それはもう、笑ってしまうぐらい徹底していた。 その反面、彼自身は子供じみた自由を欲しがる性質であることを、彼女は結婚してすぐに知ることになる。広告会社に勤めていた彼は、仕事も不規則で付き合いも多いことぐらい、もともとわかっていたけど、一切の連絡もなしにランダムにそれをやられるとは思ってなかった。 初めて無断外泊をされたのは、結婚3日目。以来彼女は、夫の居場所を案じて胃がきりきりと痛くなるような夜を何度となく過ごすことになる。電話の1本ぐらいは入れてほしいと、何度言ったところで聞くような相手ではなかった。眠れないまま朝を迎えて、そのまま仕事へ行き、彼女らしくもない失敗を繰り返すことが、少しずつ増えていった。 そうやって無数の用事や心配ごとに縛り付けることで、智史が巧妙に彼女を束縛していたなんて、あまり考えたくないけど、結果的にはそうなった。仕事、家事、智史の世話、彼の身を案じること、そして不満をぶつけ、いさかいを繰り返すことに忙殺される毎日。そんな日々の中で彼女は友人との付き合いからも遠ざかり、仕事はどうにか続けていたものの、結局はリストラされる結果になってしまったのだから。 孤独と混乱の中、ずっと心に問い続けてきた疑問がある。 智史はいったい、どうしてあんな風に変わってしまったのだろう。 そして、結婚生活を悲惨な戦場にしてまで、どうして頑なに自分を曲げなかったのだろう。 「結婚なんて、お前が考えてるほど甘いものじゃない」、それがケンカのたび、彼が繰り返す口癖だった。でも、普通、ひとりでいるよりふたりでいる方が幸せだと思うから、人は誰かと一緒に暮らすんじゃないの? わざわざ自分を、そして相手を不幸に引きずり込むために結婚する人間なんていない。 でも3年の時間をかけて智史がやってきたことって、まさにそれだったような気がする。もちろん、千秋が簡単に自分の思い通りになる相手じゃなかったという誤算もあるだろう。 だけど絶対、彼にもあったはずなのだ。いさかいを繰り返す日々に疲れ果て、こんなことなら自分が折れた方がましだと思った瞬間が。なのに、智史が千秋に対して折れることはついに一度もなかった。そしてこれからもないに違いない。彼自身は、それで幸せなんだろうか。 自分の幸せとは正反対のところで、虚しい努力を続けずにはいられない、そんなタイプの人間が世の中にいることを、彼女は知らない。 中間テストが終わり、久しぶりにバイトに出たその日、陸は「彼女」が店に入ってくるのを見て、少しどきりとした。 出迎えたウェイターと言葉を交わす姿は普通に元気で、わけもなく安心してしまう。やっぱり、なんだか気になるんだよな。もう少し近くで顔を見てみたくて、オーダーを取りに行こうとプレートを手にするが、チーフの素早い動きに先を越されてしまう。 なんでお前がホールに出るんだよ。いつもはどんなに忙しくても手伝うことなんかないくせに。胸の中でぶちぶち言いつつ様子を見ていると、彼らはなにやら親しげに言葉を交わしている。まったく、手の早いヤツだ。呆れるしかない。 にやけた顔で戻ってきたチーフに、イヤミのひとつでも投げてやりたくなった。 「ナンパ、うまくいったんすか?」 しかしイヤミに気づくような男ではない彼は、にやけた顔のまま答えた。 「うまくいったんだかどうだか。『お友達』にはなれたみたいだけどな。あーお前ずっと休みだったから知らないんだな。彼女、あれから何回か来てるんだぜ。おかげで情報はバッチリよ」 そう言って、聞きもしないのにいろいろと教えてくれる。 「名前は椎葉千秋さん。もっとも椎葉ってのは旧姓らしいけどな」 「旧姓?」 「結婚してるんだ。職場でずっと旧姓使ってるから、その方が通りがいいんだと。なんか、キャリアウーマンって感じだよな」 「結婚してるんじゃ、だめじゃないですか」 「いいんだよ、別に。どうこうしようって思ってるわけじゃないから」 その鷹揚さと変わり身の早さだけは尊敬すべきだなと思いつつ、陸はもう一度彼女に目をやった。結婚してるみたいには、とても見えない。 「歳、いくつなんですか?」 「28……なんだよ、興味あんのか?」 陸はあわてて首を横に振った。確かに気にはなるのだけれど、接点がなさすぎる。この男のように、仕事を装って声をかけれるほど、図々しくもなれないし。それに、なんていうか、ひとりでいるときの彼女は、とてもくつろいでいて幸せそうに見える。エネルギーを補給しているって感じ。邪魔するのは、かわいそうに思えるぐらい。 多分、客とウェイターとして以外、言葉を交わすことはないんだろうな。ちょっと残念な気もするけど。 しかしこの手の予感というのは、たいてい、外れるものであったりするのだ。 |
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