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翌日も、少し早い時間に仕事が終わった。新しい職場にだんだん慣れてきたということなのかも知れない。建物を出て、千秋は時計を見る。 まだ8時半にもならない。真っ直ぐ帰れば家に着くのは9時すぎといったところだろうか。自然と足が重くなる。 夫の智史はなぜか最近帰りが早い。昨日も、定時で仕事を追えた千秋が家の近くで少し買い物をして帰ると、彼はすでに家にいた。水割りのグラスを片手にリヴィングのソファに座るその不機嫌そうな横顔を見ると、反射的に胃のあたりが強張った。 智史は真っ直ぐテレビに目をやったきり、帰ってきた千秋の方を見ようともしない。それでいて、彼女が寝室で着替えていると、突然乱暴にドアを開け、「たまに早く帰ってきたときぐらい、さっさとメシを作れ!」と怒鳴ったのだった。 黙って着替えを終え、キッチンに立つ。いつもながら、言いなりになっている自分が情けなく、そして少し可笑しくすらあった。夫が先に帰っているのは想定外のことだったから、大した買い物もしていない。あり合わせのもので夕飯を作り、テーブルに並べる。 智史はそれにひと口、ふた口手をつけたきり、いかにも気に入らないといった顔で立ち上がり、何も言わず家を出て行ったきり、夜中まで戻らなかった。 結婚3年。ふたりの間にあるものは冷たいあきらめの空気だけとなった今でも、智史はときおり思い出したように、こうして自己主張をする。今でも俺は、お前の上に立つ人間なのだと言わんばかりに。 だけど千秋が本当に嫌気がさしているのは、こんな状況にもすっかり慣れ、心を殺すようにして淡々とすべてを受け入れている、自分自身に対してなのかもしれなかった。 今日も、家に帰れば同じことが繰り返されるのだろうか。駅へ向かう道を、ぼんやりと歩きながら、千秋は考える。 帰りたくない、帰りたくない……心が叫んでいる。だけど千秋には行く場所がなかった。実家は遠い県外にある。ままならない結婚生活に時間やエネルギーを費やしている間に、独身時代の友人たちも、付き合いの悪い千秋のことをとっくにあきらめてしまっていた。今でも友人といえる沙希や職場の同僚たちは皆家庭を持っていて、夫や子供の世話に忙しい。 私は、わざわざ孤独になるために結婚したようなものなのかも知れない。雑踏の中、今までにない寂しさに襲われる。 周りの人々が、不審気に千秋を見ながら通り過ぎて行く。いつの間にか自分が立ち止まってしまっていたことに彼女は気づいた。慌てて目を上げ、ゆくあてを探すともなしに視線を向けたその先に、あのあたたかいレモン色の光が見えた。 あったじゃない、行くところが…。なぜだが救われたような気持ちになって、胸の中でつぶやく。まるで何かに引き寄せられるように、千秋は木や草に囲まれた急な階段を下りて行った。 古びた大きな木の扉をギギっと開けて、中に入る。大きなベルの音がカランと鳴って、一瞬、どきりとした。考えてみれば、こんな風に初めての店に独りで入るのも本当に久しぶりのことで、今さらのように少しばかり緊張する。 出てきた店員に案内されるまま、おおきな窓に面したカウンターに座った。 店の中も、かつて千秋が通っていた頃とはまったく違うものになっていた。あたたかな間接照明の中に浮かび上がる、ほどよい明るさの店内。天井は驚くほど高く、さして面積のないこの店を広々と見せている。 どっしりとした感じの木でできたテーブルや椅子がランダムに置かれ、インド風のテーブルクロスがかけられていた。庭と同じように、あちこちに溢れる緑、中央のテーブルにはプリミティブな感じのする置物。天井では南国風の扇風機がゆっくりと回り、シタールの音が空気に溶け込んでいる。 いわゆるエスニック風、でも開放的な感じで居心地がいい。 窓の外に目をやると、テラコッタでできた、変な生き物と目が合った。千秋はそれまでの屈託を忘れ、思わず吹き出しそうになる。さっきまでの重苦しい気持ちは、嘘のように消えてなくなっていた。 不意に、「ご注文は…」と声が降ってきて、顔を上げたその瞬間、首の筋がつりそうになった。 思った以上に高いところにある、そのウェイターの顔から、なぜだか目が離せなくなってしまって。その、不思議に力のある瞳、どこかで見たことがある……少し悩み、あっと思い出した。 昨日ここを通ったとき目が合った、あの男の子だ。 どうしてあんな些細なことを覚えていたのか、自分でもわからない。相手も一瞬「え?」という顔をしたような気がして、どきりとしたが、それは本当に一瞬のことだったから、おそらく気のせいだろう。彼はすぐににっこりと笑みを浮かべた。その表情の変化の鮮やかさ、無邪気な感じのする笑顔のあたたかさに、我知らず見惚れてしまう。 相手の顔に、かすかに怪訝そうな色がうかんだ。あわててメニューに目を落とし、シンハー・ビールとチャパティロールを注文する。 彼は再びにっこり笑ってうなずき、テーブルを離れた。 店は満員に近い客の入りで、ウェイターたちは皆、銀のトレイを片手に忙しそうに動き回っていた。エスニック調のカフェなのにどうしてパリのギャルソン風の制服なのか。だけど開放的な造りのこの店に、彼らの姿は不思議といい感じに溶け込んでいた。そして、あの大きな男の子にも、ツートンカラーの制服はとてもよく似合っていた。 ビールを飲みながら店内をぼんやり眺めていると、どうしたって、彼に目が行ってしまう。 彼は気持がいいぐらいのきびきびした動作で、元気に動き回っていた。遠目にも表情が豊かで、くるくるとよく変わる。ときおり無駄口をたたいて仲間にはたかれたりしているのもお茶目でほほえましかった。 少し色の抜けたくしゃっと無造作な髪や、片耳に光る小さなピアスは、いかにも今風の男の子。いくつぐらいなんだろう。堂々とした体格やたたずまいと、無邪気な仕草のギャップのせいで、見当がつかない。 時間と共に客が減り、少し暇になってからも、彼はじっとしていることがなかった。厨房のカウンターの前に一応、行儀良さげに立ってはいるが、いかにも窮屈そうに、制服の袖を引っ張ったり、襟を引っ張ったりしている。店長らしき人に注意され、そのときだけは一応、神妙な顔になるのが可愛い。 それでも新たに客が入ってくると、きりっと表情をひきしめ、背筋を伸ばしてホールに出て行く。その鮮やかな変化がまた、目を惹きつけるのだった。 本当に、元気だわ。見れば見るほど、とにかく元気の一言に尽きる。こんなに元気な生き物を見たのは、すごく久しぶりのような気がする。 そして、彼女自身はは気づいていなかったが、今の千秋はこういった「元気さ」にものすごく飢えていたことも確かだった。 あっという間に時間がたち、2杯のビールが空になる。初対面の若い男の子をいつまでも目で追いかけている自分が、そろそろ気恥ずかしくもなってきた。帰らなくては。ちょっと名残惜しい気持を残しながら、席を立つ。 テーブルごとに担当が決まっているのか、あるいは単なる偶然なのか、レジに立ったのもまた、あの男の子だった。偶然ならばこれほどラッキーなこともないはずなのだけれど、その背の高い姿と真っ直ぐ向かい合ってみると、情けないことに、どうしたって緊張が先に立つ。 なんとなく焦り、あわてて財布を出して代金を払おうとした千秋は……あろうことか、そのままばらばらと小銭をぶちまけてしまった。 「大丈夫ですか?」 彼があわててカウンターの向こうから出てくる。小銭を拾い集めるその骨ばった大きい手を見ると、千秋はさらにドキドキしてしまって、困った。だけどここはどうにか大人の余裕。動揺を押し隠し、カウンターに戻った彼に代金を払いながら、にっこり笑って礼を言う。 その一連の様子と、赤くなった頬から、彼は千秋が酔っているものと思ったらしい。少し戸惑った表情ながらも、おつりを返しながら「気をつけて」と笑顔を見せた。 その笑顔……千秋は胸の中に小さな灯がぱっとともるのを感じた。「無限の慈しみに溢れた」なんて言葉が大げさじゃないぐらい、あたたかさに満ちた表情。 なんだか元気づけられたような気がした。なぜか、自分は独りではないのだと、確信に満ちて思えた。 外に出ると、生暖かい夜の風が彼女を包んだ。あ、春なんだわと思う。すると突然、世界が本来の色や、音や、匂いを取り戻し、活き活きと瞳に映るような感じがして、彼女は驚いた。 何が起こったんだろう。こんな気持になったのは、ものすごく久しぶりのような気がする。その気持の正体を求めて記憶をたどり、おぼろげな何かにぶつかった。 遠い昔、恋や憧れといったものが彼女の胸にあった頃、世界はいつもこんな風だった。退屈な毎日を活き活きと輝かせ、パワーを与えてくれた思いたち。久しく忘れていた何かが、胸の中で蘇るような心地がして、千秋は春の匂いのする空気を胸いっぱいに吸い込んでみる。 自然とさっきの男の子の顔を思い浮かべ、だけど千秋は苦笑して首を横に振った。なに、浮ついたこと考えてんのよ。家に帰れば、確実に現実は待っているというのに。 背筋を伸ばし、階段を上る。だけどこのとき彼女の胸のなかに生まれたあたたかいものは、いつまでも消えることがなかった。 「あ、財布落とした」ガラスのウィンドウ越しに、頼りなげな後姿を見ながら、陸は思わずつぶやいていた。 階段の途中、ぎこちなく財布を拾い上げるその様子がなんとなく危なっかしくて、いつまでも見ていると、チーフに声をかけられてしまった。 「今の、お前の知り合いか?」 「いえ、違いますけど」 「なんか、しゃべってたじゃん」 「ちょっと酔ってたみたいだったんで、声かけてただけです」 閉店間際の店内、客席はすでにまばらだ。こうなるとチーフというのはヒマなものらしく、テーブルを片付けにかかる陸にくっついて、手伝いもせずにあれこれ話しかけてくる。 「いい女だったな」 「そうすか?」 「いまどきめずらしい、アンニュイな感じっていうの? 色、白くて、細くて、ロングヘアも似合ってたし、雰囲気あったよな」 「アンニュイ」という言葉の意味がわからず、陸は小さく首を傾げる。少なくとも酔っ払って小銭をぶちまけるのをいうわけじゃなさそうだけれど。 あの、さっきの女の人のことを、彼はよく覚えていた。昨日通りがかりにふと視線が合ってしまった時もどきりとしたが、彼女を初めて見たのは、それより少し前のことだ。 ひと月ほど前のことになるだろうか。日暮れ前の薄闇の中、ぼんやりと店の前に立ちつくしていたのが彼女だった。 緑のあふれるこの店の庭は、ガーデニング好きの人たちが足を止めて見ていくことも少なくないから、別にそれ自体は奇異なことでもない。ただ、どことなく放心したような寂しげな様子が、気になって仕方がなかった。 どうしたんだろう。そう思った先から店内の灯りがついて、すっかり暗くなった外の様子が一瞬、見えなくなり、ようやく目が慣れた頃には、すでにその姿はそこになかったのだけれど。 以来、彼は何度かこの前を通り過ぎる彼女の姿を見た。それはたいてい夜もふけてしまった時間だったから、よほど忙しい仕事に就いているのだろうということぐらいは想像できた。すっと細い身体つきはどこか浮世離れしていて、長い髪と同様、目をひいた。何よりも夜の暗さのなかに溶けてしまいそうな、その疲れ切った力のない感じが、どうしても気になってしまうのだった。 だけど、実際近くで見てみれば、酒も飲むし、ドジもする。案外、普通に元気な人だったんだな。だからなんだか、わけもなく安心してしまったのだ。 とかなんとか、あれこれ思い出しながら仕事をしているうちに、閉店時間になった。帰り際に給料明細を渡され、さっそく中身を見た陸は、思ったより多い金額に思わずにやけてきてしまう。これだから夜の商売はやめられない。数ヶ月前に付き合い始めたガールフレンドのことが頭に浮かんだ。あいつのバースデイ・プレゼントは、これで楽勝だな。 と、それきりあの女の人のことは、心から消えてしまったのだけれど。 鍵を開ける音が、真っ暗な廊下に響く。ドアを開けた千秋は、まだ夫が帰っていないことを知る。思わず安堵のため息をついてしまい、なんだか薄寒い気持になった。 今夜は帰って来ないつもりだろうか。それならそれで、かまわないと思う。これが夫婦として正常なことなのか、判断できる感覚が、もはや彼女にはない。 いさかいや言い争いを繰り返した3年間のことを考え、疲れた…と彼女は思う。どうしてこんなことになってしまったんだろう。自分のやり方がまずかったのだろうか。わからない。わかっているのは、これ以上何をやっても無駄だということだけ。 何かきっかけが起こるのを待っているだけ、そんな気がする。自分で決断し、行動を起こすには、今の彼女は疲れ過ぎていたから。 とにかく明日のことを考えよう。早く眠らないと、仕事に差し支える。彼女はシャワーも浴びずパジャマに着替え、ベッドに倒れこんだ。 昔は智史が帰って来ないと、心配で一晩中眠れなかった。 今はむしろ、彼がいない方が穏やかな気持で眠れる。 悲しい変化だと、思った。 |
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