L.N.S.B [ Story - 1 ]
 5時になると、やることがなくなってしまい、千秋は慌てた。
 今の職場へ来て1ヶ月、こんなことは初めてだった。なにか重大な用事を忘れていないかと記憶をたどってみるが、思い当たらない。なにか仕事はないかと周りの者に声をかけてみるが、特にないと言われる。
 今日は本格的にヒマな一日だったらしく、遅番以外の者は、みんな帰り支度を始めている。自分もどうやら仕事を終えなければならないらしいことを悟り、千秋はにわかに空気が薄くなるような心地に襲われた。
 帰らなくちゃならないんだわ、家に……。
 息苦しさを覚えながら、それでも往生際悪く書類をぱらぱらめくっていると、同僚の沙希が来て、彼女の肩をぽんと叩いた。
「どうしたの? なにかトラブルでもあった?」
 傍目にも少しばかり挙動不審であったらしい。千秋は恥ずかしくなって、あわてて首を横に振った。

「ひょっとして初めてかも、千秋と一緒に帰るの」
 職場の裏口の扉を開け、千秋を先に通してやりながら、沙希は言った。
 こんなところは彼女、昔と変らないなと、千秋は少しくすぐったいような気持になる。
 昔から彼女はいつも、沙希といると、守られているような安心感を覚える。この元気でパワフルで世話好きな女友達と同じ職場に通うようになって、なんだか前より少し元気になれたような気がしている。
 学生の頃から、かれこれ十年近い付き合い。互いの環境の変化で会わない時期もあったりしたけど、どういうわけかこの女友達は、千秋に何か困ったことがあると必ず、どこからともなく現れて彼女を救ってくれるのだ。
 今度もそう、前の職場をリストラされて途方に暮れていたとき、数年ぶりに電話をくれて、自分の会社で人を探しているからと誘ってくれたのが、この沙希なのだった。

 ビルの横の細い通路を抜け、通りに出ると、いきなり雑踏にぶつかることになる。
 だけど千秋はこの空気が嫌いじゃない。少し歩いて、さっき出てきた職場を振り返る。古着屋やレコード屋、ビストロやカフェなどが並ぶストリートに完全に溶け込んだ、ほどよく古びた感じのビル。その一階が、彼女の働く小さな旅行代理店だった。
 まだ一ヶ月にしかならないのに、もう何年もいるようだと同僚たちから言われる。以前も同じ業界で働いていたのだから当然とはいえ、女社長が仲間を集めて作ったこの家族的な職場は、かなり千秋の性に合っていたようだ。
 だから、ってわけでもないのだけれど。
「千秋ってば、最近ちょっと働き過ぎじゃない? 社長から聞いたけど、いろいろ仕事引き受けて、連日残業だったそうじゃないの。私たちは助かってるけど、大丈夫なの?」
 不意にそうたずねられ、千秋は心底自分を心配してくれるこの友人に、どう答えを返してよいものか少し迷った。
「大丈夫、仕事は好きだし、沙希たちと違って子供もいないし、気楽な身だもの」
 わざと明るい調子で答える。
「ダンナさんは…って、聞くだけムダみたいね」
 千秋の家庭のことを知っている沙希は、苦笑して言葉を切った。
「逆に、家には帰りたくない…ってところなのかしら」
 重ねてたずねられ、千秋の胸に軽いさざ波が立つ。
 さっき、もう帰らなくてはならないのだと思ったとき、どうしてあんなに動揺してしまったんだろう。誰もいない家に帰りたくないから? それとも逆に、智史が帰っているかも知れないと思うから? あるいは、あの家の空気そのものが、もはや彼女の心を重くするものになりつつあるからだろうか。
「わからないわ」
 千秋は言った。わからない。何かを考えようとすると、頭の芯が靄にかすむ。何も考えたくないと、心が拒否している。もう、疲れてしまったと……。
 最近そんなことが増えたような気がする。

 互いになんとなく言葉少なになりながら、角を曲がり、脇道に入る。そのとたん、メインストリートのにぎやかさが嘘のように遠のき、立ち並ぶ店も、昔からやっているような落ち着いたたたずまいのものが多くなった。
 そんな中、緑に囲まれた明るいガラス張りのカフェが見えてくる。
「あ、ここって…」
 沙希が屈託なく口を開く。
「千秋が昔、歌ってた店じゃないの? この辺り、いつもはぜんぜん通らないから気付かなかった。いつの間にか、こんな店になってたのね」
 沙希はそう言って立ち止まり、門から階下の庭をのぞき込んだ。少し遅れて来た千秋がつられて足を止めると、まっすぐエントランスに目をやったまま、彼女は唐突に言った。
「歌は、もうやらないの?」
 再び心にさざ波が立つのを感じる。
「今はそんな余裕ない。でもそのうちにまた、歌うようになるかもね」
 どうにかさらりと答えはしたけれども……。
 親友の瞳に浮かんだ、どこか痛むかのような同情の色が切なかった。沙希は「そう」と短く答え、再び歩き出す。

 沙希に続いて歩き出しながら、千秋はガラスの向こうの店内に目をやった。中はまだあかりが灯っていなかったけれど、夕方の光が差し込み、明るく居心地が良さそうだった。ギャルソン風の服を着た店員たちが、忙しそうに歩き回っている。
 その中のひとりが窓際のテーブルを片付けながら、ふと、顔を上げた。少し見下ろすような形で半地下の店内を見ていた千秋は、その男の子とまともに目が合ってしまい、少しあわてる。
 相手も少し驚いたような顔をしたが、すぐにさりげなく視線をはずし、テーブルを拭き始めた。だからそれはほんの一瞬のことだったのだけれど……。
 不思議と力強い目の光の残像が、心に残った。なにかひどく心ひかれるものに出会ったような……。そんな胸騒ぎを残しながら、千秋はカフェを後にした。

 まるでそれが当然のことであるかのように、沙希は千秋の乗る駅まで彼女を送ってくれた。うかつにも、改札で定期券を出すまでそのことに気付かずにいた千秋は、あわてて詫びる。
「ご、ごめん、忙しいのにこんな所まで来させちゃって。時間は大丈夫なの?」
「大丈夫。ちょうどお迎えまで微妙に時間が余ってたの。ほんとはもっとゆっくり話がしたかったんだけど……」
 沙希は心底残念そうに言葉を返した。1歳になる息子がいる彼女は、仕事が終わるとすぐ、保育園に駆けつけなければならない。同じ職場で働くようになったものの、学生の頃のように、一緒に飲みに行って時間を忘れて話をすることなどできなくなっていた。
 小さな子供と、あまり協力的でない夫…自分なんかよりもずっと苦労している、と千秋は思う。
「沙希も、大変なのよね」
「そうかも。まあ、うちの場合は実家が近いから助かってるけど。でもダンナはそれが気に入らないみたいで、いつも機嫌悪くて大変よ。それならもう少し、子供の面倒見てくれたっていいのに。男のプライドって、ほんと厄介」
 ぽろりとこぼし、彼女はそれを打ち消すかのように、にっこり笑って手を振った。
「じゃ、また明日」



 沙希はしばらくその場にたたずみ、改札の向こうに消えてゆく親友の後姿を目で追った。
 雑踏の中、ひとりになったとたん、その背中は小さく見える。一緒にいるときは気を張っているようだけれども、千秋がかなり参っているらしいことは、久しぶりに会ったときから気づいていた。
 昔の彼女は、こんな風ではなかった。目に見えてパワフル…というわけではないにしろ、静かに揺るぎなく、自分の道を突き進んで行く強さをいつも感じさせた。
 そんな彼女の真っ直ぐさ不器用さ、危うさと静かな強さが好きで、そして、放っておけなくて、ずっと見守ってきたのだけれど……。
 今の千秋は、人生最大の危機にいる。大げさじゃなく、そんな気がする。かつては常に彼女を支えていた揺るぎない自信、それが今は見られない。
 ろくでもない夫に当たってしまうと、みんな苦労するってことかしらね。でも、あの親友は沙希のように「ろくでもないこと」をあっさりと跳ね除けてしまえるほど強くない。
 「また、歌うようになるかもね」と彼女は言った。そう言えるようになっただけ、ましなのかも知れない。
 沙希は千秋の歌が好きだった。彼女が再び歌えるようになるのは、いつのことなのだろう、と思った。
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