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緑にかこまれたそのカフェの前で、千秋は足をとめた。 夕闇の中に沈み込みかけている、古びた感じの手書きの看板。小さな石の階段を下りた先には、うっそうと木や草が茂る小さな庭。その雑然とした感じは、店というより普通の家の庭先を思わせる。 ぼんやり眺めていると、エントランスへ続く小道をライトアップする小さな灯がともされ、続いてガラス張りになった半地下の店内の様子が、やわらかな光の中に浮かび上がった。 風に揺れる葉っぱの向こう、素通しのガラスから漏れるレモン色の光のなんともいえないあたたかさに、千秋はふと胸を突かれる。 自分の立つ場所をとりまく薄闇が、突然濃くなったような気がした。 長いことここへは来ていなかったのに、不思議と懐かしい感じはしない。かつてこの街が千秋の「庭」だった頃……週に一度は学校や仕事を終えてここへ駆けつけたあの頃にくらべると、目の前にあるこの店の外観は、ずいぶんと変わった。 当時の老マスターは店をたたんで田舎に帰ったという話だから、店自体がもう、違うものになっている。看板にかかれた名前も変わっているし、大きなガラス窓の向こうに見渡せる店内にステージらしきものは見当たらないから、もうライヴハウスでもなくなっているらしい。 開放的な感じといい、所狭しと置かれた植物といい、「癒し系」と呼びたくなるような、今どきのカフェ。半地下のつくりと、どことなくノスタルジックなところは同じだし、これはこれでなかなか悪くない雰囲気なのだけれど……。 以前はどんなふうだっただろう、細かいところを思い出そうとしてみるけれど、思い出せない。ずいぶんと昔のことになるんだわ。あれから何年たつのか千秋は指を折って数えようとしたが、なんだか怖くなって、やめた。でも実際にはそれほど昔のことでもないはずなのだ。 へだたりがあるとすれば、それは時ではなく、千秋自身にだったのかもしれない。 28歳、ウィンドウに映る自分の姿は、見たところあの頃とはあまり変ってない。のばしっぱなしの長い髪と、痩せた身体を包むジーンズにシンプルなシャツやTシャツが今も昔も彼女のスタンダード。昔から流行を追う方じゃなかったし、若いからといって別段、今より見た目に気を配っていたわけでもなかった。 本人は自覚しているのかどうかわからないけれど、彼女はいつもそうだった。自分にとって本当に大切なものはなんとしてでも守り抜くけれど、その他の多くのことはどうでもいい。そんな彼女にとって、今の状況は本当にきつい。大切なものを捨て、どうでもいいことばかりを大事にするよう強いられているのだから。 あの頃、彼女にとって人生は確実に自分自身のものだった。だけど今はそうじゃない。やりたいのにできないこと、やりたくもないのにやらなければいけないこと、そして報われない努力。そういったものが多すぎて、今の彼女をどうしようもなく疲れさせている。 だから目の輝きのないその表情は、何十年も歳をとったみたいに見える。 どうしてこんなことになってしまったんだろう。 こうはならないだろう、と楽観的に考えていた。智史と結婚し三年前のことだ。なにがあっても私は私、この人が自分を変えることはないだろうと。多分、相手が誰であろうとあの頃の千秋はそう思ったに違いないのだ。その考えの甘さを思うと、苦い思いが込み上げてくる。 ギターケースを抱えた女の子が何人かの仲間と笑いながら、店を出てくるのが見えた。その姿をぼんやりと目で追いながら、千秋はなんだか泣きたくなる。 あれは自分なのだろうか。この街を訪れるようになってから、そんな錯覚に襲われることが増えた。 心臓をぎゅっとつかまれるようなこの思い。それが、自分の中で何かが目覚めつつある証拠なのだということに、彼女はまだ気づいていない。 |
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